ベック式!難単語暗記法ブログ

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アメリカの大統領の覚え方 HOW TO MEMORIZE AMERICAN PRESIDENTS

2021-11-15 | ベック式!世界史用語集

ベック式!ゴロ合わせ

1~7

Wash and Jeff made Monk And Jack

George Washington John Adams Thomas Jefferson James Madison James Monroe John Quincy Adams Andrew Jackson

Gilbert Stuart Williamstown Portrait of George Washington.jpg Gilbert Stuart, John Adams, c. 1800-1815, NGA 42933.jpg Official Presidential portrait of Thomas Jefferson (by Rembrandt Peale, 1800)(cropped).jpg James Madison(cropped)(c).jpg James Monroe White House portrait 1819.gif JQA Photo.tif Andrew jackson head.jpg

8~11

Bureau hurry tire poo

Martin Van Buren William Henry Harrison John Tyler James Knox Polk

08 Martin Van Buren 3x4.jpg  William Henry Harrison by James Reid Lambdin, 1835.jpg  Tyler Daguerreotype crop (restoration).jpg Polk 1849.jpg

12~15

Tailor fills more pier butcher

Zachary Taylor Millard Fillmore Franklin Pierce James Buchanan

Millard Fillmore -13th president of the United States.jpg     Zachary Taylor restored and cropped.jpg   Franklin Pierce - Cropped.jpg JamesBuchanan crop.jpg

 

16~

Lin John Grant Hey! Girl

Abraham Lincoln Andrew Johnson Ulysses Simpson Grant Rutherford Birchard Hayes James Abram Garfield

Abraham Lincoln November 1863.jpg 16 Andrew Johnson 3x4.jpg

 

33~

都民愛嬌、
トルーマン 民主党
 アイゼンハウアー 共和党

  検事見ん。
 ケネディ ジョンソン 民主党
 

    何くそ不況、肩は見ん。
ニクソン フォード 共和党 カーター 民主党
 

    礼が不器用 区民武器を見。
レーガン ブッシュ 共和党 クリントン 民主党   ブッシュ 共和党

                            オバマ 民主党 

トランプ競売民主党。
トランプ 共和党 バイデン民主党
1945年、ローズヴェルトの急死で副大統領から昇格したトルーマンは民主党。

朝鮮戦争の解決を公約して当選し、1953年に就任したたアイゼンハウアーは共和党。

ハリー・S・トルーマン33代アメリカ大統領

TRUMAN 58-766-06 (cropped).jpg

▼ドワイト=D=アイゼンハウアー34代アメリカ大統領

Dwight D. Eisenhower, official photo portrait, May 29, 1959 (cropped).jpg

 

アメリカ最初のカトリックの大統領であるケネディ。1963年のケネディ暗殺で副大統領から昇格したジョンソンが民主、1969年に大統領に就任したニクソンフォードが共和。

▼リチャード=ニクソン37代大統領

Richard Nixon presidential portrait (cropped).jpg

1977年に就任し、「人権外交」を展開したカーターが民主。

▼ジミー=カーター39代大統領

レーガン、ブッシュが共和、

93年に就任し財政再建に取り組んだクリントンが民主(「区民」のゴロで93年の就任も覚えてしまおう!)、

▼ビル=クリントン42代大統領

ブッシュの息子で大量破壊兵器を保有しているとの理由で(結局、大量破壊兵器などなかった)イラク戦争を始めたブッシュJr.大統領は共和。

 

 


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★鳩摩羅什(クマラジーヴァ) くまらじゅう

2018-11-21 | ベック式!世界史用語集

 

 ▲Kumarajiva

 

344~413 西域の亀茲(クチャ)出身の僧。父親はインド人で母は亀茲王の妹。インドで仏教を修めたのち、401年、後秦の姚興に迎えられ長安仏典の漢訳と講説に努めた。仏典35部294巻の漢訳は中国大乗仏教の基本経典となって、仏教教理の中国定着に大きな役割を果たした。

 

鳩摩羅什

  ベック式暗記法!

司令長官 クマ野獣(やじゅう)

401年 長安  姚興 漢訳 鳩摩羅什 亀茲出身

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★ドヴァ―ラヴァティ Dvaravatiの覚え方

2018-10-22 | ベック式!世界史用語集

 ◆7世紀頃のインドシナ半島

6世紀後半より、11世紀初めアンコール朝に滅ぼされるまで、チャオプラヤ川下流域(現在のタイ)を中心に栄えたモン族の都市国家連合。

中国では「堕羅鉢底」などと記される。複数の環濠都市からなり、シャム湾やベンガル湾交易に従事していた。

サンスクリット語・パーリ語・モン語が使用され、その勢力はタイの東北部にも及んだ。

主に上座部仏教が信仰され、仏教建築と彫刻を残した。

●ドヴァ―ラヴァティ

  ベック式暗記法!

硬派さドヴァラ 揉んじゃおか。

583年 ドヴァ―ラヴァティ

                モン族

                   チャオプラヤ川下流

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★★★ユスティニアヌス(1世) Justinianus Ⅰ 482~565

2018-05-12 | ベック式!世界史用語集

 ビザンツ帝国皇帝(在位527~565)。

527年、卑賤出身のテオドラとともに即位、彼女の卓抜な政治力に補佐された。

▼皇后テオドラ

532年に起こった国内の民衆反乱(ニカの乱)を鎮定した後、将軍ベリサリウスを派遣してアフリカのヴァンダル王国、イタリアの東ゴート王国を滅ぼし、東方のササン朝ペルシアの侵入を撃退してホスロー1世と休戦条約を結んだ。

ベリサリウス

その一方、バルカン半島におけるフン族・アヴァ―ル人・スラヴ民族の南下を防止して領土を拡大し、ローマの旧領を再現した。

首都コンスタンチノープルに聖ソフィア聖堂を建設し、また法学者トリボニアヌスらに『ローマ法大全』を編纂させ、ローマ法を集大成した。

異教禁圧にもつとめ、プラトンがアテネに創立したアカデメイアも閉鎖して900年の歴史を閉じた。

ユスティニアヌスの下でビザンツ帝国は全盛期を現出したが、帝の死後西方の旧領は急速に失われ国力は低下した。

 ユスティニアヌスの即位(赤:527年)から崩御(オレンジ:565年)までの東ローマ帝国領の拡大

●ユスティ二アヌス

  ベック式暗記法!

古風(こふう)なローマ ユー素敵!

  527年 東ローマ帝国 ユスティ二アヌス

 

●ニカの乱

  ベック式暗記法!

降参ニカは 揺すられて。

  532年 ニカの乱 ユスティ二アヌス

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少女Aで覚えるナポレオン

2018-01-10 | ベック式!世界史用語集

中森明菜 少女A

Napoleon 1769~1821

 フランスの皇帝(在位1804~14/15)。

フランス革命の後を受けて第一帝政を開いた。コルシカ島(1768年以後フランス領)の貴族ボナパルト家出身。パリ士官学校に学んで砲兵士官となり、1789年にフランス革命が勃発。

1793年にはトゥーロン港攻囲戦に王党派を鎮圧して戦功を上げたが、1794年のテルミドール(熱月)反動によってジャコバン派の恐怖政治は終わりを告げ、同派に所属していた彼も投獄・休職となった。

95年10月、王党派によるヴァンデミエールの反乱を鎮圧して総裁政府に認められ、96年イギリス首相小ピットの提唱による第1回対仏大同盟に対抗するため、イタリア遠征軍司令官となって軍事的天才を発揮してイタリア遠征を行いオーストリア撃破に成功した。

97年にはカンポ=フォルミオの和約を締結、フランスはオーストリア領ネーデルラント(ベルギー)、北イタリアのロンバルディアなどを獲得し、ここに第1回対仏大同盟は解消した。

98年、イギリスとインドの連絡路を絶つためエジプトに遠征したが、99年、小ピットの呼びかけで2回対仏大同盟が結成された。

▼小ピット

総裁政府の動揺を知って帰国したナポレオンは、11月、ブリュメール(霧月)18日のクーデタにより統領(執政)政府を樹立、第一執政となり、事実上の軍事独裁を開始した。

フランス革命はここに終結した。

1800年にはフランス銀行を設立。

01年にはローマ教皇ピウス7世と和し、コンコルダート(宗教協約)を締結。

02年、内外の危機を乗り切ったナポレオンはピットが去ったイギリスとの間でアミアンの和約を締結し、イギリスはエジプト撤兵、フランスのベルギー・ライン左岸・北イタリアの領有などを認めた。

この結果、第2回対仏大同盟は解消し、ヨーロッパの平和が実現した。この成功を背景に国民投票で終身統領(終身執政)に就任した。

教育制度の確立、産業育成などの事業を行い、04年にはナポレオン法典を編纂、第一共和政を廃して国民投票でフランス初の皇帝となり、ナポレオン1と称して第一帝政を開いた。

その後もフランス産業の振興と市場拡大を目標として、イギリス・オーストリア・プロイセン・スペインと数々の戦いを行って大陸に覇を唱えた。

05年、小ピットが第一帝政の成立に対抗して3回対仏大同盟を結成すると、イギリス本土上陸作戦を企てたが、フランス・スペイン連合艦隊はジブラルタル海峡北西のトラファルガーでネルソンのイギリス艦隊に大敗した。

イギリス本土直撃を断念したナポレオンは同年大陸制覇を目指してオーストリアに出兵し、ウィーン北方のアウステルリッツでオーストリア(フランツ1世)、ロシア(アレクサンドル1世)を破って第3回対仏大同盟を崩壊させた《「帝会戦で3回解散」と覚えよう!》。

翌06年小ピットは失意のうちに没した。

この年、ナポレオンは南西ドイツ16邦にライン同盟を結成させた。

ここにオットー1世以来の神聖ローマ帝国は八百四十余年の歴史を閉じた。

フランスの覇権が中部ドイツに及ぶのを恐れたプロイセンは危機感を抱き、ロシア・イギリスなどと同盟を結んだ。

さらにこの年ベルリンを占領し、対イギリス作戦の一環として11月にベルリン勅令(大陸封鎖令)を発し、大陸諸国にイギリスとの通商・通信の禁止、イギリス船舶の入港禁止、違反船の没収などを命じた。

07年にはロシアを破り、7月にロシア・プロイセンとの間でティルジット条約を締結。

これにより第4回対仏大同盟は解体、またプロイセンは領土の半ばを放棄。

18世紀末にプロイセンが奪った地域にはワルシャワ大公国を設けた。

08年にはスペイン王を追放し、首都マドリードの市民蜂起を鎮圧、(五月二日事件)、ナポリ王としていた兄のジョセフをスペイン王位につけた。

スペイン民衆は世界史上初のゲリラ戦を展開、以後スペイン・ポルトガルを舞台にスペイン独立戦争が勃発した。

09年、ナポレオンはオーストリアを破り、シェーンブルンの和約を結んだ。

同年、ジョセフィーヌと離婚し、10年にオーストリア皇帝フランツ1世の娘、マリー=ルイーズと結婚。

ここに全盛期を迎えたが、12年、公然と大陸封鎖を無視するロシアに対して遠征を開始、9月にボロディノの戦いで大損害を被りつつ、モスクワに入城した。

しかしロシア軍の焦土戦術、食糧難、寒気に苦しみ、退却を開始すると、クトゥーゾフ将軍指揮下のロシア軍の追撃で惨敗、大陸軍は壊滅した。

13年プロイセン・ロシアが同盟し、対仏宣戦。間もなくヨーロッパのほとんどの国が加わって4回対仏大同盟が結成され、諸国民が一斉に解放戦争に立ち上がった。

ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でプロイセン・オーストリア・ロシア・スウェーデンの連合軍に敗れ、14年に退位し、イタリア西岸のエルバ島に配流された。

フランスでは、革命によって処刑されたルイ16世の弟が、ルイ18世として即位し、ブルボン朝が復活。列国はウィーン会議を開いてヨーロッパの秩序再建を討議した。15年、ブルボン復古王朝下の反動政治に対する国民の不満、ウィーン会議をめぐる列国の利害対立を察知したナポレオンはエルバ島を脱出してパリに入り、、百日天下を実現したが、ワーテルローの戦いに敗れて、セント・ヘレナ島に流され、21年にここで一生を終えた。

彼は、内政では、ジャコバン党の行った土地改革を守って農民の生活を安定させ、フランス銀行の設立のほか、行政・司法・学制の整備に努力した。

対外戦争には約100万の兵士を失い、結局イギリスに敗れたが、これによりフランス革命の理念が全ヨーロッパに広がり、19世紀の多くの革命とナショナリズム運動の発端となった。

 

 「少女A」の替え歌

コルシカ生まれの 私の出世は ヴァンデミエール 避難救護する(1795)。

苦労(96)のイタリア、苦難(97)のカンポエジプト遠征イギリス遮断するため~。

99年のブリュメールには 総裁政府を 倒して統領に。

コンコルダートアミアン和約に(2)、法典作って即位したのよ(4)~。

焦れったい、焦れったい 対仏同盟 3回目の後(5)。 

焦れったい、焦れったい トラファルガーでは負けてしまうが~。

アウステルリッツ ライン同盟 私 ナポレオン。

           〈間奏〉

憎き(にっくき)イギリス 困らせるための 大陸封鎖は1806年。

次の年にはティルジット約、ウェストファリアとワルシャワ大公国

大陸封鎖を 無視したロシアに 遠征するのよ 1812年~。

軍隊連れてく50万人 ライプチヒで負けエルバ島に島流し~。

焦れったい、焦れったい ルイ18世 王政復古~。

焦れったい、焦れったい ワーテルローでも大敗するわ

セントヘレナでつい(21年)に死んだの 私ナポレオン。


 

1800年にナポレオン・ボナパルト率いる仏軍がオーストリア軍に大勝利を納めた戦い(マレンゴの戦い)

a battle in 1800 in which the French under Napoleon Bonaparte won a great victory over the Austrians

 

ナポレオンは、1812年にロシア西部のモスクワの西側での会戦でロシア人を破ったが、取り返しがつかないほど彼の軍隊は弱体化した

 

Napoleon defeated the Russians in 1812 in a pitched battle at a village in western Russia west of Moscow, but irreparably weakened his army

 

ナポレオンは 1814 年にエルバ島に流された.

Napoleon was banished to Elba in 1814.

翌年、ナポレオンのエルバ島脱出によってルイ18世は再び国外へ亡命するが、ナポレオンの支配が百日天下に終わると帰国した。

In the following year, when Napoleon escaped from the Elba, Louis XVIII defected abroad again but returned to France soon after Napoleon's hundred days' rule ended.

ナポレオンの軍隊は1815年にワーテルローの戦いに敗れた。

Napoleon's army lost the battle of Waterloo in 1815.

ワーテルローの戦いがナポレオン戦争を終結させた.

The Battle of Waterloo brought the Napoleonic Wars to an end.

 

ナポレオンは南大西洋のセント・ヘレナ島に流された.

Napoleon was exiled to St. Helena in the South Atlantic.

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ライン川流域の都市(上流から)

2018-01-06 | ベック式!世界史用語集

ラインストマイ ケルロッテ。

ライン川 ストラスブール(アルザス地方の中心地) マインツ ケルン ロッテルダム 

ドイツ西部を南から北に向かって流れるライン川は、アルプスに水源を発し、北ドイツの低地を貫流して北海に注いでいる。

ローレライの奇岩と美しい古城が独特の景観をつくっているが、ボン、ケルン、デュッセルドルフなど、ルールの諸工業都市を抱いてラインラントを形成している。

ライン川1日観光

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★カーリミー商人

2017-12-20 | ベック式!世界史用語集

紅海を中心にインド洋と地中海を結ぶルートで、香辛料や絹・陶磁器などを扱う貿易で活躍したムスリム商人

11世紀から15世紀、アイユーブ朝からマムルーク朝時代の前半にカイロを基地として紅海、インド洋の香辛料貿易に排他的に従事。

アレクサンドリアでイタリア商人に売却し、巨利を得た。

各地に商館をおいて香辛料貿易を独占したが、マムルーク朝の独占貿易政策などで15世紀に衰退した。

●カーリミー商人

  ベック式暗記法!

 愛守るかい?(かおり)見ぃ。

アイユーブ朝

アレクサンドリア

   マムルーク朝

             カイロ インド洋 

              カーリミー商人

                香辛料貿易

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ティグリス川とユーフラテス川

2017-12-16 | ベック式!世界史用語集

ベック式!ゴロ合わせ(上流から下流)。出来悪いけど、ないよりは絶対マシだから。

ニネ圧バグ苦 ティグは来た。

ニネヴェ アッシュール

       バグダード クテシフォン

                ティグリス川 北

ユーフラテス川(上流から下流に)

ユーフセレバビ ウルクウル。

ユーフラテス川 

バビロン(ティグリス川との間隔がセレウキアで狭くなったあと、広がっているところ。 ハンムラビ王の時、バビロニアの首都となった(ついでにバビロンの緯度(北緯33度)はシリアのダマスクスとほぼ等しいことも参考に!)) ウルク ウル(ウル第一王朝の首都)

メソポタミアの地図上で、ティグリス川とユーフラテス川をしっかりと区別すること。ティグリス川とユーフラテス川はアナトリア高原東部から流れ出ており,メソポタミアでは毎年4,5月に増水し,大洪水をもたらすこともあった。

北側を流れるのがティグリス川で、クテシフォン(パルティア、ササン朝の都)とバクダードはこの川に隣接。

なお、上流にはアッシリアの都ニネヴェがある。ユーフラテスは同じくアルメニア地方から大きく蛇行してティグリス川の南西側を流れる。シュメール人の都市国家ウル、ウルクはその下流にあった。

またバビロンはその中流にあった(ついでにバビロンの緯度(北緯33度)はシリアのダマスクスとほぼ等しいことも参考に!)。

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ヒンドゥー教三大主神の覚え方

2017-10-26 | ベック式!世界史用語集


シヴァヴイシュヌブラフマーを3大主神とする多神教だった。  


▼シヴァ・宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神. 


▼ヴイシュヌ・宇宙の維持を司る神。


▼ブラフマー、宇宙の創造を司る神(中央)。

酷いブラッフ ビシバシと。

ヒンドゥー教 ブラフマー ヴィシュヌ シヴァ

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1級世界史

2017-10-10 | ベック式!世界史用語集

 

 15~17世紀は、かつて「地理上の発見」時代とされてきたが、近年、この呼び方があまりにヨーロッパ中心的でありすぎるとの批判から、「大航海時代」と呼ぶのが普通になった。しかし、この「大航海時代」という呼び方もヨーロッパ中心史観を脱しきっていない、という批判があり、そうした批判者の中には、この時期が、ヨーロッパ人に刺激をうけた形ではあるものの、インドから東南アジアをへて中国・日本にいたる海域でも海上交易が非常に活発化した時代にあたるので、世界的規模での「大交易時代」と呼ぶことを提唱する人々もいる。いずれにしても、この時代に「世界の一体化」が始まったと考えてよい。「大交易時代」と重なる形でヨーロッパ諸国の植民地抗争も起こる。「大交易時代」の世界や海上貿易・植民地抗争をめぐる歴史について、あとの問いに答えなさい。

問1 15世紀前半には、7度におよぶ鄭和の南海遠征が行われ、分遣隊はアフリカ大陸の東岸やアラビア半島西岸の紅海に達した。15世紀前半のアジア諸国について述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

  1. 日本では、京都で応仁の乱が起こった結果、室町幕府が衰えて戦国時代に入り、沖縄では、中山王が北山・南山を倒して統一が達成され、中山王は明から冊封をうけ、明に朝貢した。
  2. 朝鮮半島では、朝鮮王朝(李朝)の太宗が朱子学を基盤として儒教的な王道政治の確立をめざす一方、子音や母音を表す文字要素を組み合わせて音節文字とするハングルを訓民正音として公布した。
  3. ベトナム北部は、陳朝の復興をかかげる明の永楽帝によって占領・支配されたが、永楽帝の死後、黎利(レ=ロイ)が明からの独立を達成し、黎朝大越国を建設し、都をハノイにおいた。
  4. 南インドでは、チョーラ朝がラージャラージャ1世の子ラージェーンドラ1世のもとで最盛期を迎え、スリランカへ侵攻したのみならず、マレー半島やスマトラ島へも遠征軍を送った。
問1
正解 3
1.応仁の乱は、15世紀の前半でなく後半。2.太宗でなく世宗。4.ラージェーンドラ1世は15世紀でなく11世紀。

問2  15世紀には、ポルトガル人の海上への進出も始まる。15世紀のポルトガル人航海者について述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

  1. ポルトガル王ジョアン2世の子エンリケ航海王子は、モロッコのセウタ攻略後アフリカ大陸に興味を持ち、自ら船隊を率いてアフリカ大陸の西岸を探検し、ギニア湾のニジェール川河口に達した。
  2. バルトロメウ=ディアスは、ポルトガル王の命令でインド航路開拓のためアフリカ大陸西岸を南下し、アフリカ大陸の南端に達してそこを嵐の岬と命名したが、帰国後、ポルトガル王が喜望峰と改名した。
  3. カブラルが、ポルトガル王マヌエル1世の命令でアフリカ大陸西岸を航海中に海流に流されてブラジル漂着し、この地をポルトガル領と宣言したことは、トルデシリャス条約が結ばれる原因となった。
  4. ヴァスコ=ダ=ガマは、喜望峰を回ってアフリカ大陸東岸の都市マリンディに寄り、その地でイスラーム教徒の水先案内人イブン=ハズムを得て、インド洋を横断してインド東南海岸のカリカットに到達した。
問2
正解 2
1.ジョアン2世ではなくジョアン1世。またエンリケ航海王子は、自らは探検せず、航海者を育成し、探検を奨励したといわれる。さらに彼の時代には、アフリカ大陸西岸の南下はシエラレオネまでで、ギニア湾には入っていないとされる。3.カブラルのブラジル漂着は1500年で、1494年のトルデシリャス条約の後。4.イブン=ハズムではなくイブン=マージド。イブン=ハズムは、後ウマイヤ朝の詩人・神学者。またカリカットは、インドの東南海岸ではなく西南海岸。

問3 スペインは16世紀に、新大陸で産出される銀などを財政基盤として繁栄した。16世紀のスペインの内政と海外進出について述べた次の文章 I ・ II の正誤の組み合わせとして正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

I. スペイン王カルロス1世は、神聖ローマ皇帝をも兼任し、イタリア戦争ではフランス=ヴァロワ朝のフランソワ1世と戦い、1559年にカトー=カンブレジ条約を締結した。その後即位したフェリペ2世は、ポルトガルの王位を兼ね、「太陽の沈まぬ国」を実現した。しかし彼の時代には、ユトレヒト同盟を結ぶネーデルラント北部7州が、オラニエ公ウィレムを指導者として独立宣言を出す一方、スペインの誇る無敵艦隊(アルマダ)がイギリス艦隊に敗れた。

II. スペインは、アメリカ大陸でメキシコのテオティワカンを都とするアステカ帝国とペルーのクスコを都とするインカ帝国を滅ぼす一方、アジアにも進出した。カルロス1世の援助をうけて船隊を編成し、丁子(丁字、クローヴ)などの特産地モルッカ諸島を西回りでめざしたマゼラン(マガリャンイス)は、フィリピン諸島でラプラプと戦って戦死したが、その後レガスピによってルソン島にマニラが建設され、メキシコのアカプルコとガレオン船で結ぶ貿易で栄えた。

  1. I-正 II-正
  2. I-正 II-誤
  3. I-誤 II-正
  4. I-誤 II-誤
問3
正解 4
I-カトー=カンブレジ条約はフェリペ2世の即位後。II-テオティワカンではなくテノチティトラン。テノチティトランは現在のメキシコシティ。テオティワカンは、メキシコシティの北方で前2~後6世紀に栄えた文明の遺跡。

問4 16世紀には、ポルトガル・スペインのアジア・新大陸進出によって、ヨーロッパに大きな社会的・経済的変化が生じた。こうした社会的・経済的変化について述べた次の文章を読み、下線部1~4のうちから誤っているものを一つ選んで、その部分にあてはまる正しい語句を記せ。

現在の1.ボリビアのポトシ銀山などで産出されたラテンアメリカ産の銀が大量にヨーロッパへ流入すると、ヨーロッパの物価は2~3倍に上昇した。この価格革命により、固定地代に頼る封建領主層は没落をはやめた。一方、ヨーロッパにおける貿易の中心が地中海から大西洋岸へ移る商業革命の結果、16世紀半ばにはフランドル地方の海港都市2.アムステルダムが国際金融の中心として繁栄した。このように西ヨーロッパで商工業がさかんになると、3.エルベ川以東の東ヨーロッパでは、領主が農奴を用いて輸出用穀物を生産する4.グーツヘルシャフトが広まり、東ヨーロッパが西ヨーロッパに従属する形の分業体制が形成された。

問4
正解 「アントワープ(アントウェルペン、アンヴェルス)」
2.アムステルダムがアントワープ(アントウェルペン、アンヴェルス)の誤り。アントワープは英語。アントウェルペンはオランダ語、アンヴェルスはフランス語。アムステルダムはアントワープに代わって17世紀頃に国際金融の中心として栄えたオランダの都市。

問5  16・17世紀には、インドから中国にいたる地域へヨーロッパ諸国がさかんに進出した。これについて述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

  1. ポルトガルは、スリランカに進出し、デイウ沖の海戦でマムルーク朝の艦隊を破り、インド西海岸のゴアを拠点として東南アジアへ進出し、マレー半島のイスラーム国家マラッカ王国を滅ぼした。
  2. オランダは、ジャワ島のバタヴィアを拠点とし、16世紀にジャワ島西部のバンテン王国や東部のマタラム王国をあいついで滅ぼす一方、17世紀の日本の鎖国後は長崎の出島を拠点として日本とヨーロッパの間の貿易を独占した。
  3. イギリスは、モルッカ諸島のアンボイナでオランダとの抗争に敗れた後、インド東南海岸のマドラスに進出し、さらにムガル帝国のアウラングゼーブ帝の時代にはボンベイやカルカッタをも拠点とした。
  4. フランスは、ルイ14世の時代にインドに進出し、インド東南海岸のポンディシェリ、ガンジス川の河口部のシャンデルナゴルを拠点としたが、いずれも近くにイギリスの拠点があり、その後の抗争の背景となった。
問5
正解 2
バンテン王国・マタラム王国は、16世紀にオランダに滅ぼされておらず、バンテン王国は19世紀まで、マタラム王国は18世紀まで、それぞれ存続した。

問6 「大交易時代」は、いわゆる倭寇が活躍した時期でもある。この倭寇について述べた次の文章を読み、下線部1~4のうちから誤っているものを一つ選んで、その部分にあてはまる正しい語句を記せ。

14世紀から15世紀にかけての倭寇は前期倭寇とされ、日本人主体の海賊が朝鮮半島から中国にかけての地域を襲ったものであり、1.李成桂はこの倭寇の撃退に功績を挙げ、これを背景に高麗を倒して新王朝を建てた。これに対して16世紀を中心とする後期倭寇は、2.海禁政策に不満な中国人を中心とするもので、日本に根拠地をもって中国沿岸を襲った3.王直はその典型とされる。この後期倭寇は、16世紀半ばに北京に迫った韃靼(タタール)の4.エセン=ハンらの北虜に対して南倭と呼ばれる。

問6
正解 「アルタン=ハン」
4.エセン=ハンがアルタン=ハンの誤り。エセン=ハンは、15世紀のモンゴル系オイラトの指導者で、1449年の土木の変で明の正統帝(英宗)を捕虜とした。なお、韃靼(タタール)もモンゴル系の部族。

問7 17世紀には、アメリカ大陸方面でもヨーロッパ諸国の植民地建設競争が激しくなった。イギリスとフランスの北アメリカにおける植民地建設について述べた次の文章 ・ IIの正誤の組み合わせとして正しいものを、あとの1~4のうちから一つ選べ。

I.ヴァージニアは、ローリーによって建設され、当時のエリザベス1世にちなんで命名されたが、このときの植民は失敗に終わった。したがって通常、ヴァージニアはジェームズタウンの建設に始まるとされる。それでも、ヴァージニアはイギリス最初の北アメリカ植民地である。ついでピルグリム=ファーザーズが建設したプリマス植民地は、やがてマサチュセッツ植民地に編入された。一方ニューヨーク植民地は、オランダから奪ったものである。いずれにしても、イギリスの13植民地はすべて17世紀に成立した。

II.フランスは、ケベックを建設してカナダ植民地を形成し、セント=ローレンス川を遡って五大湖に出、ミシシッピ川を下った。こうして、ミシシッピ川の広大な流域はフランス領となり、ルイ14世にちなんでルイジアナと名づけられた。また、ミシシッピ川の中流域には同じくルイ14世にちなんで命名されたセントルイスが、河口部にはオルレアン家にちなむニューオーリンズが建設された。

  1. I-正 II-正
  2. I-正 II-誤
  3. I-誤 II-正
  4. I-誤 II-誤
問7
正解 4
I-イギリスの13植民地のうち最南のジョージアのみは、17世紀ではなく18世紀前半に成立し、当時のハノーヴァー朝第2代ジョージ2世にちなんで名づけられた。II-セントルイスは「聖ルイ」を意味し、ルイ14世ではなくルイ9世にちなんで命名された。
 
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2級世界史

2017-10-07 | ベック式!世界史用語集

 

 中国における儒学の歴史について述べた次の文章【A】【B】を読み、あとの問いに答えなさい。

【A】  儒家の祖とされるのは、(a)春秋時代に魯の国に生まれた孔子である。彼は仁を政治上・倫理上の理想とし、各人が仁を実践することで社会秩序が維持されるとした。孔子の思想はその後、弟子たちやさまざまな思想家に受け継がれたが、戦国時代に活躍した(b)孟子もその代表的人物の一人である。
 前3世紀末に中国の政治的統一を達成した(c)秦の始皇帝は、焚書・坑儒の言葉で知られるように儒家を弾圧したが、前漢の武帝の時代には(  )の献策で儒学が官学とされ、続く後漢の時代には、経書の字句の解釈を目的とする訓詁学が発展し、(  )らが大きな功績を残した。
 後漢の滅亡後、儒学は停滞したが、隋・唐代には皇帝による儒学の奨励で再びさかんとなった。(d)唐の太宗の命を受けて孔穎達らが編纂した『五経正義』は、後漢以来の訓詁学の集大成にあたる。

問1 下線部(a)の時代について述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

  1. 周王室の鎬京への遷都が、この時代の始まりとされている。
  2. 斉の桓公などの有力諸侯は、「春秋の五覇」と称されている。
  3. 諸侯国の一つである燕は、陝西地方を支配した。
  4. 楚の韓・魏・趙への分裂をもって、この時代は終幕した。
正解 2
1.鎬京は洛邑の誤り。3.燕が支配したのは中国東北部。陝西地方を支配したのは秦。4.楚は晋の誤り。

問2  下線部(b)の人物について述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

  1. 性善説を唱え、王道政治を主張した。
  2. 無為自然を唱え、一切の人為を否定した。
  3. 性悪説を唱え、礼による統治を強調した。
  4. 兼愛を唱え、侵略戦争を否定した。
問2
正解 1
2.無為自然を唱えたのは道家の老子。3.性悪説を唱えたのは荀子。4.墨子に関する記述。

問3 下線部(c)の人物の事績について述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

  1. 全土に郡県制と呼ばれる統治制度を実施した。
  2. 統一貨幣として半両銭を鋳造した。
  3. 匈奴の侵入を阻止するために万里の長城を修築した。
  4. 塩・鉄・酒の専売制度を創始した。
問3
正解 4
前漢の武帝に関する記述。

問4 空欄(  )・(  )にあてはまる人名の組み合わせとして正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

  1. ア-董仲舒 イ-鄭玄
  2. ア-董仲舒 イ-蔡倫
  3. ア-司馬遷 イ-鄭玄
  4. ア-司馬遷 イ-蔡倫
問4
正解 1
3.4.アは『史記』の編纂者。2.4.イは後漢の宦官で、製紙法の改良者とされている。

問5  下線部(d)に関連して、太宗の時代について述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

  1. 太宗の時代の政治は、「開元の治」と称された。
  2. 唐は新羅と連合して高句麗を滅ぼした。
  3. 太宗の時代の政治は、「貞観の治」と称された。
  4. 税の増収をはかるため、両税法を採用した。
問5
正解 3
1.「開元の治」は玄宗の治世の前半を指す言葉。2.高句麗が滅ぼされたのは高宗の時代。4.両税法が創始されたのは徳宗の時代の780年。

【B】  宋代になると、仏教などの影響を受けて宋学と呼ばれる宇宙論哲学が創始された。北宋の儒学者で『太極図説』を著した(  )がその先駆者とされ、南宋の(e)朱熹によって大成されたことから、宋学は朱子学とも称されている。朱子学は元以降の中国の王朝で官学となるとともに、(f)李朝(朝鮮王朝)にも受容されて官学となり、また江戸時代の日本でも幕府の御用学問となった。
 明代の半ばには、王守仁(王陽明)が南宋の陸九淵の説を継承して実践を重んじる陽明学を創始した。この学派に属する李贄(李卓吾)は徹底した合理主義・個人主義の立場から朱子学を批判したことから、危険人物として投獄され、獄中で自殺した。(g)明末・清初には、黄宗羲・顧炎武らによって考証学が創始された。考証学は本来実証主義と実用主義をその特色としたが、(h)清朝による思想弾圧のために、やがて実用主義の側面は失われた。銭大昕はこの時期の考証学の大家の一人である。

問6 空欄(  )にあてはまる人名を、漢字で記せ。

問6
正解「周敦頤
周敦頤は北宋の儒学者で、宋学の祖とされる。

問7 下線部(e)の人物について述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

  1. 四書を重視し、『四書集注』を著した。
  2. 知行合一や致良知などを唱えた。
  3. 性即理説や格物致知説などを唱えた。
  4. 君臣などの区別を重視する大義名分論を説いた。
問7
正解 2
知行合一や致良知を唱えたのは、明代の儒学者で陽明学を開いた王守仁(王陽明)。

問8 下線部(f)の王朝について述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

  1. 骨品制と呼ばれる出自に基づく身分制度がとられた。
  2. 世界最古の金属活字が造られた。
  3. 訓民正音と呼ばれる独自の音標文字が制定された。
  4. 科挙が初めて導入され、両班と呼ばれる新たな階層が生まれた。
問8
正解 3
1.新羅に関する記述。2.4.高麗に関する記述。

問9 下線部(g)に関連して、明末・清初の政治的動向について述べた次の文章を読み、空欄( a )・( b )にあてはまる人名の組み合わせとして正しいものを、あとの1~4のうちから一つ選べ。

 1644年に明が滅亡すると、明の武将であった( a )は清側に投降し、この( a )の先導で清軍が北京に入城した。こうして始まった清による中国支配に抵抗した( b )は、1661年、反清・復明闘争の拠点を台湾に移した。

  1. a-李自成 b-鄭成功
  2. a-李自成 b-張居正
  3. a-呉三桂 b-鄭成功
  4. a-呉三桂 b-張居正
問9
正解 3
1.2.aは明を滅亡に追い込んだ農民反乱の指導者。2.4.bは明の万暦帝の時代に行財政改革を試みた人物。

問10 下線部(h)に関連して、清朝は漢民族に対する弾圧政策と懐柔政策を巧みに使い分けて中国統治を安定化させた。こうした清朝の統治政策について述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

  1. 文字の獄や禁書によって、反満思想を統制した。
  2. 満漢併用制をとって、漢民族にも高官につく機会を与えた。
  3. 漢民族の男子に満州族の習俗である辮髪を強制した。
  4. 中国文化を尊重し、『五経大全』などの編纂事業を行った。
問10
正解 4
『五経大全』を編纂させたのは明の永楽帝。清代には『康煕字典』『古今図書集成』『四庫全書』などが編纂された。

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イスラーム世界の成立

2017-08-04 | ベック式!世界史用語集
イ.イスラーム世界の成立
■ポイント 正統カリフ時代からウマイヤ朝に変化した理由と、宗派の対立はなぜ起こったかを理解する。
 正統力リフ時代 
・632年 ムハンマド没。信者の共同体の中から後継者(a 力リフ )を選出。
・初代 b アブー=バクル  ムハンマドの妻の父。大規模な征服活動をc 聖戦(ジハード) として行う。
・▲2代 d ウマル   637年、 カーディシーヤの戦い での勝利に続き、
 642年 e ニハーヴァンドの戦い でf ササン朝ペルシア を破る。イラン人のイスラーム化が始まる。
 → さらにg ビザンツ帝国 からシリアエジプトを奪い西アジアの穀倉地帯を支配。
※イスラーム国家 : カリフを宗教的・政治的権力者としてイスラーム教の信仰によって結びついた、
アラブ人を主体として多くの民族を含む世界帝国が成立。(サラセン帝国)ともいう。
・征服地に軍営都市(i ミスル )を建設。アラブ人が家族を伴い移住。イラクのクーファ 、 イラクのバスラ 、 エジプトのフスタート など。
ミスルスタート クーファバス(西から東へ)。
ミスル  フスタート  クーファ  バスラ 
・▲3代  j ウスマーン  ウマイヤ家出身。(シーア派はカリフと認めない)
 → 征服地の分配、力リフの選出などをめぐり、イスラーム共同体の内紛起こる。
・4代 k アリー 、ムハンマドの従弟で、娘ファーティマの夫。
 → シリア総督のウマイヤ家のl ムアーウィヤ と争う。
 661年 暗殺される(ハワーリジュ派による)。 → シーア派は初代m イマーム とする。

解説

アリーはムハンマドと同じくメッカのハーシム家の出で、ムハンマドの娘ファーティマの夫となった。大変勇敢な指導者として「アッラーの獅子(アサドッラーク)」と言われた。656年、ウマイヤ家出身のカリフ・ウスマーンが暗殺された後、ムハンマドに最も近い人物と言うことでカリフに選出されたが、ウマイヤ家の統領であるシリア総督ムアーウィヤはアリーがウスマーン殺害の背後にあるとみなして対立し、660年ダマスクスでカリフを称して離反した。両者の争いは決着がつかず、アリーはムアーウィヤの提案を入れて戦闘を中止した。それに反発した過激派(ハワーリジュ派)の刺客が両者を暗殺する計画をたて、661年、クーファでアリーの暗殺に成功した。ただ一人カリフとして残ったダマスクスのムアーウィヤがイスラーム世界の統治者となったが、それを認めずにアリーの子孫のみをイスラームの指導者(イマーム)であるとするシーア派が出現することとなる。
 ウマイヤ朝  の成立
・661年 シリア総督a ムアーウィヤ がカリフとなり、以後世襲される。b ダマスクス を都とする。
 680年 カルバラーの戦い ウマイヤ朝軍、シーア派イマームのフサインを殺害。
・第5代カリフ ▲c アブド=アルマリク (在位685~705) 統一政策と外征を進める。
 695年 d アラビア語 を公用語とする。
  同 年 統一貨幣(ディーナール金貨ディルハム銀貨)を鋳造。

Text p.103

・領土の拡大
 東方 704年 中央アジアのe ソグディアナ に進出。中央アジアへのイスラーム教拡張。
    711年 インドのインダス下流に進出。ヒンドゥー教徒との抗争続く。
 西方 北アフリカのチュニスを制圧、ベルベル人のイスラーム化が進む。
  → ▲f ビザンツ帝国 との抗争 コンスタンティノープルを攻撃、 シチリア島にも進出。
 711年 タンジール からジブラルタルを越えてg イベリア半島 に進出、h 西ゴート王国 を滅ぼす。
・732年 i フランク王国 に侵入。j トゥール・ポワティエ間の戦い で敗れる。
 → キリスト教世界を守ったカロリング家の宮宰カール=マルテルがカロリング朝を開く。(次章で説明)
 アラブ帝国  の形成
・a ウマイヤ朝 のもとで、征服者であるアラブ人が絶対的優位に立つ。同時にカリフの権限はさらに強大になった。
・帝国の国家財政 征服地の先住民にb 地租(ハラージュ)  とc 人頭税(ジズヤ) を課す。
 → d 征服地の異民族(非アラブ人)は、租税を納めることで信仰は認めたが、改宗しても課税された。 
 ※イスラーム教は、異教徒に対して改宗を強制したのではなかったことに注意する。
・このような特色を持つウマイヤ朝時代をC アラブ帝国 ともいう。
 イスラーム教の分裂 
・a ウマイヤ朝 の成立に伴い、イスラーム教団がカリフの地位をめぐって分裂。
・b スンナ派 :ウマイヤ朝のカリフを認めた多数派。
  主張:c ムハンマドの言行(スンナ)を生活の規範とし、共同体の統一を重視する。 
・d シーア派 :ウマイヤ朝のカリフを認めず、独自の指導者( イマーム )をたてた少数派。
  主張:e 4代目カリフのアリーの子孫のみを正当な指導者とする。 
  = “アリーを支持する”という意味の“シーア・アリー”からきた。イスラーム教徒の約1割。
・両派の対立は現在のイスラーム世界でも続いており、世界の不安定要因の一つとなっている。
先頭へ
用語リストへウ.イスラーム帝国の形成
■ポイント 「アラブ帝国」から「イスラーム帝国」への変化の意味を理解する。
・ウマイヤ朝に対するイスラームに改宗した非アラブ人(a マワーリー )の不満が強まり、
 またスンナ派とシーア派の対立も始まる。ムハンマドの叔父の子孫 b アッバース家 の勢力が強まる。
 → ホラーサーン地方を拠点にウマイヤ朝に抵抗続ける

Text p.104

 アッバース朝 
バグダード・750年 アブー=アルアッバース、力リフを称す。
 a シーア派、アラブ以外のイスラーム教徒 
 が協力し、b アッバース革命 を成功させる。
 751年 中央アジアに進出し、唐と戦う。
 = c タラス河畔の戦い (前出)
・第2代 d マンスール 
 首都e バグダード を建設。
 円形の都市計画。円城から四方に道路が延び、
 運河などの交通網が発達していた。 (右図)
・f イラン人 などの改宗者を要職に登用、
 官僚制度を整える。 
 → 権力を握ってからはスンナ派を保護し、
 シーア派は弾圧。
 イスラーム帝国 の成立  アッバース朝での諸改革
税制改革 イスラーム教徒であれば、アラブ人以外でもa 人頭税(ジズヤ)を免除。 
      アラブ人でも征服地に土地を所有すればb 地租(ハラージュ) を課す。
 意義:c イスラーム教徒であれば、アラブ・非アラブの区別を無くし、平等にした。 

解説

ウマイヤ朝までとアッバース朝以降のイスラーム帝国の税制の違いを概略を示す。×は課税されないことを示し、○は課税されることを示す。非アラブ人のマワーリーとはイスラーム改宗者、ズィンミーとは非改宗者で被保護者の意味。

王     朝 ウマイヤ朝まで アッバース朝から
税     制 ハラージュ ジズヤ ハラージュ ジズヤ
ア ラ ブ 人 × × ×
非アラブ人 マワーリー ×
ズィンミー
・d イスラーム法(シャリーア) :民族差別を無くしたカリフのによる統一的な支配の根拠とされる。
 アッバース朝の意義:e 「アラブ人の国家」から「イスラーム教徒の国家=イスラーム帝国」に変質した。 
 ただし、公用語は依然としてf アラビア語 とされた。
・イスラーム圏 西アジアから東はイラン、中央アジア、インドへ、西は北アフリカからイベリア半島まで広がる。

地図 イスラーム世界の拡大

イスラーム帝国の拡大 

  a ムハンマド時代    b 正統カリフ時代    c アッバース朝    d ビザンツ帝国 

 重要地名 1 メッカ   2 メディナ   3 ダマスクス  イェルサレム 
      5 バグダード   6 アレクサンドリア   7 コルドバ   8 グラナダ 
      9 トゥール   10 ポワティエ   11 ローマ   12 コンスタンティノープル 
      13 ニハーヴァンドの戦い   14 トゥール=ポワティエ間の戦い   15 タラス河畔の戦い 

先頭へ
用語リストへエ.イスラーム帝国の分裂
■ポイント 隆盛を誇ったイスラーム帝国が、三カリフに分かれ、分裂した事情とその後の各地域の動きを知る。
 後ウマイヤ朝 の成立
・756年 ウマイヤ朝の一族、a イベリア半島 に逃れ建国。アッバース朝カリフから自立しアミールと称す。
 首都b コルドバ  → バグダードの文化を吸収、高度なイスラーム文明を生みだす。
・ ▲8世紀末 c カール大帝 時代のフランク王国の侵入を撃退した。
 = ヨーロッパの一部のイベリア半島に、キリスト教国と隣接してイスラーム国家が存在したことに注意。
 → 半島の北部に残ったキリスト教徒が、イスラーム教徒からの国土回復運動を開始する(後出)。
 10世紀、d カリフ を称す。 → 1031年滅亡 小国に分裂、キリスト教勢力の攻勢強まる。
→ その後もコルドバはヨーロッパがアラビアの先進的な文化を受け入れる窓口となった(後出)。

Text p.105

 アッバース朝 の全盛期8世紀末~9世紀
・5代カリフ a ハールーン=アッラシード (在位786~809年)の時、全盛期となる。 
 学問、芸術を保護し、イスラーム文化の黄金時代と言われる。
 → b バグダード の繁栄。人口100万を超える。
 ギリシア語の文献の収集と翻訳が行われる。(第7代カリフのマームーンも継承)

解説

ハールーン=アッラシードがカリフとなった時代はヨーロッパではフランク王国のカール大帝と同時期であり、フランク側の記録では贈り物の交換をしている。フランクとアッバース朝は、ビザンツ帝国と後ウマイヤ朝という共通の敵を持っていたので、友好関係を持ったことは考えられる。ただし、両者の力関係は、圧倒的にアッバース朝ハールーン=アッラシードが上であった。彼はまた文芸や芸術を好み、多くの芸術家を保護し、バグダードの繁栄をもたらした。彼がバグダードに建設した知恵の館は、アレクサンドリアのムセイオンに伝えられていたギリシア語文献を、アラビア語に翻訳する学術センターとして機能した。しかし、その死後、広大なアッバース朝イスラーム帝国の各地に、地方政権が自立し、分裂の時代がやってくる。
・9世紀から、トルコ系軍人奴隷(c マムルーク )を中央アジアから購入し、親衛隊とする。(後出)
 イスラーム帝国 の分裂
・アッバース朝のカリフ a ハールーン=アッラシード の死後、カリフの権威が次第に弱まる。
 → 軍隊の地方司令官が、独立して▲b アミール を称し、地方政権を各地につくる。
・8~9世紀 地方政権の自立
 北アフリカ ▲モロッコ イドリース朝(789-926)が成立。最初のシーア派国家。
       エジプト c トゥールーン朝 (868~905) アッバース朝のトルコ系軍人が自立。
 イラン  ▲東部にターヒル朝(821-873)、次いでサッファール朝(867-963)が成立。
 西トルキスタン d サーマーン朝 (875~999)イラン系。都ブハラ。東部イランに進出。
   = トルコ人を軍人奴隷(マムルーク)とする。 → トルコ人のイスラーム化すすむ。
・アッバース朝の弱体化 : 現在のイラク、バグダード周辺だけ位を支配するのみとなる。
 869~883年 ▲ザンジュの乱 :イラク南部のバスラを中心とした黒人奴隷の反乱が起きる。
 ファーティマ朝 の成立 
・909年 北アフリカ(マグリブ地方)のチュニジアに成立した王朝。
  a シーア派 の中の急進派(▲b イスマイール派 を信奉。
  = アリーとムハンマドの娘のファーディマの子孫であると称する。
 → カリフを称し、アッバース朝のカリフの権威を否定。 
・969年 c エジプト を征服し、首都b カイロ を建設。
 3カリフ時代 
・10世紀 後ウマイヤ朝のa アブド=アッラフマーン3世 、力リフを称す。
 → b バグダード のアッバース朝、c コルドバ の後ウマイヤ朝、d カイロ のファーティマ朝が分立。
 = 3人のカリフが並び立つ分裂状態となる。

Text p.106

 ブワイフ朝 の成立
・ 946年、a イラン人 の軍事政権 b バグダード に入城。穏健なシーア派を信奉。
  b 大アミール に任命され、スンア派の力リフを保護する代わりに、
  c イスラーム法 を施行する権限を与えられる。

解説

ブワイフ朝は、イランに成立したイスラーム地方政権の一つでシーア派の穏健派十二イマーム派を信奉していた。アッバース朝の弱体化につけ込んでバグダードに入城し、軍事政権を建てたが、アッバース朝を滅ぼしたわけではなく、そのカリフを保護する代わりに、イスラーム法の執行権、つまり政治権力をあたえられ大アミールという地位に就いた。日本で言えば、天皇と鎌倉幕府の関係に似ている。このブワイフ朝では、イクター制度が始まることが重要(後出)。
・アッバース朝のカリフは名目上の存在としてバグダードに存続する。
 
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第4章 イスラーム世界の形成と発展 4節 イスラーム文明の発展

2017-07-02 | ベック式!世界史用語集

 

用語リストへア.イスラーム文明の特徴
■ポイント イスラーム教世界の文明の特徴を理解し、その世界史的な意義を考える。
1.イスラーム文明の特徴
  • オリエントの先進文明と征服者アラブ人のイスラーム教とアラビア語によるa 融合文明  であること。
  • バグダードやカイロなど、大都市に発達したb 都市文明  であること。
  • イスラーム教を核とするc 普遍的文明 であること。
2.イスラーム文明の地域的発展 広大な地域で受容され、地域的、民族的特色を加えたいくつかの文明が成立した。

Text p.116

  • イラン圏でのa イラン=イスラーム文化  
  • トルコ民族圏でのb トルコ=イスラム文化   
  • インドでのc インド=イスラーム文化   など。
3.キリスト教世界への影響 イスラーム勢力のヨーロッパ進出は大きな脅威であったが、同時に多くのものを学んだ。
  • 11~13世紀 古代ギリシアの科学や哲学の文献は、次のようなルートで中世ヨーロッパに伝えられた。
     バグダード のb 知恵の館 で古代ギリシア語文献がアラビア語に翻訳される。 → 
    スペインのc トレド にもたらされ、その地のd 翻訳学校  でアラビア語からラテン語に翻訳される。 →
    ヨーロッパ各地から集まった学生によって各地にもたらされe 12世紀ルネサンス  を開花させた。(後出)
    つまり、f ギリシア文明は、イスラーム文明を媒介して、ヨーロッパに伝えられた    と言える。

解説

ルネサンスは一般に14世紀にイタリアで始まった「文芸復興」のことであるが、「12世紀ルネサンス」はそれに先立ち、中世末期のヨーロッパで興ったギリシア文化の復興や大学の登場などの動きを指している。そのとき、アラビア語に翻訳された書物を通してヨーロッパの学者はギリシア文献を知ることが出来た。12世紀ルネサンスについては第5章4節で学ぶ。
先頭へ
用語リストへイ.イスラームの社会と文明
■ポイント イスラーム社会と文明の特質を理解する。その中で神秘主義の果たした役割を理解する。
1.イスラーム社会における  都市   軍人・商人・知識人が居住する都市を中心に文明が形成される。
  • イスラーム法学や神学、伝承学、歴史学などをおさめた知識人であるb ウラマー  が指導層となる。
  •  モスク  とd マドラサ(学院) が信仰・学問・教育の場となる。
     市場  が生産と流通の場となる。= アラブ圏ではf スーク 、イラン圏ではg バザール  という。

    Text p.117

    他にh キャラバンサライ (商人宿)や公衆浴場などが設けられていた。
    神秘主義 神秘主義 
     → イスラーム帝国の成立によって整備された交通路により、遠隔地に伝わる。
2.イスラーム文明のひろがり
  •  製紙法  :751年 b タラス河畔の戦い  で唐の捕虜から学ぶ。
      c サマルカンド →d バグダード →e カイロ などに製紙工場建設。
      → イベリア半島・シチリア島を経て13世紀にヨーロッパに伝えられる。
3.a 神秘主義(スーフィズム)  の流行 10世紀頃、イスラーム教のなかに、
  •  形式的な信仰を排し、アッラーとの一体感を求める信仰   が広がる。
    → 都市の手工業者・農民の間に広まる。
  • ▲c セルジューク朝 のイラン人神学者d ガザーリー が体系化する。
    = バグダッドのe ニザーミーヤ学院 の教授を辞し、a 神秘主義 に傾き、諸国を放浪しながら信仰を広める。
  • 12世紀 各地に聖者を中心としたf 神秘主義教団  が成立。g ムスリム商人 と共に活動し信仰を広げる。
    → h アフリカ・中国・インド・東南アジア  に進出。各地の習俗を取り入れながら信仰を広げる。

解説

神秘主義はイスラーム教の拡張とともに8世紀の中頃にはじまり、9世紀に流行した、踊りや神への賛美を唱えることで神との一体感を求める信仰をいう。禁欲と苦行を旨とした修行者が贖罪と懺悔のしるしとして羊毛の粗衣(スーフ)を身にまとっていたことからスーフィーと言われるようになったとされる。彼らは形式的なイスラーム法の遵守を主張するウラマーの律法主義を批判して、自我の意識を脱却して神と一体となることを説き、より感覚的で分かりやすいその教えは都市の職人層や農民にも受け容れられた。10世紀以降にはインドや東南アジアなどにムスリム商人の活動とともに伝えられ、現地の土俗的な信仰と融合しながらイスラーム教の普及が進むこととなった。アラビアから興ったイスラーム教が広く世界に広がったのは、神秘主義(スーフィズム)の修行者の活動の結果であった。しかし後にはこの思想は本来のムハンマドの教えから離れていると批判する原理主義の思想が興ってくることとなる。
4.イスラーム文明を支えた人々
  • イスラーム文明はa 都市に住む人々 によって支えられb 神秘主義者  によって各地に広がっていった。
  • カリフやスルタンなどの支配層がモスクや学校を建設。商業や土地から上がる利益をc ワクフ として寄進。
    → d イスラーム圏では権力者・富裕層による積極的な文化活動の保護はその義務と見做されていた。    
先頭へ
用語リストへウ.学問と文化活動
■ポイント イスラーム文明がいかに高度であり、他の文明にも影響を与えているかを理解する。

Text p.118

1. 固有の学問  基本はアラビア語の 言語学 とb コーラン  の解釈から発達した 神学 ・ 法学。
  • イスラーム法( c シャリーア   )とその補助として、ムハンマドの伝承(d  ハディース   )を研究。
  • 歴史学 e タバリー   9世紀のイラン系神学者、歴史学者。年代記的世界史『預言者と諸王の歴史』を著す。
       f イブン=ハルドゥーン   14世紀  『世界史序説』で王朝興亡の法則性を探る。

解説

イブン=ハルドゥーンが『世界史序説』で展開した「世界史の法則性」とは次のようなものである。イスラーム世界には、文明の進んだ都市(ハダル)と、そうでない砂漠(バドウ)とがあり、砂漠に暮らす人々が強い連帯感(アサビーヤ)を持って勃興し、都市を征服し強力な国家を建設するが、やがて都市生活の中で連帯感を失い、新たな集団に征服されるということを繰り返している。またその交替は3代120年で起こる。人々を連帯させる砂漠の生活と、人々の連帯を希薄にする都市文明を対比させるという、現代の9.11にみるような世界の問題を考える際にも興味深い見解である。
2. 外来の学問 
 9世紀、バグダードのb 「 知恵の館 」 で、ギリシア語文献がアラビア語に翻訳される。(前出)
  • ・ギリシアの哲学・医学・天文学・幾何学・光学・地理学などがイスラーム圏に伝えられる。
3.イスラーム科学 インド  から医学・天文学・数学を学ぶ。
  • インドの数字を基にb アラビア数字  を考案。c 十進法  とd ゼロの概念  を取り入れる。
  •  フワーリズミー  (9世紀アッバース朝)代数学、三角法の創始。天文学の研究。
    → f 錬金術  や光学などの実験的手法がヨーロッパに伝えられる。
  •  ウマル=ハイヤーム  (11~12世紀イラン系)数学・天文学の研究、太陽暦(ジャラーリー暦)の作成。
      文学者としてはh 『ルバイヤート』  (四行詩集)の詩人としても有名。
  • 西ヨーロッパの科学用語に見るイスラーム文明の影響。アラビア語を語源とする用語が多い。
      i アルコール、アルカリ、アルケミー、アルジェブラ    など。        
4.哲学:ギリシアのa アリストテレス哲学  を研究 → 10世紀 神秘主義の影響受ける。
  •  ガザーリー  11世紀 ギリシア哲学に学び、神秘主義思想と合理的客観的なスンナ派の神学を大成。(前出)
  •  イブン=シーナー(アヴィケンナ)    11世紀 医学者として著名。『医学典範』を著す。
  •  イブン=ルシュド(アヴェロエス)   12世紀 コルドバ出身。アリストテレスの 著作をアラビア語に翻訳。

解説

イブン=シーナーは10世紀末、サーマン朝時代のブハラで生まれアリストテレス哲学と医学を学んだが、政情不安が続き、イランに移ってブワイフ朝に仕えた。その『医学典範』は体系的な医学書としてヨーロッパでも知られ、長く医学の教科書とされた。彼はラテン語でアヴィケンナといわれた。
イブン=ルシュドは12世紀のイベリア半島コルドバで生まれたイスラーム教徒。ムワッヒド朝に仕えてアリストテレスの著作のアラビア語訳を進めた。彼の著作がラテン語に翻訳されて知られるように成り、彼はラテン名でアヴェロエスと言われるようになった。
5.文学
  •  『千夜一夜物語』(アラビアン=ナイト)   インド・イラン・アラビア・ギリシアなどの説話の集大成。

    Text p.119

      → 16世紀初めまでに、カイロで現在の形にまとめられた。
  • 旅行記:b イブン=バットゥータ   旅行記の c 『三大陸周遊記』  を著す。
地図 b イブン=バットゥータ  の大旅行(教科書 p.174-175)
イブン=バットゥータの世界旅行

解説

イブン=バットゥータはモロッコのベルベル人のイスラーム教徒。1325年、25歳の時故郷タンジールを出発した。以下、彼が立ち寄った主な国々。マグリブを経てマムルーク朝のカイロからイェルサレム、メッカなどの聖地をめぐり、イル=ハン国時代のバグダード、イスファハーンなどを訪れた。再びメッカを経て紅海からインド洋を南下し、アフリカ東岸のモガディシオ、キルワに達する。北上してアナトリアからコンスタンティノープルに入り、さらに黒海の北岸を経てキプチャク=ハン国のサライ、東進してチャガタイ=ハン国のサマルカンドを訪ね、アフガニスタンを経てインドに入った。デリー=スルタン朝の一つトゥグルク朝に仕えた後、インド洋南方の島々をめぐる。東南アジアを経て元朝支配下の中国に入り、泉州、杭州を経て大都に到達した。時に1345年、45歳になっていた。一旦モロッコに戻ってから、イベリア半島を廻り、さらにサハラを縦断して黒人王国マリを訪問している。モロッコのフェズに戻り、そこで『三大陸周遊記』を口述筆記した。三大陸とは、アフリカ・ヨーロッパ・アジアのことである。教科書では、第Ⅱ部の最後の主題学習でバットゥータの大旅行について説明がある。
6.建築と美術
  • ・モスク建築:a ドーム(丸屋根) ・b ミナレット(光塔)  ・ミフラーブなどをもつ。
    例:イェルサレムのc 岩のドーム  (ウマイヤ朝)  その他、イスラーム都市に多数建設された。
  • 美術:d 細密画(ミニアチュール) 、金象嵌、e アラベスク (装飾文様)の発達。
  • 特徴 :f イスラーム教では偶像崇拝をきびしく禁止されたので絵画・彫刻は発達しなかった。    
 
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第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展 2節 東ヨーロッパ世界の成立

2017-06-30 | ベック式!世界史用語集

ア.ビザンツ帝国の繁栄と衰亡

■ポイント ローマ帝国を継承しながら、独自の発展を遂げたビザンツ帝国のあゆみを理解する。
ビザンツ帝国  394年 ローマ帝国の東西分裂 → 東ローマ帝国の形成。

解説

ビザンツ帝国の始まりは、330年のコンスタンティノープルの建設、395年のローマ帝国の東西分裂による東ローマ帝国の分離、さらに西ローマ帝国が滅亡して東ローマが唯一の「ローマ帝国」となった476年などに求めることが出来るが、定説はない。いずれにせよローマ帝国を継承した国家であり、首都コンスタンティノープルは第二のローマと言われたのであるが、その地域性から次第にギリシア的性格が強くなり、西方教会(ローマ教会)と分離した結果、7世紀頃からコンスタンティノープルの古称であるビザンティウムに由来する「ビザンツ帝国」と言われるようになった。
  • ゲルマン人の侵入をあまり受けず、ローマの伝統を維持。
     → 商業とa 貨幣経済  ( ノミスマ金貨 を発行)の繁栄が続く。
  • 都b コンスタンティノープル  (旧名c ビザンティウム )の繁栄。
  • 政治体制:d ローマ帝国以来の官僚制を継承し、その頂点の皇帝は専制君主として権力を維持した。   
  • 特徴:皇帝は教会の首長を兼ねるe 皇帝教皇主義  にたち、f ギリシア正教会 を直接支配。
     →  西ローマ帝国滅亡後、地中海世界の統一の再現を目指す。
ユスティニアヌス帝  在位527~565年 ビザンツ帝国の最盛期となる。
ユスティニアヌス帝
B ユスティニアヌス帝 

Text p.133

  • ヴァンダル王国  、b 東ゴート王国 を征服。
     → 地中海の旧ローマ帝国領を回復。
  • 東方ではc ササン朝ペルシア のホスロー1世と対抗。
     → 交易ルートがメソポタミアや・紅海からアラビア半島内陸部に移る。
  •  「ローマ法大全」 を集成。トリボニアヌスらに命じ、534年完成。
  •  バギア=ソフィア聖堂 を建設。ビザンツ様式の代表的建造物。(後出)
  • 中国からf 養蚕技術 を学び、絹織物業を起こす。
6世紀 次第にギリシア化が進む。

地図 ビザンツ帝国とその周辺(6世紀)

6世紀のビザンツ帝国全盛期
・征服されたゲルマン諸国  a 東ゴート王国   b ヴァンダル王国 
・周辺諸国  c フランク王国   d 西ゴート王国   e ササン朝ペルシア 
・主要都市 1 コンスタンティノープル   2 テッサロニケ   3 ラヴェンナ   4 ローマ 
      5 ミラノ   6 コルドバ   7 カルタゴ   8 アレクサンドリア 
      9 イェルサレム   10 ダマスクス   11 アンティオキア   12 クテシフォン 
C 領土の縮小
  • イタリアの大半をa ランゴバルド王国  、b フランク王国 に奪われる。
  • 7世紀 ▲c ヘラクレイオス1世   ササン朝、アヴァール人の侵入を防ぎ中央集権体制を強化。
     → アラブ人のd イスラーム勢力 の侵入が始まる。

    解説

    ギリシアの火674~678年にはイスラーム海軍がコンスタンティノープルを包囲し、陥落寸前までいったが、ビザンツは秘密兵器「ギリシアの火」を繰り出して撃退した。左は14世紀に描かれた、「ギリシアの火」の図。さらに717~718年にもコンスタンティノープルを包囲したが、皇帝レオン3世が指揮するビザンツ軍が防衛に成功した。この時期はイスラームの正統カリフ時代からウマイヤ朝の時期にあたるが、750年にアッバース朝に替わりイスラーム世界の中心が東方のバグダードに移されると、ビザンツもその脅威を直接受けることは少なくなる。 
     → e シリア・エジプト  を失う。
  • バルカン北部にf スラヴ人  が大量に移住。
  • さらに北方にはg トルコ系  のh ブルガール人  がi ブルガリア帝国  を建設。
東西キリスト教世界の分離  8世紀 フランク王国と結んだローマ=カトリック教会と対立。
  • 726年 ビザンツ皇帝レオン3世、a 聖像禁止令  を出す。(前出)
  • 800年 フランク王国d カール大帝  、ローマ皇帝の戴冠。 → ビザンツ皇帝との対立強まる。
      → 後にビザンツ帝国でもb 聖像画(イコン) を作成するようになる。(後出)
  • 1054年、ローマ教皇がコンスタンティノープル総主教を破門、最終的に分裂。
E ▲マケドニア朝の繁栄 867年 a バシレイオス1世   世襲王朝を開く。

解説

ビザンツ帝国では7世紀以降に皇帝の世襲が一般化したが、クーデタによる皇帝位の廃位などがたびたび起こり、王朝が交替した。その変遷をまとめると次のようになる。
 ヘラクレイオス朝(610~711)→マケドニア朝(867~1056)→コムネノス朝(1081~1185)→アンゲロス朝(1185~1204)→ラテン帝国の支配(1204~1261)→パライオロゴス朝(1261~1453)
 この間は、「中世ローマ帝国」とも言われる。ヘラクレイオス朝・マケドニア朝時代は独自の国家体制をとって繁栄したが、コムネノス朝からは衰退期に入った。それでもなお400年の命脈を保ち、1453年オスマン帝国によって滅ぼされるまで存続する。
  • 10~11世紀 一時勢力を盛り返す。b 軍管区制  、c 屯田兵制  を充実させる。(後出)
      → キエフ公国と結ぶ。キエフ公国のウラディミル1世、ギリシア正教に改宗(後出)。
  • 1018年 バシレイオス2世、d ブルガリア帝国  を破り、併合する。
ビザンツ帝国の衰退  11世紀末  貴族の大土地所有が復活。
    • 1071年 a セルジューク朝 が小アジア侵入。b マンジケルトの戦い で敗れる。
       コムネノス朝アレクシオス1世、ローマ教皇に援助要請。→ 西ヨーロッパ諸国、c 十字軍運動  の開始。
    • 1204年 ヴェネツィアなどを中心としたd 第4回十字軍 がe コンスタンティノープル を占領。
       → f ラテン帝国 を建国。

解説

ラテン帝国はフランドル伯ボードワンを皇帝としていたが、第4回十字軍の主体はヴェネツィア共和国であったので、実質はヴェネティアの植民地であった。これによってビザンツ帝国は一時コンスタンティノープルから追い出され、滅亡の危機に陥った。ビザンツ帝国の遺臣は、その周辺に亡命政権を建て、コンスタンティノープル奪回をねらった。その中では小アジア西部のニケーア帝国、東北部のトレビゾンド、西ギリシアのエピロスなどがあった。ラテン帝国は約半世紀間、コンスタンティノープルを支配し、ギリシア正教を否定してローマ教会の信仰を強要しようとした。しかし、1261年、ニケーア帝国のミハエル8世によって倒され、ビザンツ帝国が復活し、以後パライオロゴス朝が存続する。ただし、その後のビザンツ帝国はかつての栄光とはほど遠く、その支配はコンスタンティノープルの周辺とギリシアの一部にとどまっていた。
  • 1260年 ビザンツ帝国は復活したが、その支配領域は首都の周辺に限られた。
ビザンツ帝国の滅亡  14世紀、トルコ人のa オスマン帝国  が小アジアに興こる。(後出)
  • 1453 年 b コンスタンティノープルの陥落     ビザンツ帝国滅亡 。
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Text p.134

 

用語リストへイ.ビザンツ帝国の社会と文化
■ポイント ビザンツ帝国の特色ある社会のしくみと、文化のありかたを理解する。
1.ビザンツ帝国の社会
軍管区制(テマ制) 
    • 初期ビザンツ帝国 ローマ帝国以来のコロヌス制による大土地所有制度が支配的であった。
    • 7世紀以降、異民族の侵攻が激しくなる。 → 軍政と行政を統合した制度が採用される。
    • A 軍管区制(テマ制)   = 帝国をいくつかの軍管区に分け、その軍司令官に軍事権と行政権を与える。
    •  屯田兵制   = 軍管区司令官が部下の兵士に土地を分与し、代わりに世襲の兵役義務を負わせる。
       → 小土地所有の自由農民が増加。 → 10世紀頃完成。

解説

軍管区制とは、ビザンツ帝国中期(7~11世紀)の軍事的な地方制度で、帝国の各地に軍管区(テマ)を置き、指揮官にその地方の軍事権と当時に行政、司法の権限も与えその地方を掌握する方式である。軍隊の兵士には農地が与えられ、平時には農耕に従事し、租税を負担するとともに、戦時には装備を自弁して戦闘に参加する屯田兵制と組み合わされていた。ユスティニアヌス帝時代にはローマ帝国の制度を継承し、辺境には属州総督が置かれていたが、7世紀頃から北方からのスラヴ人、東方からのアラブ人の侵攻が激しくなったことに対応し、ヘラクレイオス朝で原型ができた。しばしばテマの反乱も起こったが、10世紀には軍管区制が完成し、ビザンツ帝国はこの制度を通じて中央集権的な国家体制を維持できた。しかし、11世紀になると軍管区制は崩れ、貴族による大土地所有が広がり、プロノイア制に切り替えられていく。
  • 東ヨーロッパ社会の特徴 b 軍管区制・屯田兵制のもとで、封建社会の形成は遅れた。  
プロノイア制  = 貴族に国有地を貸与して軍役を奉仕させ、土地管理を委ねる制度。
  • 11世紀以降は貴族が封建領主化し、農奴制による大土地所有制がひろがった。
2.ビザンツ文化
    • 特徴 a 古代ギリシア文化とギリシア正教を融合させた文化である。  
       → 西欧の、ラテン語とローマカトリック的文化とは明確に異なる独自の文化を発展させた。
    •  ギリシア語  を公用語とする。 → ギリシアの古典研究を受け継ぐ。

Text p.135

    •  ギリシア正教  のキリスト教神学が学問の中心となる。 → ローマ教会とのd 聖像崇拝論争  
    • 美術・建築 d ビザンツ様式 の成立。
      特徴は、e ドーム  とf モザイク壁画  
       g ハギア=ソフィア聖堂  (コンスタンティノープル)

      解説

      ハギア=ソフィア聖堂(聖ソフィア寺院)は6世紀の柚須ティナヌス帝の時に再建された。ビザンツ様式のドームはその時のものである。後にコンスタンティノープルがオスマン帝国軍によって陥落し、外側に4本の尖塔(ミナレット)が新たに建設されて、イスラーム教のモスクとされた。下の左は画像からミナレットを除去し、モスク以前の姿を再現してみた。右は現状。
      本来の聖ソフィア寺院イスラーム寺院となった聖ソフィア寺院
        → コンスタンティノープルがオスマン帝国に征服されてから、モスクに改装された。
       h サン=ヴィターレ聖堂  (イタリアのラヴェンナ)
       i イコン(聖像画)  の制作 ギリシア正教の信仰の対象となる。

解説

イコンイコンはギリシア正教会の教会で用いられた聖人を描いた聖画像のことで、ギリシア語で「イメージ」の意味。イエス、マリア、聖人の画像を崇拝すること通して信仰を深める、重要なものとされ、印刷術が普及するまでは、聖書の教えは、イコンを媒介として伝えられていた。
 7世紀になってイスラーム教の攻勢が東方から激しくなると、小アジアの住民から、厳格な偶像崇拝の禁止を求める声が起こり、それを受けて726年にビザンツ皇帝レオン3世が聖像禁止令を出すとローマ教会との間に聖像崇拝論争が起こった。ビザンツ領内では聖像破壊運動が盛んになって多くのイコンが破壊された。しかし、特にスラヴ人の中にはイコンの復活を求める要求が強く、843年に禁止令は解除され、その後、ビザンツ世界=ギリシア正教では「イコン」の制作が復活、ロシアなどでは信仰の様々な場面で現在も使われている。 
  • ビザンツ文化の世界史的意義
     古代ギリシアの文化遺産を継承し、後のイタリア=ルネサンスに大きな影響を与えた。  
      スラブ人をその文化圏に取り込んだ。   
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用語リストへウ.スラヴ人と周辺諸民族の自立
■ポイント 東ヨーロッパのスラヴ系とその他の諸民族が受容した宗教の違いを明確にする。
・aスラヴ人  インド=ヨーロッパ語族に属し、6世紀以降、東ヨーロッパに広がる。
 b 東スラヴ人  (ロシア人、ウクライナ人)
 c 南スラヴ人  (セルビア人、クロアティア人、スロヴェニア人)
 d 西スラヴ人  (ポーランド人・チェック人・スロヴァキア人)
1.東スラヴ人 ドニェプル川中流域に展開
ノヴゴロド国 
  • 862年 a ノルマン人(ルーシ)  がリューリクに率いられ建国。
     → 先住民のスラヴ人と同化。これがb ロシア国家 の起源とされる。(前出)
キエフ公国  ※a キエフ  は現在のウクライナの首都。
  • 882年 ノヴゴロドからドニェプル川中流のa キエフ  に移動。次第にスラヴ化する。
  • 10世紀初め キエフ大公イーゴリ ビザンツ帝国領などへの領土拡張を図る。
  • 10世紀末 b ウラディミル1世 の時、領土を周辺に拡大し最盛期となる。
    988年 ビザンツ帝国皇帝(バシレイオス2世)の妹と結婚しc ギリシア正教 に改宗。
     = ビザンツ風の専制君主政を模倣する。
  • 11世紀 大土地所有が進展し、封建諸侯が分立、農民の農奴化進む。
「タタールのきびき」  の時代 ※ロシアではモンゴルなどアジア系民族をa タタール  と言った。
    • 1237~1240年 モンゴルのb バトゥ の侵入。 → ロシアの大半がモンゴル人に征服される。
       → 1241年 ポーランド・ドイツ連合軍、モンゴル軍に敗れる( ワールシュタットの戦い )。(後出)
    • 1243年 c キプチャク=ハン国 のロシア支配始まる。ハンは南ロシアのサライに居住。
       → 支配が約240年続く。実態は間接統治で、ロシア諸侯が徴税し、ハンに上納する。

解説

モンゴル帝国のバトゥの西方遠征によって、1240年にキエフ公国が滅ぼされてから、1480年にモスクワ公国が独立するまでの約240年続いた、ロシアがモンゴル人の支配を受けていた時代を「タタールのくびき」という。「くびき(軛)」とは牛や馬を御する時にその首に付ける道具。つまりロシアがモンゴルに押さえつけられていた時代、という意味となる。タタールとはモンゴル人を指しているが、現在のヴォルガ下流に住むタタール共和国のタタール人はトルコ系なので注意を要する。また、ロシア諸侯はキプチャク=ハン国に対して貢納するという形で服属を続けたが、直接統治されたわけではなく、その支配は間接的であった。
  • ▲ノヴゴロドの アレクサンドル=ネフスキー、1240年 スウェーデン軍をネヴァ川の戦いで撃退、
    1242年 ドイツ騎士団を氷上の戦いで撃退。c キプチャク=ハン国  には臣従し、貢納する。
モスクワ大公国 
    • 15世紀 商業都市a モスクワ  を中心として発展。
    • 1480年 b イヴァン3世  、東北ロシアを統一し、モンゴルから自立。
       → c ビザンツ帝国  滅亡(1453年)後、皇帝の姪ソフィアと結婚し、その後継者を自認する。
    •  ツァーリ を初めて称す。 意味= カエサルのロシア語形。皇帝を意味した。

      解説

      ローマ帝国のカエサルに由来し、カエサル→チェーザリ→ツァーリとロシア語に転化した。なおドイツ語では皇帝を「カイザー」という。15世紀後半のモスクワ大公国のイヴァン3世が、ビザンツ帝国の滅亡を受けて自らローマ皇帝位を継承するとして使用したのに始まり、16世紀のイヴァン4世が初めて全ロシアの支配者の意味でツァーリといわれ、正式称号となった。その後も特に18世紀のピョートル大帝以降の皇帝による専制支配体制をツァーリズムという。
       → イヴァン4世の時、正式なロシア皇帝の称号となる。▲モスクワはe 第三のローマ  といわれる。

Text p.136

  • 農奴制を強化し、専制君主制の基礎を固める。首都 モスクワ の繁栄。
  • 16世紀 f イヴァン4世  (雷帝) 中央集権体制を固め、東ヨーロッパの大勢力となる。(後出)
2.南スラヴ人
セルビア人 
  • 6世紀 a バルカン半島 南西部に移動、ビザンツ帝国に服属し、b ギリシア正教 に改宗。
      12世紀に独立、14世紀前半に、a バルカン半島  北部を支配し、強大となる。
  • 1389年 オスマン帝国の侵入 ▲c コソヴォの戦い で敗れ、バルカンのイスラーム化始まる。
クロアティア人  フランク王国に服属し、a ローマ=カトリック を受容。
  • 10世紀に独立、最盛期となる。 → 11世紀末、b ハンガリー王国  の支配下に入る。
      14世紀以降、イスラーム教国のc オスマン帝国 の侵攻を受け、16世紀にその支配下に入る。
スロヴェニア人  フランク王国に服属し、a ローマ=カトリック を受容。
  • 10世紀 b 神聖ローマ帝国  に組み込まれる。 → イタリアに隣接し、その影響を強く受ける。
3.西スラヴ人
ポーランド人  a ローマ=カトリック  を受容。
  • 10世紀にb ポーランド王国  (下の地図の①)を建国(ピアスト朝)。
     12世紀末から、ドイツ人のc 東方植民 が進み、バルト海沿岸を奪われる。
  • モンゴルの侵入 1241年 d ワールシュタットの戦い   ドイツと連合してあたるも敗北。(後出)
  • 14世紀前半 e カジミェシュ3世  (大王)のもとで繁栄。法典整備や通貨の発行。
     → 1364年 都クラクフに大学を設立。
リトアニア=ポーランド王国  a リトアニア人 はインド=ヨーロッパ語族系のバルト語族。
  • 13世紀 b ドイツ騎士団  の進出(東方植民)に抵抗しながらc リトアニア大公国  (地図②)を建国。
  • 1386年 リトアニア大公がポーランド王国女王と結婚、B リトアニア=ポーランド王国  (同君連合)成立。
     = d ヤゲウォ(ヤゲロー)朝  の成立。 理由:e ドイツ騎士団の進出に対抗するため。  
  • 15世紀 最も強大となり、現在のウクライナなどをふくむ広大な領土を支配した。16世紀に正式に合体。 
チェック人  現在のチェコの西部をベーメン(ボヘミア)、東部をモラヴィアという。
  • 7世紀 ▲a モラヴィア王国  建設 → 9世紀、マジャール人(ハンガリー)に征服される。
  • 10世紀 b ベーメン(ボヘミア)王国  を建設。いずれもc ローマ=カトリック  を受容。
     → 隣接するドイツ人の移住も多く、プラハを中心に、キリスト教文化が栄える。
  • 11世紀、d 神聖ローマ帝国  に編入される(地図③)。 14世紀 プラハ大学創設(後出)
スロヴァキア人  11世紀以来、ハンガリーの支配下に入る。a ローマ=カトリック  を受容。
4.東ヨーロッパの非スラヴ系民族
ブルガール人  a トルコ系  民族。バルカン半島に移動。
    • 7世紀 b 第1次ブルガリア帝国   建設、スラヴ人と同化し、c ギリシア正教  に改宗。
    • 9世紀 ▲聖職者キュリロスによってd キリル文字  が作られる。 → 後にロシアに広がる。

解説

キリル文字は、9世紀にスラヴ人のへのギリシア正教会の布教に活躍したギリシア人宣教師キュリロスが考案した文字。キュリロスは兄のメトディオスとともに文字をもたないスラヴ人への布教を進めるため、ギリシア文字をもとにしてスラヴ語をあらわす文字を考案した。これをキリル文字といい、現在のロシアで使われているロシア文字の原型となった。ただし、最近の研究ではキュリロスの作ったのはグラゴール文字といい、キリル文字はそれを改良したもとされている。ロシア人だけでなく、ブルガリアやセルビアなどスラヴ系諸民族でも用いられている。
  • 1018年 e ビザンツ帝国  に併合される。
  • 12世紀 f 第2次ブルガリア帝国   を建設。 → 14世紀 オスマン帝国に併合される。
マジャール人  ウラル語族の遊牧民であった。先に西進したアヴァール人などを同化。
  • 9世紀末、a パンノニア  に移動後、定住。
  • 955年 東フランクb オットー1世  に敗れる。
  • 10世紀 c ハンガリー王国  (地図④)を建国。 → d ローマ=カトリック  を受容。
     → クロアティアなどを支配し、15世紀に繁栄。
  • 16世紀 e オスマン帝国  の侵入はじまる。 → 領土の大半を征服され支配下にはいる。
ルーマニア人  ドナウ川北岸がローマ帝国の属州a ダキア  となり、ラテン系が移住。
  • スラヴ人・ゲルマン人・マジャール人が侵入。
  • 13~14世紀 C ルーマニア人 として自立。
  • ドナウ川北岸にはb ワラキア公国  、カルパチア山脈東部にc モルダヴィア公国  が成立。 
    (14世紀末 ポーランド王国の宗主権を認める)
  • 15世紀 ともにd オスマン帝国  に征服される。

地図 1400年頃の東ヨーロッパ世界

6世紀のビザンツ帝国全盛期
 ① ポーランド王国 
 ② リトアニア大公国 
 ③ ベーメン 
 ④ ハンガリー王国 
・赤点線枠内が
  リトアニア=ポーランド王国  
 
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●年号の基準

2016-09-09 | ベック式!世界史用語集

前500年 ミレトスを中心とする小アジアのイオニア植民市、アケメネス朝ペルシアに対して反乱 

前200 白登山の戦い、劉邦

BC100 カエサル誕生

100 プルタルコス『対比列伝』

200ナーガールジュナ(竜樹)、大乗仏教を確立

200年 曹操、官渡の戦いで袁紹を破る。

後漢の訓詁学者鄭玄死去

 

3009月 高句麗国相倉助利、烽上王を廃し美川王を王位に迎える。


800年 フランク王カール大帝、レオ3世により戴冠。(西ローマ帝国復興)

900     〈サーマーン朝、サッファール朝を滅ぼす〉

喰われサーファー さぁ満潮。

900年 サッファール朝を滅ぼす サーマン朝

900(昌泰3)年 『竹取物語』『伊勢物語』

1000(長保2)年 藤原定子、一条天皇の皇后に、彰子、中宮に(一帝ニ后)。この年の暮、定子歿(25)。

1200年 

梶原景時の乱。源頼家、北条氏に対抗する懐刀を失う。

朱子学の大成者、朱熹死去。

1400 年 ベトナム 陳朝 、胡氏に王位を簒奪されて滅亡、胡朝が成立。

      東南アジア最初のイスラム王国であるマラッカ王国が成立。

           チョーサー、『カンタベリ物語』

1500年 カブラル、ブラジルに漂着。

ティムール帝国滅亡。

1600年 関ヶ原の戦い

1700年 水戸光圀死去。

1800 ナポレオン、第2次イタリア遠征、マレンゴの戦いでオーストリアに勝利。フランス銀行を設立。

 

1800年 伊能忠敬、『大日本沿海輿地全図』作成開始。

1900年

第二次山県内閣、治安警察法と軍部大臣現役武官制を制定。

伊藤博文、政友会を創設。

北清事変。

フロイト、『夢判断』を発表。

ニーチェ、肺炎を患い没(55歳)。

南方熊楠、イギリスから帰国(33歳)。

泉鏡花、『高野聖』

2000年

プーチン大統領就任。

南北朝鮮会談。

小渕恵三首相在任中に死去。後任は森喜朗。

台湾の総選挙で民進党が勝利し、陳水扁が総統に就任。

伊豆諸島の三宅島・北海道有珠山、噴火

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