ベック式!難単語暗記法ブログ

質の高い暗記法、芸術的なゴロ合わせ、感動の記憶法をあなたに!抜群に効果的な実例満載!

列強の接近1

2014-10-31 | 入試問題+ゴロ合わせ

次の文を読んで、下の問に答えなさい。
17 世紀末にカムチャッカ半島を征服したロシア人たちは、以後、狩猟、毛皮貢税(ヤサーク)の徴収や交易を目的に千島列島を南下し、しだいに蝦夷島本島に近づき、1779 年には、シベリアの企業家が派遣したシャバリン一行がアッケシ(厚岸)に来航して松前藩に通商を求めるにいたった。

松前藩がこうしたロシア人の動きを最初に知ったのは 1759 年のことであったが、同藩はこうしたロシア人の動向はもとより、ロシア人との交渉の事実も幕府に報告しなかった。

しかしその後、このことが外に漏れた。

このことにいち早く関心を傾け、その真相を究めようとしたのが仙台藩の藩医( 1 )であった。彼は長崎のオランダ語通詞や門人の松前藩医などから情報を入手し、1783 年( 2 )を著して蝦夷地の開発とロシアとの通商の必要を説き、同書を幕府に献じた。

当時幕府は財政難に苦しんでいただけに、時の老中( 3 )はこの意見に注目していち早く採用し、1785 年から翌年にかけて蝦夷地調査を実施したが、途中、失脚したため、蝦夷地開発計画は中止された。

しかしその後、ロシア船をはじめ、イギリス船やアメリカ船が日本近海に来航して、鎖国体制をおびやかしはじめた。1792 年ロシアの使節( 4 )が根室に来航し、幕府に大きな衝撃を与えた。

はロシアの女帝( 5 )二世が派遣した正式な使節であっただけでなく、伊勢国漂流民の神昌丸船頭( 6 )などの送還を名目に日本との通商を求める書簡を持参していたからである。

( 7 )を著してロシアの南下を強く警告した林子平が、処罰された直後のことであった。

1804 年には( 8 )が長崎に来て再び通商を求めたが、幕府はこれを拒否した。

その後ロシアの艦船が蝦夷地の近海に出没してしばしば紛争をおこした。ロシアの進出に関心を強めた幕府は、(a)1798 年幕吏を松前や蝦夷地(南千島と樺太を含む)に派遣して調査を行い、1799 年箱館周辺の和人地と東蝦夷地を幕領とし、次いで 1807 年松前氏を移封して、松前・蝦夷地全域を幕領とし、奥羽諸藩にその警備を命じた。

その後ナポレオン戦争の影響でロシアの極東への関心は弱まり、一時ロシア船の出没はみられなくなったが、それにかわってイギリス船が日本近海に出没するようになった。(b)1808 年イギリス軍艦が、当時交戦国であったオランダ商船を追って長崎に入港するという事件がおき、つづいて
イギリス船やアメリカ船がしばしば近海に姿をあらわすと、幕府は 1825 年に( 9 )令を出して鎖国
体制の維持に努めた。そのため 1837 年に、日本人漂流民を護送するとともに通商を求めて浦賀
に来航したアメリカの商船( 10 )号が撃退された。こののち(c)( 11 )が「慎機論」を、( 12 )が
「戊戌夢物語」を著して上記の法令の不当を論じたが、かえって処罰された。
問 1.上の文の(1)~(12)に適当な語句を( )の番号とむすんで書き出しなさい。
〔解答例:(③一カムチャッカ半島〕
問 2.下線部分(a)について、この調査の際、エトロフ島に渡り「大日本恵登呂府」の標柱をたてた人物は誰か。
問 3.下線部分(b)について、この事件を一般に何とよぶか。
問 4.下線部分(c)について、この一連の事件を一般に何とよぶか。
解答
問1
(1)一工藤平助  (2)一赤蝦夷風説考  (3)一田沼意次  (4)一ラックスマン (5)一エカチェリーナ  (6)一大黒屋光太夫  (7)一海国兵談  (8)一レザノフ(9)一異国船打払〔無二念打払〕 (10)一モリソン (11)-渡辺崋山 (12)-高野長英
 

問2 近藤重蔵 問3 フェ-トン号事件 問4 蛮社の獄

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藩政改革 2

2014-10-30 | 入試問題+ゴロ合わせ


次の文章を読んで下記の問に答えよ。

天保のころから、農業生産をもとに年貢を取り立てていく幕藩体制は既に転機を迎えていた。

19 世紀になると、商品生産地域では、商人が原料・器具などを生産者に前貸し、その生産物を買い上げる( 1 )工業が発達した。

これを契機に大坂周辺や北関東などでは(a)奉公人が集められ、織物業を中心に(b)新しい生産形態が見られるようになった。
諸藩では有能な人材を登用し、財政再建と藩政改革を行った。

薩摩藩では、新たに登用された( 2 )が大坂商人などからの借財を帳消しにし、奄美の砂糖の専売と琉球との貿易拡大によって財政
を立て直した。

( 3 )は鹿児島に(c)洋式工場群を建設し、また島津忠義は長崎の外国商人から洋式武器を買い入れ軍事力を強化した。

長州藩では、( 4 )が多額の負債を整理し、紙や蝋の専売を行うとともに、兵制を改革して権力強化をはかった。

また、瀬戸内地域を中心に加工業や商品生産が進んでいたことや、下関が物資の中継基地であったことから、(d)下関に金融や倉庫業を営む役所を置いて藩の財政収益をあげた。

佐賀藩では、小作料の猶予や(e)土地の一部を藩に返させたりして本百姓体制の建て直しがはかられた

さらに、陶磁器の専売が藩の財政に余裕をもたらし、1850 年には日本で最初の( 5 )が建設され、大砲の製造などの洋式軍需工業がおこった。

こうして(f)西南の各藩は、新しい人材を登用して財政再建と軍事力強化をはかり、( 6 )として幕末の政局に強い発言力をもち、幕
末・明治維新期には大きな役割をになったのである。
[設問]
(1) 空所 1~6 を最も適当な語句または人名で埋めよ。

(2) 下線部分(a)について、この奉公人となった人々の出身は主にどのような職業階層であったか、記せ。
(3) 下線部分(b)について、この新しい生産形態とは何か、その名称を記せ。
(4) 下線部分(c)について、この洋式工場群は何と呼ばれたか、その名称を記せ。
(5) 下線部分(d)について、この役所は何と呼ばれるか、その名称を記せ。
(6) 下線部分(e)について、このような改革は何と呼ばれるか、その名称を記せ。
(7) 下線部分(f)について、土佐藩において、吉田東洋を登用して藩政改革を行い、後に将軍慶喜に
大政奉還を建議した人物は誰か、記せ。
[解 答]
(1) 1 . 問屋制家内  2 . 調所広郷  3 . 島津斉彬  4 . 村田清風  5 . 反射炉  6 . 雄 藩
(2) 農 民  (3) マニュファクチュア( 工場制手工業)  (4) 集成館  (5) 越荷方  (6) 均田制  (7) 山内豊信 ( 容 堂 )

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大御所・天保の改革

2014-10-29 | 入試問題+ゴロ合わせ

つぎの文章の空欄(1~15)に、もっとも適切な語呂を考え、漢字を用いるべきところは正確な漢字で、記入しなさい。

1793年、幕府の( 1 )を主導した( 2 )が老中を辞任すると、11 代将軍家斉が政治の実権をにぎり、田沼時代の老中であった水野忠友の養子忠成が家斉の信任をえて側用人・老中となり、しだいに権勢を振うに至った。

この前後 50 年間がいわゆる( 3 )時代で、生活はすべて派手となり、賄賂が再び横行した。この間、権力は著しく腐敗し、幕府の支配力は各方面で急速に衰えていった。

その結果、無宿者や博徒が横行し、農村においては階級分化がいっそう進行した。とくに1830 年代のはじめには、全国的に天災・飢鐘があいついで、百姓一揆・( 4 )が激発した。こうし
たなかで起った 1837 年の( 5 )は、大きな影響をおよぼし、幕閣の首脳部を驚かせた。

こうして、老中首座水野忠邦による( 6 )が始まるのである。

忠邦は、もと肥前唐津藩主で閣老への野心をいだき、1817 年、奏者番から寺社奉行に昇進したのを機会に、水野忠成に取り入って、遠江浜松に転封することに成功した。

その後、大坂城代・( 7 )を経て、1834 年には、忠成に代わって待望の老中の地位についた。こうして 1841 年、家斉の死を契機に老中首座となり、幕閣の全権を掌握して、広範な幕政の改革に乗り出した。

忠邦は、享保・寛政の諸改革を目標とし、質素・倹約を命ずるとともに、風俗・出版に対しても厳しい統制を加え、( 8 )らを処罰した。

ついで( 9 )を発して農民の出稼ぎを禁じ、江戸に流入した農民を強制的に帰村させて、荒廃した農村の再建をはかった。さらに物価を引き下げ、旗本・御家人を救済するため( 10 )を出したが、これらの諸政策は、いずれも寛政の改革の路線に連
なるものである。

しかし、寛政のころにくらべて、幕藩体制の危機はいっそう深まり、かつ進行していた。

こうした事態に対して打ち出したのが( 11 )である。

そのねらいは、これまで特権商人に支えられた流通機構を排除し、仲間外の商人や( 12 )にも自由な取引を認め、江戸や大坂への物資の流入の増加をめざしたものであった。

しかし、予期した成果がえられず、かえって流通機構は混乱し、物
価は高騰した。
忠邦が最後に断行した政策は、1843 年に出した( 13 )である。この政策は、( 14   ・   )周辺を直轄領に編入しようとするもので、そのねらいは幕府権力を強化し財政を安定させるとともに、外圧に対応しようとする、すぐれて政治的・経済的・軍事的意義をもつものであった。

ところが、大名や旗本の強い反対によって挫折した。

( 13 )は撤回され、忠邦は免職となり、改革は失敗に終った。

それは幕府が中央集権的な絶対権を喪失したことを示すものであった。

[解答]
1 寛政の改革  2 松平定信  3 大御所  4 打ちこわし  5 大塩平八郎の乱  6 天保の改革  7 京都所司代  8 為永春水(柳亭種彦)    9 人返しの法  10 棄捐令  11 株仲間の解散  12 在郷商人  13 上知令  14 江戸・大坂

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〈侘び茶〉★

2014-10-28 | 世界史地図

 ▲千利休

●桃山文化(文芸) 

The style of Wabicha is completed by Sen no Rikyu.

村田家離宮 侘(わび)しけり。

        村田珠光 武野紹鴎 千利休 侘び茶

 

小座敷・道具立てで精神的深さを味わう侘び茶村田珠光に始まり、武野紹鴎に受け継がれてさらに簡素化され、堺の豪商出身で織田信長豊臣秀吉に仕えた千利休によって大成された。

〈待庵と如庵〉 千利休は草庵風の茶室妙喜庵待庵を建て、信長の弟織田有楽斎は茶京都建仁寺に如庵を建てた。 妙喜庵待庵は京都府乙訓郡大山崎の禅院妙喜庵にある茶室。現存する桃山時代の茶室中最も著名。2畳隅炉、次間1畳つきの草庵ふう茶室で、山崎の戦いのとき、千利休が豊臣秀吉のために茶をたてたといわれる

鯛のリキュール ジョア臭い。

妙喜庵待庵 千利休 如庵 織田有楽斎

 

 

 

 

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寛政の改革 2

2014-10-28 | 入試問題+ゴロ合わせ

つぎの文章の空欄(1~10)に入れるのに、もっとも適切な語を考え、正確な漢字で記入しなさい。

1786(天明 6)年、徳川10 代将軍家治が死去すると、御三卿のひとつ一橋家から( 1 )が迎えられて、11 代将軍に就任した。

田沼意次は老中を解任されたが、なお雁間詰として発言権をもっており、当時幕閣の要路を占めていた大老井伊直幸および老中水野忠友・松平康福らは、いずれもその一味であった。

これに対して、御三家・御三卿を中心とする徳川一門・譜代勢力は、次期政権担当者として、陸奥白河藩主の松平定信を立てようとして、田沼勢力と激しく争った。定信は御三卿のひとつ田安家の出身で( 2 )の孫にあたり1783(天明 3)年白河藩主となった。
こうして、両派の対立が数カ月つづき、開幕以来の政争となったが、ついに反田沼勢力が勝ちを占めて、定信の老中就任が決定した。

1787(天明 7)年、支持勢力の輿望をになって老中首座についた定信は、ただちに田沼勢力を幕閣から一掃し、広範な幕政の改革に乗り出した。

これを( 3 )という。

定信は、吉宗の享保改革を理想とし、幕府財政を立て直すため、厳しく倹約を命じ、華美な風俗を取り締まるとともに、商業資本の発展をおさえて農村の安定・復興をはかることに力を注いだ。

そのため定信は、農業人口の確保に力を入れ、他国への出稼ぎを禁じ、江戸に流入した農村出身者の帰農をすすめ、荒廃した田畑の開発を奨励した。

また飢饉にそなえて、都市や農村に( 4 )を設けさせ、米穀を貯蔵させた。

江戸では、町入用(町費)の節約分の 7 割を積み立てさせ、飢饅や災害にそなえさせた。

これを( 5 )という。

定信はまた、江戸の治安維持のため、石川島に( 6 )を設けて、浮浪人や無宿者を収容し、職業技術をさずけて、正業につくよう指導した。

さらに旗本・御家人を救済するため、( 7 )の債権を放棄させる( 8 )を出した。

学問・思想および風俗・出版に対して厳しい統制を加えたのも、定信の改革のいまひとつの特色である。

定信は異学の禁を出して、朱子学を正学とし、さらに林家の家塾を官立の( 9 )とあらため、朱子学の振興をはかった。

また、「海国兵談」を出して海防の必要を説いた( 10 )を、人心をまどわす者として処罰した。

定信の改革は、一時的に幕政を引き締める効果はあったが、あまりに厳格すぎて現実の社会の実情に合わなかった。

こうして人びとの反感を買い、定信は在職 6 年で老中職を退いた。


[解答]
1 家斉  2 吉宗  3 寛政の改革  4 義倉(社倉)  5 七分金積立  6 人足寄場 7 札差  8 棄捐令  9 昌平坂学問所  10 林子平

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1257年 〈タイ人、スコータイ朝を建国〉★

2014-10-26 | 『新世界史頻出年代暗記』

 ▲スコータイ: ワット・マハタート

●タイ(スコータイ朝)

Thai tribes found the kingdom of Sukhothai.

住人(じゅうにん)困難 そこ退去。

1257年  上座部

        雲南から南下 スコータイ朝 タイ 

チャオプラヤ川下流には、7世紀にモン人がドヴァーラヴァティ王国を建て、この国のもとで上座部仏教が広まった。

一方、雲南地方で生活し、南詔に代わって大理を建てたタイ人は、この国が1254年にフビライ率いるモンゴルによって征服されると、インドシナ半島を南下して、タイ人による最初の統一王朝となるスコータイ朝を建国した。

この王朝では、タイ文字が作成され、上座部仏教が繁栄した。

 

 

 

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寛政の改革1

2014-10-26 | 入試問題+ゴロ合わせ

次の文の(1)~(15)に入れるのに最も適当な語句を下記の語群から選び、その記号をマークしなさい。

天明 7 年 5 月、江戸・大坂など各地で民衆の( 1 )があったが、その翌月老中に就任した( 2 )の下で幕政の改革が進められた。

一この改革は 8 代将軍( 3 )の行った( 4 )の改革を理想とし、松平信明ら志を同じくする大名をつぎつぎと老中に登用する一方、不正役人を大量に処分した。

とくに農政をあずかる( 5 )の大幅な異動を行い、飢謹で荒廃した農村復興策として他国出稼制限令や( 6 )を発布し、また義倉・( 7 )をつくり備荒貯蓄を奨励した。

また都市に対しては豪商を( 8 )に登用して米価調整をはかり、旗本の困窮財政を救うために( 9 )を発した。

さらに下層民対策として江戸の石川島に( 10 )をおき、各町には( 11 )を命じた。

学問・思想の分野では( 12 )を強めるとともに、柴野栗山・( 13 )らを登用して聖堂の儲役に任じ、( 14 )以外の異学の講述を禁じた。さらに聖堂の施設を充実し、寛政 9 年幕府直轄の( 15 )とした。

〔語群〕
(ア)岡田寒泉  (イ)室鳩巣  (ウ)頼春水  (エ)田沼意次  (オ)松平乗邑  (カ)松平定信  (キ)吉宗  (ク)綱吉 (ケ) 家斉  (コ)元禄  (サ)天保  (シ)享保  (ス)代官  (セ)地頭  (ソ)土倉  (タ)社倉  (チ)札差   (ツ)古学  (テ)朱子学  (ト)陽明学  (ナ)棄損令  (ニ)倹約令  (ヌ)相対済令 (ネ)出版取締  (ノ)人返し令  (ハ)人足寄場  (ヒ)学問所  (フ)養生所  (ヘ)七分金積立  (ホ)御用金  (マ)打ちこわし  (ミ)百姓一揆  (ム)旧里帰農令 (メ)十組問屋  (モ)分地制限令  (ヤ)勘定所御用達

[解答]
1 マ  2 カ  3 キ  4 シ  5 ス  6 ム  7 タ  8 ヤ  9 ナ  10 ハ  11 ヘ  12 ネ  13 ア  14 テ  15 ヒ

[解説]七分積金(しちぶつみきん)とは、寛政改革の際」に江戸町方に命じた積立制度。町入用の節減分の7分(70%)を積立させた。

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1881年 〈ウラービーの反乱〉★★

2014-10-25 | 『新世界史頻出年代暗記』

▲アフマド=ウラービー陸軍大佐

●エジプト

The Mahdist War is fought between the Mahdist Sudanese and the Egyptian and later British forces.

いやや言えずに 恨(うら)みます。

1881年    エジプト  ウラービーの反乱 

                  マフディーの乱 スーダン

1870年代に英仏がエジプトに侵入すると、1881年、エジプトではウラービーの反乱が、スーダンではマフディーの反乱がおこった。

イギリスはウラービーの反乱を武力制圧してエジプトを事実上の保護国としたが、スーダンではイギリスの総督ゴードンが戦死し、イギリスのスーダン進出は遅れた。

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1839年 〈アブデュル=メジト1世、タンジマート(恩恵改革)を開始(~76)〉★

2014-10-25 | 『新世界史頻出年代暗記』

アブデュル=メジト1

●トルコ(オスマン朝)

Abd-ul-Mejid succeeds Mahmud II as Ottoman Emperor: Tanzimat starts in the Ottoman Empire.

人はサンキュー 恩の雨。

1839年   ギュルハネ勅令

                恩恵改革

                 アブデュル=メジト1世 

1830年代に起こったエジプト‐トルコ戦争を契機に、1839年アブデュル=メジト1は西欧化を図り、ギュルハネ勅令を発してタンジマート恩恵改革)とよばれる上からの近代化を開始。

しかし、この改革はヨーロッパ資本に全面的に依存していたため不徹底に終わり、逆にヨーロッパ資本への従属が進んだ。

《ダメ押し暗記法》

タンジマート」にある「」と「」を利用して「アブデュル=メジト1世」をしっかり覚えよう。

 

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田沼時代2

2014-10-24 | 入試問題+ゴロ合わせ

次の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。
徳川吉宗の隠退後、まもなくして復活のきざしをみせていた側用人政治は、1767①(明和 4)年に 10代将軍家治の側用人となり、5 年後に②老中となった田沼意次が幕府政治の中枢に立つことによって本格的に展開された。

田沼時代の施策は種々あるが、商業経済との結びつきを強化した点に大きな特色がある。

田沼は従来のように直接的な年貢増徴のみに依存する幕府の税制には限界があるとして、当時ようやく盛んになっていた商品経済に課税し、農民の商品作物生産や農村工業の成果を間接的に吸収する方式をとり、株仲間の積極的公認と[ A  ]の強化をはかった。

大坂の荷積問屋の[ B ]問屋仲間や菱垣廻船・樽廻船問屋仲間をはじめ各種業界の株仲間を積極的に公認して運上や[ C ]を納めさせた。

また幕府の[ A ]を拡張し、すでに設けられていた銅座のほか、1780(安永 9)年には大坂に鉄座・異象座を設置した。このほか通貨制度の改革を行った。江戸時代の通貨は、・金・銀・銭の三貨であったが、金は江戸を中心とする東国経済圏、銀は上方を中心とする西国経済圏を基盤とする高額通貨であり、また銀貨は[ D ]貨幣であった。

そのため幕府は、金 1 両=銀 50 匁(元禄からは 60 匁)=4 貫文(4000 文)という③交換比率を定めたが、金銀の相場はたえず変動していた。

こで田沼は④南鐐二朱銀を発行して銀貨を計数貨幣となし、⑤金銀通貨の一本化をめざした。このほ
か長崎貿易では主要な輸出品であった[ E ]とよばれる海産物の増産と確保をはかった。また工藤平
助の[ F ]に記された意見をいれて蝦夷地の開発をはかり、1785(天明 5)年に⑥蝦夷地調査隊を派遣
し、その報告にもとづいて 7 万人の蝦夷地移住と 116 万余町歩(583 万余石)の開発計画を立てたが、
田沼の失脚によって実現には至らなかった。
〔設問〕
(1)空欄 A~F に適当な語句を記入しなさい。
(2)下線部①~⑥について、次の設問に答えなさい。
① 明和 4 年には明和事件がおこっている。下記の中から事件とまったく関係のないものを選び、その
記号を記しなさい。
ア山県大弐  イ藤井右門  ウ生田万  エ 竹内式部

② 老中に関する次の文章のうち誤っているものを選び、その記号を記しなさい。
ア 譜代大名のうち 5 万石以上のものから任じられた。
イ 将軍に直属し、政務を総括した。
ウ 月番と称し、毎月 1 名宛、政務の責任者となった。
エ 老中の定員は複数であった。

③ 通貨の交換業務などにあたった両替商でないものを次の中から選.び、その記号を記しなさい。
ア 天王寺屋  イ 鴻池屋  ウ 平野屋  エ 紀伊国屋

④ 金 1 両は何朱にあたるか。次の中から選び、その記号を記しなさい。
ア 24 朱  イ 16 朱  ウ 10 朱  エ 8 朱

⑤ この田沼の政策は、次の松平定信によって否定された。その後膨金本位制を目標としたのは 1871
年のことである。それは何によるか。次の中から選び、その記号を記しなさい。
ア 銀行法 イ 新貨条例 ウ 国立銀行条例 エ 日本銀行条例
⑥ この調査隊には最上徳内が、その師の推せんによって参加している。その師は「西域物語」や「経
世秘策」を著して貿易による富国を説いた人物である。下記の中から選び、その記号を記しなさい。
ア 山片蟠桃 イ 佐藤信淵 ウ 海保青陵 エ 本多利明

[解答]
(1) A.専売制  B.ニ十四組  C.冥加  D.秤量  E.俵物  F.赤蝦夷風説考

(2) ① ウ  ② ア  ③ エ  ④ イ  ⑤ イ  ⑥ エ

解説  

(2)①1767(明和4)年 〈明和事件〉★

③紀伊国屋は材木商。

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『南冥の雫 満州国演義8』 船戸与一

2014-10-24 | Weblog

 建国からその終焉までをかつてないスケールと精度で描き、中毒読者を続出させてきた「満州国演義」。最新刊『南冥の雫』ではミッドウェーでの大敗からインパール作戦へと迷走する大日本帝国が描かれる。いよいよ完結まであと一冊を残すのみとなった大人気シリーズの魅力に迫る(全九巻完結予定)。

――物語は、戊辰戦争で長州兵として軍功を立てた祖父を持つ、敷島家の四兄弟の視点で語られます。最新刊では、物語が始まった昭和三年から十四年後の四兄弟が描かれ、外務官僚の長男・太郎は四十四歳。理想の国家を作る夢をとうに忘れ、自堕落な日々を送っています。

船戸 日系官吏は、石原莞爾に「法匪」と非難されていた。何もしないのに給料だけは高いと。しかし、彼らは関東軍の意のままに操られるだけで、考えても意味のない形式的な立場におかれていたのだから、無気力になるのも仕方がない。

――憲兵隊の花形だった三男の三郎も三十七歳に。命がけで追っていた馬占山が討たれてからは、粛々と仕事だけをこなしているように見えます。

船戸 満州国の建国直後は、三郎は反日ゲリラと戦ったり、支那事変に巻き込まれたりしていたが、この頃の満州には戦闘がない。ドイツと協力してソ連の進攻に備えるという事態を想定していたが、参謀本部は南進論を取ったからね。この次の第九巻では、東条英機暗殺計画を三郎の視点から触れたいから、満州には居続けてもらう。一九四四年末には「根こそぎ動員」が実施されて、軍人に限らずほとんどの男が徴兵されて南方に送られる。そして女子供だけになったところへ、ソ連軍が雪崩れ込んでくる。次巻では、そういった状況も書かなくてはならない。まあ、太郎のような高級官僚は、一番先に列車で満州を後にするのだけど。

――早稲田の学生だった四郎は、過去の罪からようやく逃れて、満映の脚本家になりましたが、想像していた仕事と現実のギャップに打ちのめされています。

船戸 結局、この頃の満映は映画が作れなくなって、仕事がなくなるんだよ。だから、四郎にはまた別の組織に入ってもらうことになる(笑)。アメリカの動きとか、外交官の太郎でも入手できないような、もっと機密性の高い情報を語らせたい。三国同盟を結んだ日本とドイツとイタリアは、その当時、国家としての有り様が非常に似通っていたことに、小説を書いていて気づいた。統一国家を気取りながら、実はいくつかの小国をまとめたばかりの「遅れてきた」国家。植民地にできそうなところはすでに取られているから、他所の持ち物を奪うしかない。それを正当化するためにナショナリズムを利用してその果実……豊かさと繁栄を手に入れたんだ。満映が掲げていた「五族協和」という理想が方便に過ぎないことを、当時の人々はみんな知っていた。

――そして、兄弟の中で最も愛国心とは縁のなかった大陸浪人の次郎が、金銭のためとはいえ、南方作戦の最前線で過酷な戦場に赴きます。

船戸 次郎以外の兄弟は、みんな今で言うところのサラリーマン。言われた仕事をこなしていれば喰って行けるが、次郎は自分から動いて金銭を稼いでいかなくてはならない。常に戦場に身を置いている次郎を書いていて面白いのは、第一次大戦から太平洋戦争までの間に、戦争の形態がどんどん変わっていくこと。戦闘から牧歌性が失われていく。よく日露戦争が最後の紳士の戦争であったといわれるが、その頃は戦闘が行なわれている横で農民が畑を耕したりしていた。一番大きな変化は、海戦だ。昔は帆が主たる動力で、風まかせの部分があったが、それがエンジンで制御できるようになった。それと会戦。師団同士の戦いが、長くて一日、早いときは三時間で決着していたのが、奉天会戦なんて一ヵ月以上も戦っている。総力戦方式の戦争に変わっていくんだ。そして太平洋戦争では、制空権が戦局を大きく左右するようになる。

――戦況が悪化するに従って、首相は精神論だけを振り回し、大本営は事実を隠蔽し、司令官たちは派閥争いに夢中で戦況を見ない……作品で描かれる満州や日本の様子は、現在の日本に重なっているように感じます。

船戸 後世から見て今の時代がどのように評価されるか分らないから何とも言えないが、当時に似ているのは、日本というよりも、むしろ今の中国であるように感じる。急に防空識別圏などと言い出したり、どうも習近平を見ていると、彼は軍部を掌握できていないのではないかと思う。統一が取れていない。中国共産党が恐れているのは、三国志にあるように「統一が長ければ分裂、分裂が長ければ統一」という因習。軍部に対する習近平の影響力が弱ければ、そこから分裂が始まる。軍は新陳代謝したがるものだ。つまり、人員整理と兵器の近代化。それに一番効果的なのは戦争だから、軍が東シナ海や南シナ海に出たくなるのは当然だ。そうすると、中国はアメリカと太平洋で覇権を争うことになる。この状況は、満州事変前夜の大日本帝国にそっくりだと思う。これだけ経済的に関係が深ければ、アメリカと中国が戦争になることはないが、日本を含めた周辺国がちょっかいを出される可能性は十分にある。

――ますます「満州国演義」から目が離せません。最終巻の執筆に向けて、抱負をお聞かせください。

船戸 第九巻のタイトルは「残夢の骸(むくろ)」。東条英機暗殺計画が実現に向けて進んでいた。そこから始める。極限状態にこそ人間の本質が現れる、というのが、この「満州国演義」の命題のひとつ。そういう意味では、次巻では最も厳しい状況に敷島四兄弟は置かれることになる。これまで死神のように敷島家に付きまとってきた奉天特務機関・間垣の素性も明らかにする予定だ。

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■ 7~8世紀の東南アジア

2014-10-24 | 世界史地図

 

東南アジア 7~8世紀

  a カンボジア 
  b チャンパー 
  c ピュー 
  d ドヴァーラヴァティ 
  e シュリーヴィジャヤ 
  f シャイレンドラ 
  1 オケオ 遺跡
  2 アンコール=ワット 
  3 パレンバン 
  4 ボロブドゥール 


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1767(明和4)年 〈明和事件〉★

2014-10-23 | 『新日本史頻出年代暗記』

●江戸時代(後桃園天皇 徳川家治)
1767(明和4)年 〈明和事件〉★
Incident of Meiwa; Yamagata Daini and Fujii Umon are sentenced to death for inciting rebellion.
非難(ひなん)虚しく 迷惑や。
           1767年         明和事件 山県大弐

尊王兵学家の山県大弐は『柳子新論』で尊王斥覇を説き、宝暦事件で逃れた藤井右門と甲府・江戸城攻略の軍略を述べたことから、死罪となった。

宝暦事件で処罰された竹内式部も八丈島に流された(明和事件)。

 


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田沼時代1

2014-10-23 | Weblog

次の文章の空欄に、もっとも適当な語句を記入せよ。

田沼意次は、1772年、十代将軍[ 1 ]のもと、幕府の政務を統括する[ 2 ]の職に栄進すると、幕政の改革に乗り出している。意次の改革の内、特に注目すべきは貨幣政策である。その政策は、従来、重量によって価値を決めていた[ 3 ]を計数貨幣化することによって、[ 4 ]に連結し、一元的な通貨体制を作り出そうとするものであった。ここに、明治社会で本格的に成立することとなる近代的通貨体制の萌芽を読みとることができる。
また意次は、税制改革にも重要な足跡を残している。従来、七公三民などといわれる直接税方式によって税収増加を図っていたが、[ 5 ]を積極的に公認し、[ 6 ]や[ 7 ]を課すことによって、商業を通して得た利益からその一部を徴収するという間接税方式の比重を高めた。

このような徴税方式は、租税を田畑のみから徴収する従来の封建的税法よりも、社会的公平を一歩進めた
近代的税法として評価されている。

さらに意次は、不足しだした金銀を輸入するために長崎貿易で[ 8 ]とよばれる海産物と[ 9 ]の輸出を増やそうとした。

また、[ 10 ]に『[ 11 ]』を献上されたことを契機に、ロシアとの交易を企図して、[ 12 ]などに命じて[ 13 ]の調査にも乗り出している。

現在の北海道にほぼ相当する[ 13 ]は、[ 14 ]藩によって管轄され、先住民アイヌとの交易が続けられた。意次による[ 13 ]調査は、アイヌの農耕民化と内地からの入植によるアイヌ居住地の奪取を、その構想として含んでいた。その計画は意次の失脚によって、中途で挫折することになった。

[解答]
1 徳川家治  2 老中  3 銀貨  4 金貨  5 株仲間  6 冥加(金)  7 運上(金)  8 俵物  9 銅  10 工藤平助  11 赤蝦夷風説考  12 最上徳内  13 蝦夷地  14 松前

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476年 〈西ローマ帝国の滅亡〉★★★

2014-10-22 | Weblog

●ローマ(西ローマ帝国)

 

Destruction of Western Roman Empire The last Western Roman Emperor is deposed by Odoacer.

 死なん驚(おどろ) 西ローマ。

476年 オドアケル  西ローマ帝国滅亡

 

テオドシウス帝死後の395年、ローマ帝国は東西に分裂。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は1453年にオスマン=トルコに滅ぼされるまで1000年以上続いたが、西ローマ帝国の皇帝の権限は非常に弱く、ゲルマン諸部族の侵入により領地を荒らされ急速に衰退。476年、ゲルマン人の傭兵隊長であったオドアケルによって滅ぼされた。

 

 

 

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