12345と覚える。
意見封事十二箇条 三善清行 914年 醍醐天皇
後世、「延喜の治」と讃えられた醍醐朝も、国政の建て直しなど積極策のほとんどが、(右大臣菅原道真というより)左大臣藤原時平の指揮のもとで実施されていると思われる。
2.しかし、時平の死後は、醍醐天皇は政治に関心を失い、律令体制の崩壊と変質が顕著となり、三善清行の「意見封事十二箇条」が出ることになった。
〈2018早大・政治経済
問3.下線部c乾元大宝を発布した天皇の治世は、その父の治世とともに、善政が行われた時代と賞されたが、この二人の天皇の治世に行われたことでないことはどれか。
ア.三善清行により意見封事十二箇条が奏上された。
イ.藤原時平の策略により菅原道真が大宰府に左遷された。
ウ.六国史の最後となる『日本三大実録』が編纂された。
エ.『後撰和歌集』が編纂された。
オ.尾張国司の藤原元命が郡司・百姓等に訴えられ解任された。」
(答:オ× ※乾元大宝は村上天皇、よって父は醍醐天皇。オは988年で一条天皇の代)
- 平安時代(一条天皇)
988(永延2)年 〈尾張国郡司百姓等解(文)〉★
Fujiwara no Motonaga is accused of avarice and greed by Owari peasants.
苦や辱め もう終わり。
988年 受領 藤原元命「尾張国郡司百姓等解(文)」
安和の変以降、藤原氏による摂関政治は全盛期に向かい、疎外された中下級貴族は地方行政が委任された国司職に群がった。赴任した国司の最上級者は受領とよばれ、重税を課して郡司や有力農民から訴えられる者もあった。988年、尾張の国司藤原元命は、その悪政を31箇条にわたって同国の国司・百姓等に訴えられ(『尾張国郡司百姓等解(文)』)、翌年国司を解任された。
〈2017近畿大・全1/28
問10.下線部g『三善清行意見封事十二箇条』に関連して、10世紀初頭の社会状況についての文として最も適当なものはどれか。
① 兵役で多数の人々が徴発されたため、全国的に人口が激減していた。
② 250年あまりの間に班田収授が徹底して行われるようになり、6年ごとの班田の期間が短縮された。
③ この意見封事を受けて延喜の荘園整理令が出され、地方の実情に応じて課税を行うことになった。
④ 租税を負担する課丁が戸籍のうえで極端に少なくなっており、もはや戸籍・計帳の制度が崩れている状況であった。
(答:④ ※①戸籍上は減っていても実際の人口は激減していないと思われる、②×6年が12年になった、③×延喜の荘園整理令は902年、「封事」は914年)〉
〈2017学習院大・経済
平安時代には、国司の支配する諸国の状況も奈良時代とは違った様相になっていき、逃亡や偽籍によって戸籍作成や口分田班給の実施は難しくなっていた。このことは(3)〔イ.紀貫之 ロ菅原道真 ハ藤原時平 ニ藤原保則 ホ三善清行〕の意見封事十二箇条などにも詳しく描かれる。
(答:ホ)
〈2017法政大・営人間文(哲日文史)
Ⅰ つぎの史料を読んで、下記の問いに答えよ。
a臣、去にし寛平五年に[ A ][ B ]に任ず。かの国の下道郡に、邇磨郷あり。ここにかの国のb風土記を見るに、c.皇極天皇の六年に、大唐の将軍蘇定方、新羅の軍を率ゐ百済を伐つ。百済、使を遣はして救はむことを乞ふ。天皇[ C ]に行幸したまひて、将に救の兵を出さむとす。(中略)路に下道郡に宿したまふ。一郷を見るに戸邑甚だ盛なり。天皇詔を下し、試みにこの郷の軍士を徴したまふ。即ち勝兵二万人を得たり。天皇大に悦びて、この邑を名けて二万郷と曰ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ。その後、天皇[ C ]の行宮にして崩じたまひ、ついにこの軍を遣らず。
(中略)大平神護年中に、[ D ][ E ]朝臣、大臣といふをもて本郷の大領を兼ねたり。試みにこの郷の戸口を計へしに、わづかに課丁千九百余人ありき。貞観の初めに、故[ F ]藤原保則朝臣、かの国の[ B ]たりし時に、(中略)大帳を計ふるの次に.その課丁を閲せしに、七十余人ありしのみ。[ ]任に到りて、またこの郷の戸口を閲せしに、d老丁二人・正丁四人・中男三人ありしのみ。去にしe延喜十一年に、かの国の[ B ]藤原公利、任満ちて都に帰りたりき。[ ]問ふ、「邇磨郷の戸口当今幾何ぞ」と。公利答へて云く、「一人もあることなし」と。謹みて年紀を計ふるに、皇極天皇六年庚申より、延喜十一年辛未に至るまで、わづかに二百五十二年、衰弊の速かなること、またすでにかくのごとし。一郷をもてこれを推すに、天下の虚耗、掌を指して知るべし。
(意見封事十二箇条)
問1.下線部aの「臣」とはこの意見封事の筆者であるが、その人名を記せ(漢字4文字)。なお文中の[ ]はこの人物の名である。
問2.空欄[ A ]にあてはまる国名を以下の語群から一つ選べ。あてはまるものがない場合にはカをマークせよ。ちなみにこの国は、おおよそ現在の岡山県西部にあたる。
ア.備前 イ.備中 ウ.安芸 エ.周防 オ.備後
問3.空欄[ B ]にあてはまる官職名を以下の語群から一つ選べ。あてはまるものがない場合にはカをマークせよ。ちなみにこの官職は四等官の次官にあたる。
ア.佐 イ.輔 ウ.亮 エ.介 オ.助
問4.下線部b風土記についての以下の説明のうち、正しいものを一つ選べ。あてはまるものがない場合にはカをマークせよ。
ア.元正天皇の和銅6年に編纂の官命が出された。
イ.この文章にみえる「かの国の風土記」は寛平5年に完成した。
ウ.五風土記と呼ばれるのは、常陸・播磨・出雲・豊前・肥後の風土記である。
エ.各国からは、官命に応じる形で「解」の書式で太政官に報告された。
オ.最初に完成した『常陸国風土記』は、『万葉集』より後に成立した。
問5.下線部cの皇極天皇の名は誤認である。正しい天皇の名を以下の語群から一つ選べ。あてはまるものがない場合にはカをマークせよ。
ア.神功 イ.推古 ウ.元明 エ.元正 オ.斉明
問6.空欄[ C ]にあてはまる地名を以下の語群から一つ選べ。あてはまるものがない場合にはカをマークせよ。
ア.筑紫 イ.薩摩 ウ.対馬 エ.壱岐 オ.長門
問7.空欄[ D ]にあてはまる官職名を以下の語群から一つ選べ。あてはまるものがない場合にはカをマークせよ。
ア.左大臣 イ.太政大臣 ウ.内大臣 エ.准大臣 オ.右大臣
問8.空欄[ E ]にあてはまる姓を以下の語群から一つ選べ。あてはまるものがない場合にはカをマークせよ。ちなみにこの人物の旧姓は下道民である。
ア.大和 イ.巨勢 ウ.吉備 エ.大伴 オ.清原
問9.空欄[ F ]にあてはまる官職名を記せ(漢字3文字)。ちなみにこの官職は、諸国の戸籍や租税を担当した省の長官である。
問10.下線部d老丁についての以下の説明のうち、正しいものを一つ選べ。正しいものがない場合にはカをマークせよ。
ア.61歳から65歳までの男性。
イ.66歳から70歳までの男性。
ウ.61歳から70歳までの男女。
エ 正丁の三分の一の調庸を負担した。
オ.庸と雑徭が免除された。」
問11.下線部e延喜十一年の事柄として正しいものを以下の文章のなかから一つ選べ。正しいものがない場合にはカをマークせよ。
ア.延喜式が完成し奏上された。
イ.勘解由使に新たな交替式の編纂を命じた。
ウ.延喜荘園整理令が発令された。
エ.菅原道真が大宰権帥に左遷された。
オ.宇多天皇が醍醐天皇に譲位した。」
(答:問1三善清行、問2イ、問3エ、問4エ、問5オ、問6ア、問7オ、問8ウ、問9民部卿、問10ア、問11イ)
713年 『風土記』撰進を命ず
無いさ風土記は人の分。
713年 出雲 『風土記』 播磨 常陸 肥前 豊後
765年 吉備真備、正二位右大臣となる。
恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こした際には、従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して乱鎮圧に功を挙げ(藤原仲麻呂の乱)、765年には勲二等を授けられた。
When EMI no Oshikatsu (FUJIWARA noNakamaro) raised a rebellion, Makibi was promoted to Jusani (Junior Third Rank) to head a government army (a punitive
force to search and kill a rebel) as Chue no daisho (Major Captain of the imperial
guard) and succeeded in crushing the rebellion, after which Makibi was conferred
'Order of Second Class' in 765.
老以後次郎 鈍い徴用。
61歳から65歳まで 次丁・老丁 2分の1 庸 調
10世紀前期、律令官制の再構築を図る醍醐天皇が、延喜格式の編纂事業を開始すると、その一環として交替式の再編纂も行われた。編纂作業は911年(延喜11年)に始まり、921年(延喜21年)に『内外官交替式』(延喜交替式)として完成した。これが最後の交替式となった。
〈2017関西大・外済商人間政策2/3
(C)臣、去(い)にし寛平五年(893年)に備中介に任ず。かの国の下道郡(しもつみちのこおり)に、邇磨郷(にまのさと)あり。ここにかの国の風土記を見るに、皇極天皇の六年(660年)に、(中略)一郷を見るに戸邑甚だ盛なり。天皇詔を下し、試みにこの郷の軍士を徴(め)したまふ。即ち勝兵二万人を得たり。天皇大に悦びて、この邑を名けて二万郷と曰ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ。(中略)去にし延喜十一年(911年)に、かの国の介藤原公利任満ちて都に帰りたりき。( ③ )問ふ、「邇磨郷の戸口当今幾何(いくばく)ぞ」と。公利答へて云く、「一人もあることなし」と。謹みて年紀を計ふるに、皇極天皇六年庚申より、延喜十一年辛未に至るまで、纔に二百五十二年、衰弊の速かなること、またすでにかくのごとし。一郷をもてこれを推すに、天下の虚耗(きょこう)、掌(たなごころ)を指して知るべし。
問5.上の文は、③の人物が天皇へ提出した「意見封事十二箇条」の一節である。③の人物は、次の誰か。
ア 菅原道真 イ 藤原明衡 ウ 三善清行
問6.上の文は、天下が疲弊している様子を具体的に記したものである。この文が提出されたころの社会の様子として正しいものは、どれか。
ア 班田収授の実施が困難となり、政府は任国に赴任する受領に、大きな権限と責任を負わせるようになった。
イ 貴族や寺院は国司・郡司の協力を得て、広大な原野を独占し、潅漑施設をつくって、大規模な開墾を行った。
ウ 上皇は近親の女性に女院の称号を授けて、大量の荘園を分与し、寺院にも多くの荘園を寄進した。」
(答:問5ウ、問6ア)
「持明院統と大覚寺統」
ご視聴15(じご)分(ふ) 賭場大か。
後白河法皇 長講堂領 持明院統 後深草天皇 鳥羽上皇 八条院領 大覚寺統 亀山天皇
後深草天皇から発し長講堂領を継承した持明院統(北朝)と、亀山天皇から発し八条院領を継承した大覚寺統(南朝)とが皇位を争った。
〈2017近畿大・全1/28
B.臣、去にし寛平五年にd備中介に任ず。かの国の下道郡に、邇磨郷あり。ここにかの国のe風土記を見るに、皇極天皇(斉明天皇)の六年に、f大唐の将軍蘇定方、新羅の軍を率ゐ百済を伐つ。百済使を遣はして救はむことを乞ふ。天皇、筑紫に行幸したまひて、将に救の兵を出さむとす。(略)路に下道郡に宿したまふ。一郷を見るに戸邑甚だ盛なり。天皇詔を下し、試みにこの郷の軍士を徴したまふ。即ち勝兵二万人を得たり。天皇大に悦びて、この邑を名づけて二万郷と曰ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ。(略)清行任に到りて、またこの郷の戸口を閲せしに、老丁二人・正丁四人・中男三人ありしのみ。去にし延喜十一年に、かの国の介藤原公利、任満ちて都に帰りたりき。清行問ふ、「邇磨郷の戸口当今幾何ぞ」と。公利答へて云く、「一人もあることなし」と。謹みて年紀を計ふるに、g皇極天皇(斉明大皇)六年庚申より、延喜十一年辛末に至るまで、わずかに二百五十二年、衰弊の速かなること、またすでにかくのごとし。一郷をもてこれを推すに、天下の虚耗、掌を指して知るべし。
(『三善清行意見封事十二箇条』)
問9.下線部(f)についての文として誤りを含んでいるものはどれか。次の①~④のうち一つをマークせよ。
① 唐・新羅連合軍は高句麗を滅ぼした後、百済を攻めて滅亡させた。
② 百済復興のために朝廷は朝鮮半島へ大軍を派遣したが、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した。
③ 敗戦を受けて朝廷は、九州の要地を守る水城や大野城・基幹城などを築き、防衛政策を進めた。
④ この後、新羅が朝鮮半島の支配権を確立して半島を統一した。
問10.下線部gに関連して、10世紀初頭の社会状況についての文として最も適当なものはどれか。次の①~④のうち一つをマークせよ。
① 兵役で多数の人々が徴発されたため、全国的に人口が激減していた。
② 250年あまりの間に班田収授が徹底して行われるようになり、6年ごとの班田の期間が短縮された。
③ この意見封事を受けて延喜の荘園整理令が出され、地方の実情に応じて課税を行うことになった。
④ 租税を負担する課丁が戸籍のうえで極端に少なくなっており、もはや戸籍・計帳の制度が崩れている状況であった。
(答:問9①×百済が先に滅亡、問10④〇 ※①×戸籍上は減っていても逃亡や偽籍などもあり実際の人口は激減していないと思われる、②×6年が12年になった、③×延喜の荘園整理令は902年、「封事」は914年)〉
〈2013青山学院大・文教育経済法経営
B.10世紀初頭に書かれた「意見封事十二箇条」において、備中国の介として現地に赴任した[ ウ ]は、下道(しもつみち)郡邇磨郷の様子を次のように記し、公民の減少が著しいことを嘆いている。
ここにかの国のc風土記を見るに、皇極天皇の六年(西暦660年)に、大唐の将軍蘇定方(そていほう)、
[ エ ]の軍を率ゐ[ オ ]伐(う)つ。[ オ ]、使を遣して救はむんこと
を乞ふ。(中略)天皇詔(みことのり)を下し、試みにこの郷の軍士を徴(め)したまふ。即ち勝兵(しようへい)二万
人を得たり。天皇、大に悦びて、この邑(むら)を名(なづ)けて二万(にま)郷と曰(のたま)ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ。
これは、660年に[ オ ]が滅亡した際、朝廷から援軍を送ったときの記録であるが、それによると、一つの「郷」だけでたちどころに二万人の兵士が集まったというのである。
しかし同じ史料によると、これ以降次第に公民の数は減少し、8世紀後半のd天平神護年間には1900余人、9世紀後半の[ カ ]年間には70人余りが大帳という帳簿に登録されているだけだったという。このように、地方の公民は有名無実のものとなり、律令別の国家支配は次第に危機に直面していった。
問5.空欄[ ウ ]に入る人名として正しいものを、次の1~4.の中から一つ選べ。
1.菅野真道 2.三善清行
3.在原業平 4.菅原道真
(答:2)
問6.空欄[ エ ][ オ ]に入る国名として正しいものを、次の1~4の中から一つ選べ。
1.渤海 2.新羅
3.高句麗 4.任那
5.倭 6.百済
(答:エ2、オ6)
問7.空欄[ カ ]に入る語句として正しいものを、次の1~4の中から一つ選べ。
1.養老 2.弘仁
3.貞観 4.延喜
(答:3)
問8.下線部c『風土記』について述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1.『古事記』が完成した翌年に、朝廷によって撰進が命じられた。
2.編纂の実務は、舎人親王や藤原不比等によって進められた。
3.地名の由来や地方の特産物などが記録された。
4.現存する風土記の一つとして「出雲国風土記」がある。
(答:2 ※この記述は『日本書紀』に関するもの)〉
問9.下線部d天平神護年間について、この時期の前後の出来事Ⅰ~Ⅲについて、古いものから年代順に並べた組合せとして正しいものを、下のの1~6の中から一つ選べ。
Ⅰ.僧道鏡が太政大臣禅師に任じられた。
Ⅱ.皇位継承をめぐり、和気清麻呂が宇佐八幡宮に遣わされた。
Ⅲ.淳仁天皇が廃位された。
1.Ⅰ-Ⅱ-Ⅲ
2.Ⅰ-Ⅲ-Ⅱ
3.Ⅱ-Ⅰ-Ⅲ
4.Ⅱ-Ⅲ-Ⅰ
5.Ⅲ-Ⅰ-Ⅱ
6.Ⅲ-Ⅱ-Ⅰ
(答:5