●平安時代(後一条天皇)
Fujiwara no Michinaga is appointed regent.
遠(とお)い昔の 政治道(みち)。
1016年 摂政 藤原道長
藤原氏が権力の座を独占すると、今度は一族内部で摂政・関白の地位をめぐる勢力争いが始まった。
兼道は弟兼家と、道長は甥の伊周(これちか)と争いを繰り返した。
1016年、道長は娘彰子の子後一条天皇の即位に伴い摂政に就任。
この時代、摂関家の勢力がもっともさかんで、藤原氏の中でも頂点に立った道長は「氏長者」として大きな権力を握った。晩年には法成寺を造営し、御堂関白といわれた《御堂とは法成寺のこと。ちなみに道長は摂政・内覧にはなったが関白にはなっていない!》。
2015法大・経営A
問1 下線部、道長はb6人の娘を入内させ3代の天皇の外祖父となり権勢をほしいままにしたに関して、一条天皇の中宮となり、後一条・後朱雀天皇の母となった人物を、以下のア~オのなかから一人選べ。
ア寛子 イ盛子
ウ嬉子 エ彰子
オ妍子
(答:エ)
問2 下線部bに関連して、一条天皇の中宮(彰子)に仕えた人物のうち、越前守藤原為時の娘を、以下のア~オのなかから一人選べ。
ア小野小町 イ清少納言
ウ和泉式部 エ赤染衛門
オ紫式郎
(答:オ)
問3 下線部bに関連して、道長の娘(彰子)が一条天皇の中宮となったために、中宮から皇后にかわった人物(定子)の父を、以下のア~オのなかから一人選べ。
ア道隆 イ道兼
ウ兼家 エ兼通
オ頼忠
(答:ア)
2013早大・文
藤原兼通と[ E ]は実の兄弟でありながら、権力争いを繰り広げ、道長が甥の[ F ]との権力争いに勝利したのち、摂関時代の黄金期を築きあげたことはよく知られている。
問 空欄Eと空欄Fの組み合わせとして正しいものはどれか。
ア.E道隆―F道兼
イ.E道兼―F道隆
ウ.E伊周―F道隆
エ.E道隆―F兼家
オ.E兼家―F伊周
(答:オ)
2015明大・商
摂関政治期には、娘を入内させ、生まれた子を天皇とし、その外戚になることが重要な意味をもった。これも母系を重視する土壌が生みだした日本的な政治形態といえるが、有名な藤原道長は、娘三人を中宮にすることに成功しており、
b【1一条 2三条 3後一条 4後朱雀 5後冷泉】天皇(1009~1045)の後宮に入った嬉子も早逝してしまったものの、子供は天皇(註:後冷泉天皇)になっていることから、生きていれば存命中に中宮になったと思われる。
(答:4)
2015法大・経営A
問4 下線部b6人の娘を入内させ3代の天皇の外祖父となり に関連して、道長の三女が後一条天皇の中宮になったとき、道長がよんだ歌が「この世をば……」であるが、この歌の全文は、道長本人の日記には記されることなく、系図中の下線部aの実資(後に右大臣)の日記に記されている。その日記の名を、以下のア~オのなかから一つ選べ。
ア水左記 イ小右記
ウ権記 エ台記
オ.中右記
(答:イ)
2015法大・文人問関係経営
問5 下線部c御堂関白に関して、この名は道長が建立したある寺院に由来する。その寺院の名を、以下のア~オのなかから一つ選べ。
ア法成寺 イ法性寺 ウ醍醐寺
エ神護寺 オ石山寺
(答:ア)
〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ
末法の世が到来するとされた〈 う 〉年が近づくにつれて、浄土信仰が盛んになった。来世における極楽往生を願う貴族たちは、極楽浄土を模した仏堂を造立しだした。
藤原頼通が宇治川のほとりに建立した鳳凰堂が代表例である。鳳凰堂の本尊の阿弥陀如来像をつくったのが、( ト )である。また( ト )の時代には。仏像の身体をいくつかのバーツに分け、大勢で別々に彫った上で組み合わせる寄木造の技法が発達し、末法思想を背景とする仏像への需要の増大にこたえた。」
A.文中の空所(ト)にあてはまる適当な語句をしるせ。
B.文中の空所〈う〉にあてはまる適当な数字を、次のa~dから1つずつ選べ。
a.1016 b.1052
c.1112 d.1156
(答:ト定朝、うb)
〈2014明大・国際日本(国際日本)
浄土教は難行を斥け、[ H ]と称えれば、死にゆく者が救済され、臨終の際、悪人でさえ極楽た往生することができると説く。図2のようにこの臨終往生の場面を描いた絵を[ I ]と呼ぶ。
8 空欄Hに入る語句を漢字6文字で記入しなさい。
9 空欄Ⅰに入る語句を漢字3文字で記入しなさい。
(答:H南無阿弥陀仏、I来迎図)〉
〈2013青山学院・文教育経済法経営など
一方で、貴族層にも浄土教が浸透し、藤原道長やその子頼通は、贅を尽くした仏像や寺院を造営した。そこには、e西方浄土への強い思いが託されていたが、逆にいえば、こうした壮麗な仏像や堂舎を建立することが、極楽往生のための善行と信じられていたのである。
問12.下線部eに関して、このような思想を反映した建築・作品として誤っているものを、次の1~4の中から一つ選んでマークしなさい。
1平等院鳳凰堂 2法界寺阿弥陀堂
3高野山聖衆来迎図 4教王護国寺両界曼荼羅
(答:4)
〈2012早大・政経:「
3 下線部e平等院の本尊である阿弥陀卸来像を作った仏師は誰か。」
(答:定朝)〉
〈2015法大・文人問関係経営
問5 下線部c御堂関白に関して、この名は道長が建立したある寺院に由来する。その寺院の名を、以下のア~オのなかから一つ選べ。
ア法成寺 イ法性寺 ウ醍醐寺
エ神護寺 オ石山寺
(答:ア)
〈2014早大・教育:「
(誤文として)
オ 関白を務め終えた藤原道艮が晩年に建立した法成寺は、阿弥陀堂を中心とした壮麗なものであり、道長はここで死を迎えた」
(答:×藤原道長は関白には就任していない)。
〈2014立教大・現代心理コミュ福祉経営:「
『( ホ )』という日記を記したことでも知られる藤原道長が政権を握ったことに象徴されるように、10世紀後半から11世紀頃の政治は、天皇の外戚として摂政・関白を歴任する摂関家が主導した。」
(答:御堂関白記)〉
〈2014立大・経済(経済・会計ファイ)・コミュ福祉(スポ一つウェルネス)・観光(観光)
2)藤原北家は、9世紀から10世紀を通して他氏排斥を進め、その勢力を不動のものとした。藤原道長が「此世をば 我世とぞ思ふ 望月の かけたる事も 無と思へば」と詠んだのは、土御門殿(つちみかどどの)という屋敷であったが、この屋敷はいったん火災に遭い、上記の歌が詠まれる数ヶ月前に再建されたところであった。再建にあたっては、( ハ )の日記である『小右記』に記されたように、「土御門殿の( ニ )一間を以て、諸の受領に配し営ましむと云々。いまだ聞かざるの事なり。造作の過差、往跡(おうせき)に万倍す」(原漢文)と受領たちが競って造営を分担し、3)源頼光が家中の家具、調度を献上したことで知られている。」
問2.藤原北家に関する出来事について、もっとも古いいものから年代順に並んでいる組み合わせはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.阿衡の紛議-承和の変-安和の変-応天門の変
b.安和の変-阿衡の紛議-応天門の変-承和の変
c.応天門の変-安和の変-承和の変-阿衡の紛議
d.承和の変-応天門の変-阿衡の紛議-安和の変
問3.この人物(源頼光)に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.その弟の源頼信は、平忠常の乱を鎮圧した
b.その子の源頼義は、後三年合戦で、安倍頼時・貞任による反乱を鎮圧した
c.その父の源満仲は、藤原純友の乱を鎮圧した
d.その孫の源義家は、保元の乱の時に後白河天皇と結び勝利した。」
(答:ハ藤原実資、ニ寝殿、問2d、問3a)〉
〈2012同志社大・文経済
下線部cの道長の子孫のことを、道長の創建した寺の阿弥陀堂の通称に因んで「[ ]流」と呼ぶようになる。自筆本が残る道長の日記も『[ ]関白記』と称する。共通の語を漢字で記せ。
(答:御堂)
〈2012立命館大学・法文経済経営など
下線部8藤原道長に関連して、藤原道長の日記を何というか。」
(答:御堂関白記)
〈2012早大・文化構想:「
藤原実資は長年にわたって[ B ]と呼ばれる日記を書き続け、摂関期の重要な史料になっている」問6、空欄Bに該当する語句を記述解答欄紙の解答欄に漢字で記入しなさい。
(答:小右記)〉
〈2012中大・文:「
10世紀以降盛んになる4貴族の日記は、先例ともなる公式の行事を自身のため、さらには子孫に伝えるために記録に残すという性格が強いもので、藤原実資の日記『[ E ]』は特に有名である。」
問8 下線部4について、貴族の日記は、あらかじめ季節の日の吉凶などが書き込まれている暦の余白を利用して記されているものが多い。その暦の名称を記しなさい。
(答:8具注暦、)
※8.吉凶判断のための様々な暦注が記載されていたことから、注が具さ(つぶさ)に記入されているということで、このように呼ばれる。
問9 空欄Eに入る日記の名称を記しなさい。
(答 9小右記)
〈2014早大・教育
問1 下線部a10世紀の時代についての説明として正しいものはどれか。
ア 藤原道長の全盛を編年体で描いた『栄華物語』が書かれた
イ 漢文学の教養に基づき『凌雲集』などの勅撰の漢詩文集が編纂された
ウ 後一条天皇の時代までに詠まれた漢詩文を集めて「本朝文粋」が編まれた
エ 漢字の草書体などを崩した平仮名を使って『土佐日記』や『伊勢物語』が書かれた
オ のちに三筆と呼ばれた書の達人たちが肉太の力強い書を発展させた
(答:エ ※ア『栄華物語』は11世紀に成立した、イ『凌雲集』は9世紀に成立した、ウ『本朝文粋』は11世紀に成立した、オ三筆が活躍したのは9世紀である)〉
On the day Ishi became an Empress (November 26) various court nobilities were invited to the banquet held at Michinaga's mansion, and Michinaga read an impromptu poem to Sanesuke, 'When I reflect, this world is indeed my world, nor is there any flaw in the full moon' ("Shoyuki,").
威子の立后の日(10月16日(旧暦)(11月26日))に道長の邸宅で諸公卿を集めて祝宴が開かれ、道長は実資に向かって即興の歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」を詠んだ(『小右記』)。
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