1-10 神武すAiko こここかす、
神武 綏靖 安寧 懿徳 孝昭 孝安 孝霊 孝元 開化 崇神
11-20
垂にけせちゅお 二里はいあ、
垂仁 景行 成務 仲哀 応神 仁徳 履中 反正 允恭 安康
21-30
雄りゃせけにぶ ケア赤眉、
雄略 清寧 顕宗 仁賢 武烈 継体 安閑 宣化 欽明 敏達
31-40
用めすすじょこ こさてこて、
用明 崇峻 推古 舒明 皇極 孝徳 斉明 天智 弘文 天武
41-50
持統もげげしょ こじゅしょ古歌
持統 文武 元明 元正 聖武 孝謙 淳仁 称徳 光仁 桓武
51-60
平ぜさじゅにも せよこうだ(E Eを意識)
平城 嵯峨 淳和 仁明 文徳 清和 陽成 光孝 宇多 醍醐
61-70 朱雀むれえか いさごごご
朱雀 村上 冷泉 円融 花山 一条 三条 後一条 後朱雀 後冷泉
71-80 誤算志保トス 古語にろた
後三条 白河 堀川 鳥羽 崇徳 近衛 後白河 二条 六条 高倉
81-90 安とごつじゅちゅ ごしごごか
安徳 後鳥羽 土御門 順徳 仲恭 後堀河 四条 後嵯峨 後深草 亀山
91-100後宇多ふごごは ごごちょごご
後宇多 伏見 後伏見 後二条 花園 後醍醐 後村上 長慶 後亀山 後小松
101-110称こごごごご おごごめご
称光 後花園 後土御門 後柏原 後奈良 正親町 後陽成 後水尾 明正 後光明
111-120後西れひなさ もごごこに
後西 霊元 東山 中御門 桜町 桃園 後桜町 後桃園 光格 仁孝
2018関西学院大・教育済国際社会神総合2/2
A.天智天皇は父舒明天皇と母[ ① ]との間に生まれた子で、同父母の弟に天武天皇がいた。即位以前の天智天皇すなわち中大兄皇子は、中央集権国家をめざし中臣鎌足らの協力を得て蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした。これを②乙巳の変という。孝徳天皇のもとで皇太子となった中大兄皇子は、中央の官制を整備し、公地公民制への移行をめざしたとされる。孝徳天皇の没後、斉明天皇の治世を経て、東アジアの国際秩序の変動に対応するため、都を近江大津宮に移し、即位して天皇となった。天智天皇の崩御後、皇位継承をめぐる争いに勝った弟の大海人皇子は、飛鳥で即位した。天武天皇である。内乱によって中央の有力豪族が権力を失ったのに乗じて、③天武天皇は自らを中心とした中央集権国家体制の構築に邁進した。
問1.空欄①に該当するものとして、正しいものを下記より選びなさい。
ア.持統天皇 イ.元明天皇 ウ.元正天皇 エ.皇極天皇
問2.下線部②に関連して、『日本書紀』の改新の詔に書かれていないものを下記より選びなさい。
ア.私有地である田荘や私有民である部曲を廃止する。
イ.戸籍・計帳・班田収授法を定める。
ウ.昔の天皇が立てた子代の民や屯倉を廃止する。
エ.中央に太政官や神祇官を置く。
問3.下線部③に関して、天武天皇とその後継の天皇の施策でないものを下記より選びなさい。
ア.八色の姓を定めた。
イ.庚午年籍を作成した。
ウ.銭貨の鋳造を行った。
エ.飛鳥争御原令を施行した。
(答:問1-エ、問2-エ、問3-イ※庚午年籍は天智天皇、庚寅年籍が持統天皇)〉
〈2018早大・法2/15
618年に中国大陸に興った唐は、国内的には律令に基づく中央集権的な体制を固め、対外的には周辺国を圧迫した。唐王朝の拡大は、朝鮮半島や倭国にも大きな影響を与えていく。7世紀前半、a.蘇我氏は天皇のもとで大きな権力を持つようになり、643年には[ A ]の一族を滅ぼした。一方、激動する東アジア情勢を見極めたうえで、蘇我氏の権力を排除し、天皇を中心とする中央集権的な国家体制を実現しようとする動きが起こる。中臣鎌足と中大兄皇子は、645年、b宮内で蘇我入鹿を謀殺し、蘇我本宗家は滅亡した。乙巳の変と呼ばれるこの政変に続く一連の改革が、c大化の改新である 唐の侵攻で朝鮮半島の百済が滅ぶと、斉明天皇と中大兄皇子は半島に出兵するが、663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗北した。中大兄皇子は、d.敗戦後の国土防衛策を取りつつ、都を飛鳥から近江大津宮に遷し、天智天皇として即位00した。
天智天皇が死去すると、大海人皇子と[ B ]の間で皇位継承をめぐる内乱がおこった。この乱に勝利した大海皇子は、673年に飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位した。天武天皇は大臣をおかず、皇后や皇子と共に政治を主導する皇親政治と呼ばれる体制をとり、e律令国家の実現に向けて急速な整備を進めた。天武天皇のあとを継いだ持統天皇は、飛鳥浄御原令を施行し、藤原京を完成させた。持統天皇は、孫のf文武天皇に皇位を譲った後も太上天皇として実権を握った。文武天皇の即位後には、持統太上天皇と[ C ]が主導し、[ D ]を総裁として新たな律令が編纂され、701年に大宝律令として完成した。半世紀にわたり進められた律令国家の建設は、ここに一応の完成をみたのである。
問1.下線aは、仏教を厚く信仰したことでも知られる。馬子が蘇我氏の氏寺として発願し、588年に造営が始まった寺院を1つ選べ。
あ.四天王寺 い.法隆寺 う.法興寺 え.広隆寺 お.中宮寺
問2.空欄Aには、厩戸王の子で有力な皇位継承者と目されていた人物が入る。漢字5字で記述しなさい。
問3.下線bで、入鹿が暗殺された宮の名称を1つ選べ。
あ.朝倉宮 い.長柄豊碕宮 う.斑鳩宮 え.板蓋宮 お.豊浦宮
問4.下線cは、皇極天皇の譲位を受けて即位した天皇のもとで進められた。皇極天皇の弟にあたる天皇を選べ。
あ.斉明天皇 い.孝徳天皇 う.舒明天皇 え.欽明天皇 お.敏達天皇
問5.下線dとして誤っているものを1つ選べ。
あ.対馬・壱岐、北部九州などに防人や烽火をおいた。
い.大宰府の北に水城を設けた。
う.大宰府の後方にある四王寺山の山頂に大野城を築いた。
え.九州北部から瀬戸内沿いに朝鮮式山城を築いた。
お.朝鮮式山城の造営には、祖国で迫害を受け倭国に渡ってきた新羅亡命貴族が関わった。
問6.空欄Bの人物を漢字4字で記述しなさい。
問7.下線eに関連して、天武天皇の在位中の出来事として正しいものを1つ選べ。
あ.最初の全国的な戸籍である庚午年籍が作成された。
い.身分秩序である八色の姓を定めた。
う.庚寅年籍が作成され、以後、6年ごとの定期造籍の体制が確立した。
え.最初の国史編纂事業である『古事記』『日本書紀』が完成した。
お.甲子の宣が出され、急激な国政改革が断行された。
問8.下線f以降、天武系の皇統が奈良時代後半まで続く。天武天皇の子で文武天皇の父親である人物を選べ。
あ.草壁皇子 い.高市皇子 う.大津皇子 え.舎人親王 お.施基皇子
問9.空欄Cには、鎌足の子で、後に平城遷都や養老律令の編纂の中心となった人物が入る。漢字5字で記述しなさい。
問10.空欄Dの人物を、漢字4字で記述しなさい。
(答:問1-う、問2山背大兄王、問3-え、問4-い、問5お※新羅→百済、問6大友皇子、問7-い、問8-あ、問9藤原不比等、問10刑部親王)
664年(甲子の年、天智天皇3)に行われた内政改革。前年における白村江の敗戦によって、朝鮮半島から全面的に撤退したのち、大陸からの侵攻という危機感と、対外政策の失敗を追及する諸豪族の動向とに対処して、664年2月、大皇弟大海人皇子(後の天武(てんむ)天皇)を政局の正面にたて、内政改革の諸施策を発令した。まず冠位十九階制を冠位二十六階制に改定して、下級官僚の階数を増加するとともに、諸氏を大氏、小氏、伴造らに区分し、それぞれの氏上に、大刀(たち)、小刀(かたな)、干楯弓矢(たてゆみや)を賜って、諸氏を統率する象徴とした。また「其」の民部(かきべ)、家部(やかべ)を定めたが、この「其」を諸氏と解する見方と、特定のものをさす代名詞ではなく置き字と解する見方とがあるが、ここでは諸氏をさすと理解するのが妥当であろう。そして民部、家部設定の意義については諸説が対立しているが、現実に対処した私民的支配の復活であって、次の段階に期待する屈伸政策とみるよりも、広く残り続けた諸氏の私民的支配に、国家権力による統制の手を加え、その認定と登録とを行い、次の段階での収公の前提にしたと理解すべきであろう。この民部、家部は670年(天智天皇9)の庚午年籍(こうごねんじゃく)に登載され、672年(天武天皇1)の壬申(じんしん)の乱を経て、675年に部曲(かきべ)(民部)は収公され、家部は律令(りつりょう)制下の氏賤(うじのせん)、家人(けにん)になって存続した。そして甲子の宣による改革は、白村江敗戦後の危機を回避し、律令国家形成の一段階になった。
701年(大宝元年)8月 大宝律令完成。
なお人逮捕 律令も。
701年 刑部親王 藤原不比等 大宝律令 文武天皇
2013青山学院・文
百済からわが国に仏教が公的に伝えられたのは[ a ]天皇の時代である。
問1.空欄[ a ]に入るもっとも適切な語句を、次の選択肢の中から選べ。
①安閑 ②宣化 ③欽明 ④敏達
(答:③欽明)
2012立大・経済法異文化コミ
ところが、推古天皇が死去すると、再び、皇位継承をめぐる混乱が生じる。田村皇子や、このとき既に没していた厩戸王の子である( ロ )らが、有力な後継者にして存在していたのである。結局、田村皇子が即位し舒明天皇となるが、その後も、( ロ )をはじめとする複数の皇位継承候補者が存在していた。
舒明天皇の死後、その皇后が即位し皇極天皇となる。蘇我入鹿は、( ロ )を滅ぼし、権力の集中をはかった。ところが、蘇我入鹿は、皇極天皇の子である中大兄皇子らに殺害されてしまう。この乙巳の変の後、退位した皇極天皇に代わって孝徳天皇が即位すると、蘇我氏が推していた古人大兄皇子も滅ぼされ、王族を中心とした政治体制ができあがっていった。
孝徳天皇が死去すると、皇極天皇が重祚して斉明天皇となった。このころ、朝鮮半島では戦乱が続いており、660年には、唐が新羅と結んで( ハ )を滅ぼした。朝廷は、( ハ )の復興を支援するための出兵を決め、既に高齢であった斉明天皇も、出兵の拠点となる〈 い 〉宮に移るが、斉明天皇は飛鳥を離れたこの地で死去してしまった。
斉明天皇の次に登場する女性天皇は、持統天皇である。天武天皇の在位中に〈 う 〉皇子が皇太子となっていたが、天武天皇の死後間もなく、〈 う 〉皇子が早世したことから、その母持統天皇が即位したのであるこ持続天皇は、天武天皇の後を受けて、689年に飛鳥浄御原令を施行し、その年から翌690年にかけて、全国的な戸籍である( ニ )を作成して民衆の把握につとめまた、694年には、(6)藤原京への遷都を行った。持統天皇は、〈 う 〉皇子の子が成長すると譲位し、即位した文武天皇の後見役となった。
問A.文中の空所(ロ)~(ニ)のそれぞれにあてはまる適当な語句をしるせ。
問B.文中の空所〈 い 〉~〈 う 〉にあてはまる適当な語句を、それぞれ対応する次のa~dから1つずつ選べ。
問C.これ(藤原京)に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.条坊制が施行された
b.中国にならった瓦茸で礎石建ちの大極殿・朝堂院がつくられた
c.藤原宮跡から出土した木簡には、各地の「評」の記載が見られる
d.藤原宮跡は、平城宮跡よりも北に位置する
(答:問A ロ.山背大兄王、ハ百済、ニ庚寅年籍、問Bい朝倉、う草壁、※ロ~ニは記述、い~うは4択、問Cd×※南に位置)
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