岸信介について述べた次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。
岸信介(1896年11月13日生~1987年8月7日没)は、昭和史におけるいくつかの重大な局面に、決定的な刻印を残した政治家である。
戦前の岸信介の経歴を一言で要約すれば、戦時統制経済体制の構築をめざした経済官僚の一群をさす( ア )官僚から東条英機内閣の閣僚へ、ということになろう。
一般に、戦後の岸のもつイメージの強烈さのためか、戦前から他とは違う超大物ぶりを発揮していたかのような風説もままみられるが、彼は必ずしも、この戦争の時代を順風満帆の状態で駆け抜けることができたわけではない。
というよりも、むしろ蹉跌も多い。
たとえば1937年、満州国に赴任していた岸は、( イ )コンツェルン本社の満州移駐を実現するが、同時に計画されたアメリカ資本の導入には失敗した。
この点について岸は、「私は関東軍が反対しなかったら、できたと思いますね」と述べている。
また、経済新体制問題の余波が続くなかで(a)企画院事件が発生した1941年初頭、当時、財界の意向を汲む立場にあった小林一三商工相と対立した岸は、商工次官辞任を余儀なくされる。
それは彼に、「俺はやはり若いのだなとしみじみ感じ」させる出来事であった。
商工省と満州国体験を基盤とする岸にとって、軍部の強圧と現状維持派の抵抗という挟撃は、容易に克服できる性格のものではなかったはずである。
そもそも岸は、第一高等学校から東京帝国大学に入学し、大学では我妻栄(のち民法学者)と首席を争い、(b)上杉慎吉からは後継者に指名された学業エリートである。
そうした人物が往々にして醸しだしがちな体質を、彼もきっと激しく発散させていたにちがいないのだが、官僚時代の経験は、そうした臭さを中和する役割をも果たしたと考えられよう。
東条内閣で商工相などを務めた岸は、戦後、(c)A級戦犯容疑者として逮捕され、およそ3年間の獄中生活を送ったのち不起訴・釈放となった。
まもなく、日本再建連盟の結成(組織的には社会党右派をも射程に収めて活動しようとしたが失敗)など政界での活動を活発化させ、1953年、実弟佐藤栄作らの工作で自由党から総選挙に出馬して当選。
以後、保守勢力のなかでの地歩を急速に固めていく。
保守政党の左ウィングと革新政党の右ウィングが交錯するような二大政党制を主張していた岸は、党人政治家三木武吉らとともに(d)1955年の保守合同を主導し、自由民主党の初代幹事長に就任した。
翌年、鳩山一郎首相が日ソ国交回復を花道に引退すると、自民党次期総裁選びは、岸・石橋湛山・石井光次郎三者の公選となり、第一回投票で岸は一位になったものの過半数に及ばず、決選投票では二・三位連合が成立して7票差で敗れ、石橋新総裁が誕生した。
岸は、この時のことを「私は、はたが思うほど敗北にはこだわっていなかった。……特に衆議院段階では過半数が私に投票したと確信している。
いつの日か私が国家の安危を双肩に担う日が必ず来る、という自信ができた」と回想している。
そのチャンスは、石橋首相の病気退陣により意外なほど早くめぐってくる。
1957年2月、岸内閣が成立した。同内閣の最大の課題は、いうまでもなく(e)片務的で不備な規定をもつ日米安全保障条約(旧安保条約)の改定である。
この作業が安保闘争という空前の大衆的政治運動を生みだしていく過程を簡潔にまとめておこう。
まず岸内閣は、安保改定への布石として、日本の立場の強化をめざす東南アジア歴訪や将来の政治的混乱をにらんだ( ウ )改正などにとりくんだ。
外交面では比較的順調であったが、内政面では( ウ )改正失敗に象徴されるように、社会からの反撃にしばしば直面した。
この過程で、東条内閣閣僚・A級戦犯容疑者という岸のもつ負の印象が人々の記憶に呼びおこされていく。
次に岸内閣が直面した壁は、自民党内の錯綜した派閥争いであった。反主流派からの攻勢をうけて、内閣は幾度となく動揺をみせる。政局の展開を微視的に眺めれば、岸内閣最大の弱点は、国会登場から4年弱で首相の座に就いた岸に、余裕のある党内運営を展開するだけの基盤が不足しがちだった点であろう。
安保改定過程で批判にさらされた強引な政治手法は、時間の欠如を主因とするリーダーシップの未確立によってもたらされた。
最後に、当時の(f)革新勢力にとって、安保は本来「重い」課題であったことを指摘しておく必要がある。
その情勢が急転するのは、内閣が新条約案承認を衆議院で強行採決した1960年5月19日以降のことである。全野党欠席下での裁決が民主主義擁護の声を一挙に高め、そこへ、東京大学女子学生( エ )の国会構内での圧死という事態が重なった。
反岸感情は極度に増幅されて爆発した。デモとシュプレヒコールの嵐を首相官邸で目のあたりにした岸にとって、アイゼンハウアー大統領の訪日中止と内閣総辞職を代償に、(g)参議院の自然承認をひたすら孤独に待つ以外の選択肢は、もはや存在しなかったのである。
実のところ、政治家岸信介の力の源泉については、今なお、ぼんやりとしたままの部分が多い。そこには同時に、知られざる歴史の陰影も封印されているように思われる。
問1 空欄( ア )・( イ )にあてはまる語句の組み合わせとして正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
- ア-大蔵 イ-日窒
- ア-革新 イ-日産
- ア-大蔵 イ-日産
- ア-革新 イ-日窒
正解 2
革新官僚とは、日中戦争・太平洋戦争期に「戦時統制経済体制の構築をめざした経済官僚の一群」をさす。
また、鮎川義介が日本産業会社を中心に形成した日産コンツェルンは、日本と満州にまたがる一大コンツェルンの形成を図るため、1937年、満州国や関東軍の要請に応じ、本社の日本産業会社を満州国の新京(現在の長春)へ移転させた。
翌年、社名を満州重工業開発会社(略称は満業)と改称して「満州産業開発五カ年計画」の遂行機関となった。
問2 下線部(a)の企画院事件について述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1.井上日召を指導者とし、「一人一殺」というテロリズムを唱えた集団による、政界・財界人の暗殺事件。一連のデフレ政策を実行して恐慌をもたらした前蔵相の井上準之助、ドル買い問題で人々から激しく非難された三井合名理事長の団磨が殺された。
2.非合法活動下にあった共産党の活動に驚いた政府が、彼らとその同調者を大量に検挙した事件。
続いて治安維持法も緊急勅令の形式で改正され、最高刑を死刑または無期刑とする、結社に関係した協力者も処罰可能にするといった修正が加えられた。
3.合法的無産勢力や労農派系の学者に対して治安維持法を適用した弾圧事件。
検挙者の中には、『窮乏の農村』の著者である猪俣津南雄、占領期に傾斜生産方式を立案した有沢広巳、のちに東京都知事を務めた美濃部亮吉らも含まれていた。
この事件以降、合法的な反戦運動や社会主義的な立場からの政府批判を展開することは極めて困難になった。
4.稲葉秀三・和田博雄・勝間田清一らが治安維持法違反容疑で検挙された事件。
より強力な戦時統制経済をめざす「経済新体制確立要綱」が財界からの激しい反発を浴びて骨抜きとされるなど、事件の底流には、経済統制の進展・強化を「赤化」思想の現れとみなして攻撃する風潮の高まりがあった。
正解 4
[解説]
1.は血盟団事件(1932年)、2.は三・一五事件(1928年)、3.は人民戦線事件(1937~38年)をさしている。
問3 下線部(b)に関連して、この人物は天皇機関説に対抗して天皇主権説を唱えたことで知られている。双方の憲法学説について述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1.上杉慎吉は、穂積八束の後継として東京帝国大学の憲法講座担当教授となって天皇主権説を唱える代表的学者として活躍し、美濃部達吉と激しく論争した。
その主張は、国家の「統治権」は無限であり、天皇の命令に臣民は絶対無限に服従しなければならないといった考え方に基づいていた。
天皇機関説とは、「統治権」の主体を法人としての国家に帰属させ、天皇は、国家の最高機関として憲法の条項にしたがって「統治権」を行使する存在であると考える学説をいう。こうした解釈は、伊藤博文らの立憲政治に対する理解を発展させたもので、美濃部達吉の登場する以前から、学界のみならず一般にも受けいれられてきた考え方であった。
天皇主権説と天皇機関説は、天皇の権力が絶対無制限か(主権説)、それとも憲法の制約を受けるか(機関説)という点で大きく異なっていた。明治後半期から天皇機関説の主要な担い手となった美濃部達吉は、明治憲法の立憲主義的解釈を展開し、明治憲法のもとで政党内閣は必然である、という結論を導きだした。
4.日中戦争勃発後、衆議院議員の菊池武夫が美濃部達吉の天皇機関説を「国体」に反する思想として激しく攻撃すると、天皇機関説排撃運動が全国各地で展開される状況になった。岡田啓介内閣は、やがて排撃運動の圧力に屈して国体明徴声明を発し、美濃部の憲法解釈を公的に否認することを余儀なくされた。
正解 4
「日中戦争勃発後」「衆議院議員の菊池武夫」の部分が誤り。天皇機関説排撃運動は、1935年、貴族院議員の菊池武夫が美濃部達吉の天皇機関説を「国体(=天皇制)」に反する思想として激しく攻撃したのを機に、皇道派青年将校や民間の国家主義勢力によって全国各地で展開された。
問4 下線部(c)に関連して、A級戦犯容疑者として逮捕・起訴された人物として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1.松岡洋右
2.近衛文麿
北一輝
石原莞爾
正解 1
松岡洋右は、極東国際軍事裁判におけるA級戦犯容疑者として逮捕・起訴されたが、裁判中に病死した。
2.近衛文麿は、A級戦犯容疑者に指名されたが、出頭当日の朝に服毒自殺した。
3.北一輝は、二・二六事件の際の特設軍法会議で死刑判決を受け、1937年に銃殺された。
4.石原莞爾は、東条英機と対立して予備役に編入されたこともあってA級戦犯容疑者にはならなかった。
問5 下線部(d)に関連して述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1.全面講和論が展開された1951年、日本社会党は、サンフランシスコ平和条約を容認する姿勢をとった右派社会党と、平和条約・安保条約いずれにも反対する立場をとった左派社会党とに分裂した。
2.1955年、日本民主党と自由党が合同して自由民主党を結成すると、講和問題をめぐり分裂していた日本社会党も、総選挙での躍進を背景に再統一を果たした。
3.55年体制とは、国会内で自由民主党と日本社会党が議席を寡占する政治状況のことをいい、具体的には、議員の3分の2程度の議席を占めて安定政権を維持する自由民主党と、改憲阻止に必要な3分の1程度の議席を保持する日本社会党が対立することになった。
4.55年体制とは国際政治における冷戦構造に対応して生じた政治状況でもあったため、たとえば、外交・防衛問題などで与野党間の妥協点を探りつつ問題を解決していくことは極めて困難だった。
正解 2
発生した事態の順序が逆になっている。
1955年、総選挙での躍進を背景に日本社会党が再統一を果たすと、危機感を深めた日本民主党と自由党が合同して自由民主党を結成した(保守合同)。
問6 下線部(e)に関連して、サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約の締結(講和・独立)により在日米軍の性格はどのように変わったか、また、岸信介内閣が改定をめざした、日米安全保障条約のもつ「片務的で不備な規定」とは何か。合わせて80字以内で説明せよ。
正解例 「講和・独立を機に在日米軍は占領軍から駐留軍へと性格を変えた。また岸内閣は旧安保条約が駐留米軍に日本防衛義務を課さず、条約期限も明記していない点の改定をめざした。」(80字)
在日米軍については、サンフランシスコ平和条約に「連合国のすべての占領軍は……日本国から撤退しなければならない。但し……協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない」(第6条)と規定され、同時に締結された日米安全保障条約(旧安保条約)で、「平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその付近に配備する権利を、日本国は許与し、アメリカ合衆国はこれを受諾する」(第1条)、ということになった。
また、旧安保条約のもつ「片務的で不備な規定」は解答に記したとおりだが、これが新安保条約(日米相互協力及び安全保障条約)ではどのように改定されたのかも点検しておきたい。
問7 空欄( ウ )にあてはまる法律の名称を、漢字8字で記せ。
正解 「警察官職務執行法」
1958年、岸信介内閣は、安保改定に伴う混乱を予想して、警察官の権限強化を規定した警察官職務執行法(警職法)改正案を国会に提出した。
しかし、反対運動の激化(警職法闘争)により、結局、同法案は審議未了・廃案となった。
問8 下線部(f)に関連して、安保問題が本来「重い」課題であったにもかかわらず、当時の革新陣営は反対運動を地道に積み重ねていったことが知られている。この点について述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1.1950年代以来の米軍基地反対闘争や原水爆禁止運動などにより、当時の革新陣営には、政治運動を展開するための組織や経験などの蓄積があった。
2.岸信介内閣による安保改定作業が本格化すると、当時の革新陣営は、アメリカの世界戦略に日本がより深く結びつけられ、日本が戦争に巻きこまれる危険性を高めるものだと安保改定を激しく批判した。
3.日本社会党・日本共産党・公明党・社会民主連合・総評など革新勢力を結集して安保闘争のための共闘組織として結成された安保改定阻止国民会議は、全国統一行動などを推進して安保闘争を高揚させる最大の母体となった。
4.当時、直接行動路線をとるグループが主導していた全学連(全日本学生自治会総連合)は、国会突入戦術などで警官隊との衝突をくりかえして注目を集めたが、合法的運動を進めようとする安保改定阻止国民会議などからは批判された。
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問8
正解 3
「公明党・社会民主連合」の部分が誤り。安保改定阻止国民会議が結成されたのは1959年3月。これに対して、公明党は1964年、社会民主連合は1978年に結成された。
なお、日本共産党は安保改定阻止国民会議にオブザーバーとして参加した。
問9 空欄( エ )にあてはまる人名を、漢字4字で記せ。
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問9
正解 「樺美智子」
[解説]
東京大学文学部国史学科(現在の日本史学科)の学生で、当時、共産主義者同盟(ブント)の主導下にあった東大全学連の真摯な活動家。
1960年6月15日、警官隊との衝突により国会構内で圧死した。
問10 下線部(g)に関連して、「参議院の自然承認」とは日本国憲法第61条「条約の締結に必要な国会の承認については、前条第二項の規定を準用する」に基づいて発生した事態である。
この「前条第二項の規定」として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1.予算について、参議院で衆議院と異なった議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が衆議院の可決した予算を受け取った後、国会休会中の期間を除いて30日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。
2.参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取った後、国会休止中の期間を除いて60日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。
3.衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。
4.衆議院と参議院とが異なつた指名の議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名の議決をした後、国会休会中の期間を除いて10日以内に、参議院が、指名の議決をしないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。
正解 1
新安保条約は、1960年5月19日に衆議院で強行採決により承認され、同年6月19日、参議院の議決のないまま自然成立した。2.は日本国憲法第59条、3.は第54条、4.は第67条。
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