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1665(寛文5)年 〈諸宗寺院法度・諸社禰宜神主法度〉★

2016-10-30 | 『新日本史頻出年代暗記』

 

 

 

 

●江戸時代(霊元天皇 徳川家綱)

Shoshu-jiin and Shoshanegihatto were enacted.

一路露骨な 諸宗諸社。

     1665年     家綱   諸宗寺院法度 諸社禰宜神主法度

 江戸時代になると、幕府は、信仰を禁じられたキリスト教や不受不施派の徹底した弾圧を目的として、民衆を檀那寺である寺院に檀家として所属させ、その証明として寺請証文を発行させる制度を整えていった(寺請制度)。また幕府は、寺院や僧侶、神社や神職に対する統制も強め、将軍家綱の代になると、諸宗寺院法度を出して宗派ごとに本山・末寺の地位を保障して末寺を組織させ、その統制力のいっそうの強化をはかった。また諸社禰宜神主法を制定して統制を加え、公家の吉田家を本所として統轄させた。


[ポイント]

1.幕府は寺檀制度をもうけ、さらに1665年には諸宗寺院法度を出し本末制度をつくった。

[解説]

1.幕府の禁じたキリスト教や日蓮宗不受不施派(ふじゅふせは)を信仰させないために、武士神職もだれもが檀那寺檀家になって(寺檀制度)、寺請証明を受けた(寺請制度の方が通りがよい)。

2.不受不施派日奥(1565~1630)を祖とする日蓮宗の一派で、法華を信じないものの施しを受けず、また施しをせずとする、幕府権力よりも宗教が優越するという信仰を持っていた。


3.1601~16年に旧仏教系の各宗大寺院ごとに統制令を出していた(金地院崇伝起草。これを総称して諸宗諸本山法度あるいは寺院法度という)。家綱代の1665(寛文5)には各宗派共通の統制法規として諸宗寺院法度を出した。宗派ごとに本山本寺の地位を保障して末寺を組織させた(本末制度)もの。


4.皇子や宮家・摂家(せつけ)の子弟が入寺する寺を門跡寺院と言うが、この門跡寺院の多くが仏教諸宗の本山でもあったので、門跡を朝廷の一員とみなして統制した。


5.新たに17世紀半ばに、明僧隠元隆琦(いんげんりゆうき)が禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう)を伝えた。

〈2016早大・人間科学:「
問1 下線部a17世紀代に発令されたI~Ⅲを時期の古い順で並べたとき、正しい組み合わせはどれか、1つ選べ。

 Ⅰ田畑永代売買の禁令
 Ⅱ分地制限令
 Ⅲ諸宗寺院法度


 アI→Ⅱ→Ⅲ イⅠ→Ⅲ→Ⅱ
 ウⅡ→Ⅰ→Ⅲ エⅡ→Ⅲ→I
 オⅢ→Ⅰ→Ⅱ カⅢ→Ⅱ→Ⅰ


(答:イ ※Ⅰは1643年、Ⅱは1673年、Ⅲは1665年)〉

〈2013慶大・法

 江戸時代になると、幕府は、信仰を禁じられたキリスト教や[ 1 ]の徹底した弾圧を目的として、民衆を檀那寺である寺院に檀家として所属させ、その証明として寺請証文を発行させる制度を整えていった。(中略)また幕府は、寺院や僧侶、神社や神職に対する統制も強め、将軍[ 2 ]の代になると、諸宗寺院法度や諸社禰宜神主法度を出して、その統制力のいっそうの強化をはかった。」

(答:1不受布施派(ふじゆふせは)、2家綱 ※原問には78語の選択肢あり)〉

〈2013早大・国際教養:「
問9 下線部hの人物金地院崇伝に関して、この人物が制定に関連していない法令はどれか。1つ選んで、マーク解答欄紙の該当記号を選べ。

 ア 武家諸法度

 イ 分地制限令
 ウ 禁中並公家諸法度
 エ 諸宗諸本山法度
 オ キリスト教禁教令

(答:イ×1673年発令、※金地院崇伝(1569~1633)、ア・ウは1615年、エは1601~16年で成立)

〈2013立命館・文法済営などA方式

問h 下線部8宗旨証文ヲ集テ、人別帳ヲ編立ル事ニ成に関連して、江戸時代の寺請制度について説明した文章として、適当でないものを下から一つ選べ。

 あ.「宗旨人別帳」は当初幕領で作成され、のちに諸藩でも作成された。

 い 婚姻・奉公・旅行の際には、身元証明書となる寺請証文が檀那寺から発行された。
 う これによって、仏教以外の宗教がすべて禁圧されることになった。
 え 人々は強制的にいずれかの寺院の檀家となり、檀那寺と檀家の関係は固定されることとなった。

(答:う)〉

〈2012京都府立大学前期

問 不受不施派について説明せよ。」

(解答例:日奥を祖とする日蓮宗の一派。法華経を信じない者からは施しは受けず、施しもしないとする教義。これは幕府権力よりも宗教が優越するという信仰であったため、幕府はこれを異端とみなして弾圧した。(94字))

[ポイント]

1.幕府は、1665年諸社禰宜神主法度を制定し、吉田家に統轄させた。

[解説]

1.江戸幕府は、仏教以外の神道修験道陰陽道(おんみょうどう)なども仏教に準じて容認した。寺壇制度寺請制度)により、武士神職も含めだれもが檀那寺の檀家になって、寺請証明を受けねばならなかった。

2.神社・神職に対しては、将軍家綱代の1665(寛文5)、(諸宗寺院法度と同時に)諸社禰宜神主法度を制定して統制を加え、公家の吉田家を本所として統轄させた。


〈2016早大・商

問E  江戸時代の下線部ホ吉田神道と吉田家に関する説明で、正しいものはどれか。

 1.吉田神道は両部神道として大成された。

 2.諸社禰宜神主法度は、吉田家による神職の組織化を促進した。
 3.吉田神道は本地垂迹説を唱えた。
 4.吉田家を神職の本所と定めた諸社禰宜神主法度は、朝廷から発布された。
 5.吉田神道は仏教や儒教とは習合しなかった。」

(答:2 ※1×両部神道→唯一神道、3×反本地垂迹説、4江戸幕府)〉


〈2015関西大・文商法など

 既存の宗教勢力に対しては寛文5年(1665)、諸宗寺院法度や諸社禰宜神主法度などの法令を出すなどして統制を強めた。仏教寺院に対しては、本山と末寺を分離して、前者に後者を統制させた。神職については、公家の(10){(ア)近衛(イ)九条(ウ)吉田}家を本所として統制させた。さらに、キリシタン禁制を受けて宗門改がおこなわれた。」

(答:ウ)〉


〈2014早大・教育

問6 江戸時代の下線部b神事仏事の説明で正しいものはどれか。

 ア 檀那寺の行事ではない宗教行事に参加する者はいなかった。

 イ 幕末に登場した民衆宗教は、おもに仏教系の宗教活動であった。
 ウ 天皇や将軍の宗教活動は、もっぱら神社信仰であった。
 エ 修験者・陰陽師の祈躊や占いは人びとの頼りにされた。
 オ 神職は寺請けの宗門改を免除された。」

(答:エ〇仏教では満たされなかったものを満たした ※イ×神道系、ウ×仏教信仰も盛ん、オ×神職も例外ではない)〉

 

 


[ポイント]

1.家綱代の幕府は、末期養子の禁を緩和殉死(じゅんし)を禁止諸社禰宜神主法度諸宗寺院法度を出し、寛文印知(かんぶんいんち)を行い、明暦の大火があった。

[解説]

1.1651(慶安4)年に3代将軍徳川家光が死去し、子の徳川家綱(位1651~80)が11歳で4代将軍になった。すでに幕府機構は整備され、会津藩主で叔父の保科正之(ほしなまさゆき)(後半は大老酒井忠清)をはじめ譜代大名も補佐し、社会秩序が安定しつつあった。

2.平和が続く中で重要な政治課題となったのは、大名改易により数多く発生し戦乱を待望する牢人や、秩序におさまらない「かぶき者」の対策であった。1651年に兵学者由井(比)正雪の乱(慶安の変)がおこると、幕府は大名の末期養子の禁止を緩和し、牢人の増加を防いだ。すなわち跡継ぎのいない大名が死にのぞんで(末期)、急に相続人(養子)を願い出る末期養子は、ほとんど認められていなかった(末期養子の禁止)が、この時から、50歳未満の大名に認められた。一方、江戸に住む牢人とともにかぶき者の取締りを強化した。


3.1663(寛文3)年、成人した家綱は代がわりの武家諸法度を発布し、あわせて殉死の禁止を命じ、主人の死後は殉死することなく、跡継ぎの新しい主人に奉公することを義務づけた。将軍と大名、大名と家臣の関係において、主人の家は代々主人であり続け、従者は主人個人ではなく主家に奉公する主従の関係を明示した。この結果、下剋上はあり得なくなった。


4.翌年には、すべての大名に対しいっせいに、主君がその領地を認める文書である領知宛行状(りょうちあてがいじょう)を発給して将軍の権威を確認(寛文引知)し、また幕領のいっせい検地をおこなって幕府の財政収入の安定もはかった。


5.1665(寛文5)年、諸宗寺院法度諸社禰宜神主法度などの法令を出すなどして統制を強めた。


6.家綱の代、1657年、江戸明暦の大火がおきている。

 

〈2016同志社大・全学部

 3代将軍家光の死後は、松平信綱らが中心となって4代将軍家綱を支えた。1651年の由井正雪の乱や、1657年の( ウ )の大火を乗り越えて、冪政の安定がはかられた。

【設問ウ】空欄( ウ )には、振袖火事とも呼ばれるこの大火の起こった年号が入る。これにあてはまるものを次のうちから1つ選べ。


 1.明徳 2.明暦 3.明応 4.明和


(答:ウ.2)


〈2016早大・国際教養

問9 下線部f親藩・譜代大名に関する説明として、誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 水戸藩主の徳川光圀は、彰考館で『大日本史』を編纂させた。

 イ 譜代大名は三河時代以来の徳川家の家臣であった。
 ウ 徳川家康の子であった義直は名古屋城を居城とした。
 エ 会津藩主の保科正之は、陽明学に基づく藩政によって名君と呼ばれた。
 オ 下馬将軍と呼ばれた酒井忠清は、将軍家綱のもとで権勢を振るった。」

(答:エ保科正之は朱子学を藩学として奨励)〉


〈2014立大・文

 4代将軍家綱が将軍在位中に幕府が行ったことはどれか。次のa~dから1つ選べ。 

 a.正徳小判などの貨幣を発行した
 b、生類憐れみの令を発した
 c.足高の制を設けた
 d.末期養子の禁止を緩和し、牢人の増加を防いだ」

(答:d ※a×6代家宣7代家継のときの新井白石による正徳の治で、b×5代綱吉の発令、c×8代吉宗の享保の改革時の政策)〉


〈2016早大・文

   こうした石高制による支配方式は江戸幕府に引き継がれた。将軍は大名に1万石以上の知行を与え、軍役を負担させた。また、b.領地を没収したり、減俸や国替えを行って、大名を統制した。c.寛文年間になると、将軍はすべての大名に一斉に知行を与える文書を発給し、将軍家と大名家という家の関係を強調した。幕府は江戸時代を通じて4回、大名から国単位に国絵図・[ C ]を提出させた。このように石高制は全国的に施行されたが、d異国・異域と境を接する地域には領地の石高表示がない「無高」大名がいた。

問4 下線bの処分を何というか。あてはまる語句を漢字2字で記述しなさい。


問5 下線c.の時代に実施された政策として正しいものを1つ選べ。


 ア 朝鮮より回答兼刷還使が派遣されるようになった。

 イ 金銀貨幣を改鋳し、品質を落として差益を幕府の収入とした。
 ウ 島原・天草一揆を鎮圧し、キリスト教の信仰を弾圧した。
 エ 殉死を禁じ、跡を継いだ新しい主君に引き続き奉公させた。
 オ 幕府は歌学方を設置し、北村季吟を登用した。

問6 空欄Cにあてはまる語句を漢字2字で記述しなさい。


問7 下線dに関する説明として正しいものを1つ選べ。


 ア 松前氏は箱館に来航する山丹人と交易を行った。

 イ 対馬藩は朝鮮に渡航し、倭館で貿易を行った。
 ウ 平戸藩の松浦氏は隔年交代で長崎警備を行った。               
 エ 鍋島氏の所領である長崎に唐人屋敷が設けられた。
 オ 薩摩藩は琉球を通じて東南アジアと貿易を行った。」

(答:問4改易、問5エ、問6郷帳、問7イ ※寛文年間の将軍は家綱)〉

 

〈2015立命館大・全学部

 下線部2)保科正之に関連して、保科正之は4代将軍徳川家綱を補佐して儒教的理想を政治に反映させようとしたことで有名である。とりわけ、寛文武家諸法度発布に際して、ある事柄が禁止されたことには保科の強い勧めがあったといわれている。禁止された事柄は何か。漢字2文字で答えよ。」

(答:殉死(追腹))〉


〈2013明大・文

 江戸幕府の支配の体制は3代将軍家光の時に確立した。家光を継いだ子の家綱は1651年(慶安4)4月に11才で将軍になったので、幼少な家網は叔父にあたる[ a ]・老中の松平信綱らの家門や譜代大名によって支えられた。戦乱の気風が鎮まり、平和が続くなかで政治課題となったのは、牢人や社会秩序を乱す無頼の(ア)「かぶき者」への対策であった。同年7月慶安事件がおこると、幕府は(イ)末期養子の禁止を緩和し、大名の改易を減らし、牢人の増加を防ぐ一方、「かぶき者」の取り締まりをいちだんと強化した。成人した家綱は、1663年(寛文3)5月武家諸法度を発布し、新たに[ b ]の禁止を命じている。家綱が将軍であった時期の幕政は、武断政治から文治政治への転換期とじて捉えられている。

 

問1 空欄aは会津藩主でもある。空欄aに入る人名として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1前田網紀 2池田光政 3保科正之 4堀田正俊


問2 下線部(ア)「かぶき者」には旗本奴と町奴がいる。のちに芝居の主役にもなった町奴の頭領の人名として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1丸橋忠弥 2奈良屋茂左衛門
 3幡随院長兵衛 4戸次(別木)庄左衛門


問3 下線部(イ)末期養子の同じ意味内容の語として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1嫡子単独相続 2長子単独相続 3別家 4急養子


問4 空欄bに入るべき語として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1殉死 2私の婚姻 3居城修補 4群飲佚遊」


(答:問1→3、問2→3、問3→4、問4→1)



寛永期の文化(絵画)

2016-10-29 | 『新世界史頻出年代暗記』



[ゴロ]本編み俵揺蕩うか。


本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)・屋宗達(たわらやそうたつ))(狩野探幽(かのうたんゆう))


[ポイント]

1.寛永期の代表的画家・美術家に狩野探幽俵屋宗達本阿弥光悦がいる。

[解説]

1.寛永期の絵画では、狩野派から狩野探幽(1602~74)が出て、江戸に移り(江戸狩野)、幕府の御用絵師となったが、その子孫は様式の踏襲にとどまり創造性に乏しく、狩野派は衰えていった。探幽の代表作は、『大徳寺方丈襖絵』。

2.また京都では俵屋宗達(生没年不詳)が現れ、土佐派の画法をもとに、装飾画に新様式を生み出し、元禄期に隆盛となる琳派の先駆となった。宗達の代表作は『風神図雷神図屛風』。


3.京都の上層町衆であった本阿弥光悦(1558~1637)は、多才な文化人として知られ、書や蒔絵ですぐれた作品を生み出し、陶芸でも楽焼の茶碗に秀作を残した。光悦の代表作は『舟橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ)』。

〈2016関西学院大学・全学部2/2:「
問6 次の文章について、a・bとも正しい場合はアを、aが正しくbが誤っている場合はイを、aが誤っていてbが正しい場合はウを、a・bともに誤っている場合はエをマークしなさい。

 a.14世紀に京都五山で活躍した義堂周信や絶海中津は、幕府の政治・外交顧問であるとともに、優れた和歌の詠み手であった。それらの和歌作品は五山文学とよばれた。

 b.南北朝時代、京都に狩野永徳・狩野探幽が出て、水墨画に大和絵の技法を取り入れた狩野派をおこした。」

(答:エ ※a×鎌倉五山で活躍、b×永徳は安土桃山、探幽は寛永期)〉

〈2015関西学院大・文法商人間:「
問7.次の文章について、a・bとも正しい場合はアを、aが正しくbが誤っている場合はイを、aが誤っていてbが正しい場合はウを、a・bともに誤っている場合はエをマークしなさい。

 a.17世紀前半、京那の俵屋宗達は往吉派の画法をもとに装飾画に新様式を生み出し、『風神雷神図屏風』を描いた。

 b.天保の改革では、洒落本『仕懸文庫』や黄表紙『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』の作者である山東京伝が、その作品が風俗を乱すとして弾圧された。」

(答:エ ※a×宗達は大和絵などの伝統に属さない新しい画風でのちの琳派の祖、b×山東京伝は寛政の改革で弾圧)〉


〈2015関西大・済文社会など2/1:「

 徳川家康も開版事業に大きな関心を寄せ、駿河退隠ののち南禅寺の僧5{ア.金地院崇伝 イ.南光坊天海 ウ.沢庵宗彭}に命じて、『大蔵―覧集』を銅活宇で印刷したが、これは駿河版と呼ばれる。さらに6{ア.朱印船 イ.勘合 ウ.長崎}貿易で活躍し、保津川の水路や京都・伏見間に高瀬川を開削した角倉了以の子・角倉素庵は、寛永の三筆のひとりで、「舟橋蒔絵硯箱」などを制作した7{ア.松花堂昭乗 イ.近衛信尹 ウ.本阿弥光悦}らの協力を得て、木製活字と優美な料紙による豪華な印刷本を刊行した。」

(答:5ア、6ア、7ウ)〉


〈2013早大・文:「

 室町時代の大和絵は、応仁の乱後に活躍した[ C ]が宮廷の絵所預を勤めて頂点に君臨したが、のち戦国時代の争乱の中で当主が討死したこともあって一時衰退した。逆に、斬新なデザイン感覚を取り入れて大和絵に新風を吹き込んだのは、むしろ保守的な流派に属さない、名もない画家たちであった。

 その新風は、江戸時代の寛永期に入って、京都の町衆の中から俵屋宗達という画家を生み出した。宗達は、同じ京都の上層町衆で、書や陶芸にすぐれた[ D ]と力を合わせて王朝の美意識の復興をめざし、新しい大和絵の様式を作り上げた。この様式は元禄期の尾形光琳を経て、化政期には江戸の地へも広がっていく。この流れは琳派と呼ばれている。


一方、伝統的な大和絵では、衰退していた[ C ]の一派の子孫が1654年に宮廷の絵所預に復活し、この一門から出た住吉如慶・具慶親子は徳川幕府の仕事に携わって、武家好みの大和絵を作り上げた。


問4 空欄Cにあてはまる人名を漢字4字で記入しなきい。


問5 空欄Dにあてはまる人名はどれか。lつ選び、マーク解答欄紙の該当する記号をマークしなさい。


 ア酒井田柿右衛門 イ野々村仁清

 ウ本阿弥光悦   エ角倉了以
 オ酒井砲一」

(答:問4土佐光信、問5ウ)〉


寛永期の文化(建築)

2016-10-28 | 『新世界史頻出年代暗記』



権化ニコッと 好き鬘。


霊廟(れいびよう)建築・現造(ごんげんづくり))(日光東照宮)(離宮・数寄屋造(すきやづくり))

[解説]
1.寛永期の建築では、霊廟建築が流行し、神社建築には権現造が広く用いられた。たとえば家康をまつる日光東照宮は、霊廟建築であり、その構造は権現造である。これらの建築には、桃山文化の影響を受けた豪華な装飾彫刻がほどこされた。

2.権現造は、本殿と拝殿の二つの社殿を、石の間(石敷きではない)という一段低い部屋がつないでいる。上空から見ると「H」を横に倒した形に見える。この様な構造の社殿をいう。


3.また書院造に草庵風の茶室をとり入れた数寄屋造(すきやづくり)が工夫され、京都の桂離宮の書院はその代表である。


4.黄檗宗の禅寺(長崎の崇福寺(そうふくじ)や宇治の万福寺(まんぷくじ)など)には、中国の建築様式が伝えられた。

〈2016早大・商

問J  この文と史料に関して、徳川将軍家の宗教に関する説明で正しいものはどれか。

 1.日光の家康霊廟は、数寄屋造の代表的な建築物である。

 2.日光の家康霊廟は、朝廷から供物を捧げる使者が送られたのは、幕末に限られた。
 3.幕府は江戸時代の人びとに、徳川将軍が崇拝する東照宮や伊勢神宮に参詣することを義務づけ た。 
 4.日光の家康霊廟は、幕末に尊王論が高まってくると打ちこわしの対象になった。
 5.徳川将軍家は家康を神として崇拝するとともに、徳川将軍家の菩提寺への参詣も行った。

(答:5 ※1×権現造、2×朝廷から日光東照宮へ1646(正保3)年から例幣使と言う使者が派遣された)〉

〈2012首都大・前期

問5.下線部1.17世紀前半期には新たな文化的傾向が見られるようになったを示すこの時期の建築物として、徳川家康をまつるため徳川家光が現在あるような形に改めたAと、後陽成天皇の弟八条宮智仁親王の別邸であったBがある。これら二つの建築物に見られる文化的特徴について、A・Bそれぞれの名称と、これ以前の文化との関係、及び当該期の社会状況との関係を含め、130字以内で答えなさい。

(〔解答例〕権現造を用いたAの日光東照宮のように、桃山文化の豪華絢爛さを継承した霊廟建築が流行する一方、Bの桂離宮のように、書院造に草庵風の茶室を取り入れ簡素で気品ある数寄屋造が生まれるなど、対照的な性格を備え、幕藩体制の安定化に見合う新しい武家文化として発展した。(127字)〉


1639(寛永16)年 〈鎖国の完成〉★

2016-10-27 | Weblog

●江戸時代(明正天皇 徳川家光)
1639(寛永16)年 〈鎖国の完成〉★

Edicts establishing National Seclusion are completed; Portuguese ships are banned from Japan.
一路(いちろ)裂くなり ポルトガル。
 1639年  鎖国の完成 ポルトガル船の来航を禁止

貿易制限を行ってきた江戸幕府は1637年の島原の乱に驚き、徹底的な禁教措置をとった。1639年、旧教国ポルトガル船の来航は全面的に禁止され、ヨーロッパでは新教(プロテスタント)国オランダのみが入国を許された。これによって鎖国体制が完成し、2年後の1641年にはオランダ人を平戸から長崎の出島に移した。



〈鎖国の経緯〉 鎖国令では奉書船以外の海外渡航を禁じた1633年の禁令、日本人の海外渡航および帰国を禁止した1635年の禁令、ポルトガル船の来航を禁じた1639年の禁令の3つが重要。最後の数字は3,5,9の〈鎖国〉
である。この間に1637年の島原の乱があり、鎖国完成後の1641年にオランダ商館が出島に移されている。すなわち1633年以降の5つの出来事は2年ごとに起こっているのだ。


[ポイント]

1.鎖国令は、奉書船のみ→日本人出入国禁止出島にポルトガル人ポルトガル船渡来禁止とすすんだ。

[解説]
1.幕府は、初めキリスト教を黙認していた。しかし、キリスト教の布教がスペイン・ポルトガルの侵略をまねく恐れを強く感じ、また信徒が信仰のために団結することも考えられたので、1612(慶長17)直轄領に禁教令を出し、翌年これを全国におよぼして信者に改宗を強制した。こののち幕府や諸藩は、宣教師やキリスト教信者に対して処刑や国外追放など激しい迫害を加えた。1614(慶長19)には、高山右近ら300人余りをマニラとマカオに追放した。右近は家族とともにマニラに到着し、スペインのマニラ総督の歓迎を受けたが、まもなく病死した。また、1622(元和8)には長崎で宣教師・信徒ら55名を処刑した(元和の大殉教)。多くの信者は改宗したが、一部の信者は迫害に屈せず、殉教するものやひそかに信仰を維持した潜伏(隠れキリシタンもいた。


2.鎖国令Ⅰ(1633)は、「異国え奉書船の外、舟遣(つかわ)し候儀堅(かた)く停止(ちようじ)の事」とあり、奉書船(老中奉書をもっている船)以外の日本船の海外渡航を禁止。なお後段にある「異国船につみ来り候白糸(しらいと)、直段(ねだん)を立て候て残らず五ヶ所割符(わっぷ)仕(つかまつ)るべきの事」も重要。


3.鎖国令Ⅱ(1634)で、海外との往来や通商を制限。


4.鎖国令Ⅲ(1635)で、「日本人異国え遣(つかわ)し申す間敷候(まじくそうろう)」として日本人の出入国を全面禁止。海外在住日本人の帰国は死罪となる。


5.鎖国令Ⅳ(1636)で、ポルトガル人を出島に集める。通商に無関係なポルトガル人やその混血児を国外追放。


6.島原の乱(1637~38)。幕府は島原の乱後、キリスト教徒を根絶するため、とくに信者の多い九州北部などで島原の乱以前から実施されていた絵踏(えぶみ)を強化し、また寺院が檀家であることを証明する寺請制度を設けて宗門改めを実施し、仏教への転宗を強制するなどキリスト教に対してきびしい監視を続けていった。


7.鎖国令Ⅴ(1639)は、「自今以後、かれうた渡海の儀、これを停止(ちょうじ)せられおわんぬ」とポルトガル船の渡来を禁止


8.鎖国令Ⅰ~Ⅳは、長崎奉行に対し内示した幕府内部法令、Ⅴのみを全国の諸大名に対し発布している。


9.なお「鎖国」の語は、ケンペル著『日本史』を志筑忠雄が『鎖国論』(1801)として訳出したことから始まる。

   1600年 リーフデ号、豊後に漂着。
   1604年 糸割符制度を創設。
   1609年 オランダ人に通商許可。
   1612年 幕府、直轄領に禁教令。
   1613年 イギリス人に通商許可。全国に禁教令。
   1614年 宣敦師・高山右近らを海外に追放。
   1616年 中国船を除く外国船の来航を平戸・長崎に制限。
   1622年 長崎で宣教師・信徒らを処刑(元和の大殉教)。
   1623年 イギリス、平戸商館を閉鎖して退去。
   1624年 スペイン船の来航を禁止。
   1633年 奉書船以外の海外渡航禁止(鎖国令Ⅰ)。
   1634年 海外との往来や通商を制限(Ⅱ)。
   1635年 日本人の海外渡航および帰国を全面禁止(Ⅲ)。
   1636年 ポルトガル人の子孫を追放(Ⅳ)。
   1637年 島原の乱(~38年)
   1639年 ポルトガル船の来航を禁止(Ⅴ)。
   1641年 平戸のオランダ商館を長崎の出島に移す。

〈2015法大・文人間経営

4.(第一条)一、異国えa.奉書船の外。舟遣(つかわ)し候儀、堅(かた)く停止の事。
  (第十二条)一、異国船ニつみ来り候白糸(しらいと)、直段を立て候て、残らずb.五ケ所へ割符(わつぷ)仕るべきの事。  〔「寛永十年鎖国令」『徳川禁令考』〕

問6 4の法令中の下線部aの語句の説明として正しいものを、以下のア~エのなかから一つ選べ。


 ア 奉書船とは、長崎奉行が発行した海外渡航許可状のほかに、勘定奉行が発行した奉書を所持している商船である。

 イ 奉書船とは、将軍が発行した朱印状のほかに、老中が長崎奉行にあてた渡航許可の奉書を所持している商船である。
 ウ 奉書鉛とは。将軍が発行した国書のほかに、長崎奉行が発行した貿易用の鑑札を所持している生糸専門の商船である。
 エ 奉書船とは、船主が居住する領地の大名が発行した朱印状のほかに、老中たちが発行した連署奉書を所持している商船である。

問7 4の法令の下線部bについて、京都・長崎・大坂・江戸のほか、もう1カ所として正しいものを、以下のア~エのなかから一つ選べ。


 ア堺 イ神戸 ウ博多 エ平戸」

(答:問6イ、問7ア)〉


〈2014慶大・文

 江戸幕府の鎖国によって、対外関係の窓口は長崎・対馬・薩摩・松前に整備された。オランダとの関係は、1600年、( A )号が豊後国臼杵湾に漂着したことに始まる。1609年、オランダは( B )に商館を設置したが、1641年、その商館はポルトガル人の追放によって使われなくなった長崎の出島に移された。」

(答:Aリーフデ、B平戸)〉


〈2013中大・経済

 江戸幕府の外交は、鎖国に示されるような封鎖的体制とその維侍に示されているが、その端繕は、1604年に特定の商人らに輸入生糸をー一括|階入さぜ、ポル)ガル商人らの利益独占を排除した[ 1 ]制度の制定に示されている。幕府は、幕藩体制の確立にともなって、貿易を統制下に置くようになり、1616年には中国船を除く外国船の寄港地の制限をし、1624年にはスペイン船の来航を禁じた。また、1633年に最初の鎖国令が出され、朱印状の他に老中から許可証を受けた[ 2 ]という海外渡航船以外の日本船の海外渡航が禁止された。1639年の鎖国令では、ボルトガル船の来航が禁止され、それ以降、鎖国体制の下では、日本と正式な国交があった通信国としての朝鮮と琉球王国、正式な国交はないが貿易は行っていた通商国のオランダと中国だけが日本との関係を結ぶこととなった。」

(答:1糸割符、2奉書船)〉


〈2012明大・文学部

問2.以下の各文は近世初期の外交に関する文章である。誤りのあるものを次の1~5のうちから一つ選べ。

 1.朝鮮との貿易は1609年(慶長14)に朝鮮と対馬の宗氏との間で結ばれた己酉約条によって再開された。

 2.イギリスは1623年(元和9)平戸の商館を閉鎖したが、それはモルッカ諸島のアンポイナ島で起こったオランダ人によるイギリス商館員虐殺事件がきっかけとなっている。
 3.1639年(寛永16)に発令された最後の鎖国令には、キリスト教禁止・イギリス船来航禁止等が定められている。
 4.最後の鎖国令が発令された前年には九州の島原半島と天草地方で大規模な一揆が起こっている。その一揆は島原の乱とも呼ばれている。
 5.鎖国によって日本に来航するのはオランダ船と中国船に限られたが、朝鮮とは対馬藩、琉球とは薩摩藩、アイヌの人々とは松前藩を介して交易が行われた。」

(答:3)〉









前108年 〈武帝、 衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡などを置く〉★

2016-10-26 | 『新世界史頻出年代暗記』

 中国前漢

 

 燕の亡命者衛満が、伝説の王朝・箕(き)氏朝鮮を倒して衛氏朝鮮(前190頃~前108年)を建国、三代にわたって朝鮮を支配した。   

前108年、前漢の武帝はこの王朝を滅ぼし、楽浪郡(前108~後313年)などの4郡を設置した。

さらに後漢の頃、楽浪郡の南部が分かれ、帯方郡(204頃~313年)となった。

入れ歯はええよ 噛むの(らく)

108年   衛氏朝鮮を滅ぼす

               漢 武帝 楽浪郡

漢 武帝

漢武帝.jpg

 

 

[問題]

つぎの史料を読み、問に正確な漢字で答えなさい。

C.夫れ(a)楽浪海中に倭人有り、分れて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。(後略)
(原漢文)


問1.下線部(a)の楽浪郡を設置したのは誰ですか。


[解答]

問1.漢の武帝 

 

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江戸時代の修験道・陰陽道

2016-10-26 | 『新世界史頻出年代暗記』


修験本当 御身土。

陽道(おんみょうどう)・御門(つちみかど)家)(修験道(しゅげんどう)・山派・山(とうざん)派)


[ポイント]

1.修験道本山派当山派にわかれ、陰陽道土御門家が統轄した。

[解説]

1.江戸幕府は、仏教以外の神道・修験道陰陽道(おんみょうどう)なども仏教に準じて容認した。いっぽう修験者(山伏(やまぶし)) や陰陽師(おんみょうじ)は、仏教では満たされない祈禱(きとう)や占いを、江戸時代の人びとに与えた。
             
2.修験道は、天台系(本山派)は三井寺(園城寺(おんじょうじ))の支配のもと聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)が、真言系(当山派)は醍醐寺三宝院門跡(さんぽういんもんぜき)が本山として末端の修験者を支配した。「本当正午聖護院門跡)に散歩三宝院門跡」と覚えるとよい。

3.また陰陽道では、公家の土御門家が全国の陰陽師を統轄した。


〈2016早大・商

問C 江戸時代より前の空欄[ ハ ]は、修験道の修行場であった。修験道に関する説明として誤っているものを選べ。

 1.修験道の宗教者を統制したのは土御門家である。

 2.修験道を担う宗教者は、修験者または山伏と呼ばれる。
 3.修験道には本山派・当山派という組織があった。
 4.天台宗・真言宗の密教の影響を受けた。
 5.戦国時代以前の一時期だけ流行した。

(答:C1×修験道→陰陽道(5△) ※空欄ハは日光)〉

〈2015立命館大・全学部

問f 下線部2の三井寺の説明として、もっとも適当なものを下から一つ選べ。

 あ.10世紀の終わり、円珍派は比叡山を下ってこの寺に入り、天台宗山門派となった。

 い.この寺は、密教芸術を代表する、青不動と呼ばれる不動明王像を所蔵している。
 う.のちに反平氏の挙兵をした以仁王と源頼政がこの寺に立てこもり、自害した。
 え.修験道の修行者である山伏は、のちにこの寺と真言宗の醍醐寺の2系統に組織された。

(答:え ※あ×山門派→寺門派、い×青不動→黄不動、う×この寺→平等院)〉


島原の乱

2016-10-24 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

●江戸時代(明正天皇 徳川家光)

 

Simabara Uprising is mounted by overtaxed peasants.

無残(むざん)なり 島の城。

           1637年         島原の乱 松平信綱 天草四郎時貞

 

江戸幕府は禁教令を全国に発布してキリスト教信者に改宗を強制。1637年、島原城主松倉氏と天草領主寺沢氏による重税・キリスト教弾圧政策に抵抗して島原の乱が起こった。天草四郎時貞を首領として原城跡にたてこもった3万余りの一揆勢に対し、幕府は松平信綱を総指揮官に任命し、九州の諸大名ら約12万の兵力を動員してようやく鎮圧した。


[ポイント]
1.小西行長の旧領島原の農民は松倉重政の圧政に対し、1637年天草四郎時貞をたて原城に蜂起したが、老中松平信綱指揮の幕府軍に敗れた。

[解説]
1.島原の乱は、1637(寛永14)、島原半島と天草島の農民がキリシタン信者と結合して起こした大農民一揆。この乱は、飢饉の中で島原城主松倉重政と天草領主寺沢広高とが領民に苛酷な年貢を課し、キリスト教徒を弾圧したことに抵抗した土豪や百姓の一揆である。つまり宗教的反乱と言うより、本質は百姓一揆である。

2.肥前島原半島と肥後天草島は、かつてキリシタン大名の有馬晴信小西行長(1558~1600)の領地で、一揆勢のなかには有馬・小西氏の牢人やキリスト教徒が多かった。益田(天草四郎)時貞(1623?~38)を首領にして原城跡に立てこもった3万余りの一揆勢に対して、幕府は九州の諸大名ら約12万人の兵力を動員した。鎮圧にもたつくが、征討軍の大将板倉重政が敗死後、老中松平信綱の指揮で、翌1638(寛永15)年、ようやくこの一揆を鎮圧した。

〈2016上智大・法(地球)済(営)総人(社福)〉
 中野の上高田にある寺町には、区画整備で、明治40年代に都心から移転してきた寺が数多く集まっており、著名人の墓も多い。宝泉寺には板倉重昌の墓がある。彼は( ト )の島原の乱で、幕府上使として、原城にこもる一揆勢に対する攻撃の指揮をとるが、成果があがらず、翌年新たに派遣された老中( ナ )が到着する前に総攻撃をおこなって戦死した。

問1 空欄( 卜 )に当てはまるもっとも適切な年代はいつか。次の中から1つ選びなさい。


 1.1630年 2.1632年 3.1633年

 4.1635年 5.1637年 6.1639年

問2 空欄( ナ )に当てはまるもっとも適切な人物は誰か。次の中から1人選びなさい。


 1本多正純 2本多正信 3酒井忠清

 4土井利勝 5堀田正俊 6松平信綱」

(答:問1→5、問2→6)〉

〈2015関西大・文商法など2月4日:「
 江戸時代に入ると、慶長17年(1612)、禁教令が出され、同19年、キリシタン大名で知られた高山右近は、8{ア.マカオ イ.マニラ ウ.アユタヤ}へ追放された。キリシタンに対する弾圧は続き、寛永14年(1637)には島原の乱が起こった。この地域はキリシタン大名有馬晴信と9{ア小西行長 イ加藤清正 ウ大友義鎮}の旧領で、キリシタンが多数居住していた。」

(答:8イ、9ア)〉

〈2012立大・文学部:「
 ( へ )を総大将として、島原と天草の領民たちが領主松倉氏と寺沢氏の苛政に対して、ともに手をたずさえて蜂起したのは、〈 こ 〉年秋のことだった。領民たちはそれぞれの領主の苛政に対して立ち上がったのだが、報告を受けた将軍家光は、キリシタン一揆と断定して、徹底的な弾圧を命じた。独特な終末観を持つ( へ )を中心とする首謀者たちは別として、2万人から4万人近くまで、様々に伝えられる参加人数の全員がキリスト教で結束していたわけでもなかった。指導層の内部では方針などをめぐる対立もあった。反乱軍は原城での数カ月の籠城戦の後に壊滅し、城は破却された。幕府は、鎮圧に〈 さ 〉人と〈 し 〉人を動員してその忠節ぶりを確認し、懸案だった〈 す 〉からのポルトガル船の来航を禁止し、その2年後に〈 さ 〉人を平戸から長崎出島に移した。

 こ)a1630 b1635 c1637 d1639
 さ)aイギリス bオランダ cスペイン d中国
 し)aイギリス bオランダ cスペイン d中国
 す)aバタヴイア bマカオ c.マニラ dマラッカ」

(答:へ天草四郎時貞、こc、さb、しd、すb)〉


江戸幕府の歴代将軍

2016-10-20 | ベック式!日本史用語集

家康秘密角強し花よさもよし徳川よ。


家康秀忠家光)(家綱綱吉)(家・家吉宗

(家(いえしげ)・家(いえはる)・家(いえなり))(家(いえよし)・家(いえさだ))(家(いえもち)・慶喜(よしのぶ))

 

 江戸幕府の1~15代の将軍は、家康秀忠家光家綱綱吉家宣家継吉宗家重家治家斉家慶家定家茂慶喜である。




〈2016同志社大・全学部

 次の(1)~(2)の文章を読み、文中の下線部または空欄に対応す設問に答えよ。

(1)江戸幕府の軍事力は、将軍直属の家臣団であるa旗本・御家人のほか、諸大名の負担する軍役で構成されていた。大名は、戦時に軍役の義務を負うだけでなく、平時には江戸城などの修築や河川の修復などの土木工事を命じられた。これは( b )役と呼ばれるもので、大名にとっては大きな財政負担となった。2代将軍秀忠は厳しく大名の統制にあたり、c.武家諸法度に違反した大名を( d )するなど、将軍の威光を広く天下に示した。


 また幕府は禁中並公家諸法度を定め、ア朝廷や天皇に対しても規制を強めた。e天皇家の領地は必要最小限にとどめられ、朝廷は伝統的権威を保持するのみの存在となっていった。秀忠は娘の和子を後水尾天皇に入内させたが、二人の子であるイ.興子内親王の即位に及んで、幕府の朝廷統制の枠組みが確立されたのである。


【設問a】この両者の総称として、将軍徳川氏の1万石未満の直臣を何と呼ぶか。漢字で記せ。


【設問b】「御手伝い」とも呼ばれるこの役について、空欄( b )にあてはまる語句を、漢字2字で記せ。


【設問c】秀忠の名の下に発布された最初の武家諸法度は、その年号をとって[   ]令と呼ばれている。あてはまる年号を漢字で記せ。


【設問d】空欄( d )には、大名に対してその領地を没収し、家を断絶させる処分を示す語句が入る。漢字で記せ。


【設問ア】江戸時代の朝廷には、幕府の承認を必要としつつもいくつかの権限が残されていた。この権限に該当しないものはどれか、次のうちから1つ選べ。


 1.形式的官位の授与 2.改元

 3.暦の制定 4.貨幣の鋳造

【設同e】近世、天皇家の領地は何と呼ばれていたか。漢字4字で記せ。


【設問イ】この人物の即位後の名称を次のうちから選べ。


 1.明正天皇 2.東山天皇

 3.桃園天皇 4.後桜町天皇

(2)3代将軍家光の死後は、松平信綱らが中心となって4代将軍家綱を支えた。1651年の由井正雪の乱や、1657年の( ウ )の大火を乗り越えて、冪政の安定がはかられた。5代将軍となった綱吉は、( g )、次いで柳沢吉保の補佐を得て、文治政治を積極的に推進した。平和なこの時代には元禄文化が花開いたが、しかし幕府財政は次第に窮乏の度合いを強めていった。そこで6代・7代将軍の時代には、エ新井白石を中心として元禄期の幕政の修正がはかられた。

【設間f】この乱は、事件の起こった年号をとって[   ]の変とも呼ばれる。あてはまる年号を漢字で記せ。


【設問ウ】空欄( ウ )には、振袖火事とも呼ばれるこの大火の起こった年号が入る。これにあてはまるものを次のうちから1つ選べ。


 1.明徳 2.明暦 3.明応 4.明和


【設問g】空欄( g )には、綱吉の擁立に功があり、大老としてその治世の初期を支えたが、江戸城中で若年寄稲葉正休に刺殺された人物が入る。あてはまる人物名を漢字で記せ。


【設問エ】新井白石の行なった政策として正しいものを次のうちから1つ選べ。


 1.湯島聖堂を建立し、林鳳岡を大学頭に任じて重用した。

 2.将軍職の権威を高めるために、将軍家継と皇女との婚約をまとめた。
 3.間部詮房とともに「天和の治」を主導した。
 4.長崎貿易を拡大し、銀による支払額を増大させた。

(答:a直参、b普請、c元和、d改易、e禁裏御料、f.慶安 g堀田正俊、ア4、イ1、ウ2、エ2)〉

〈2013慶大・文

第6代将軍の( B )により廃止され、新井白石らが政治の刷新を図った。」

(答:B徳川家宣)



 

〈2016同志社大・全学部

 次の文章を読み、文中の下線部または空欄に対応す設問に答えよ。

 

 幕府財政は8代将軍h吉宗の改革によって一時的に立ち直りをみせたが、しかしその後18世紀後半には再び行き詰まることとなった、このとき政務を担ったのが田沼意次である。彼は1O代将軍( オ )のもとで従来の緊縮政策を捨て、i商業資本の積極的利用による財政再建をはかろうとした。しかし賄賂政洽への批判や、カ天災などの世情不安もあり、急速に支持を失っていった。続く11代将軍のもとでは松平定信が吉宗時代を理想とする政治改革を行ったが、厳しい統制や倹約令は民衆の反発を招いた。さらにこの時期、キ尊号一件と呼ばれる朝廷問題も発生した。

【設問h】吉宗の行なった改革の1つに、大名から石高1万石につき100石を臨時に上納させる政策があり。幕府財政の改善に一定の効果がみられた。将軍側にとっては「恥辱」とも認識され、1731年に廃止となったこの政策を何というか記せ。


【設問オ】空欄( オ )に入る人物名を次のうちから選べ。


 1.家重 2.家治
 3.家慶 4.家斉


【設問i】田沼意次は町人の経済力を利用して、利根川水系の手賀沼・[   ]の干拓を行なおうとした。[   ]にあてはまる湖沼の名称を、漢字で記せ。


【設問カ】江戸時代には冷害・噴火など天災を主因とする飢饉が発生したが、以下の4つの飢饉について、その番号を起こった時期の古い順に並べて、記入せよ。


 1.享保の飢饒 2.天保の飢饉

 3.天明の飢饉 4.寛永の飢饉

【設間キ】下線部キは江戸時代に創設されたある宮家から迎えられた光格天皇が、皇位についていないその実父に太上天皇の尊号を贈ろうとして起こった事件である。この光格天皇の出身の宮家を次のうちから1つ選べ。


 1.八条宮 2.閑院宮
 3.有栖川宮 4.伏見宮


(答:h上げ米(上米の制)オ.2、i印旛沼、カ4-1-3-2、キ2)〉

 

〈2015早大・人間科学:「
問5 下線部d家光から10代将軍のうち6代・9代に該当する人名の組み合せとして、正しいものはどれか、1つ選べ。


 ア 家継・家宣 イ 家継・家重
 ウ 家綱・家継 エ 家綱・家重
 オ 家宣・家綱 カ 家宣・家重

(答:カ)」〉

 

〈2015大学入試センター試験・日本史B:「
B 1838年、水戸藩主徳川斉昭は「戊戌封事」とよばれる幕政改革の意見書を執筆し、翌年、これを将軍[ ア ]に提出した。斉昭は、この時代の危機的状況を内憂とd外患に大別して詳細に指摘した。1841年に大御所徳川家斉が死去すると、将軍[ ア ]のもとで政治改革が始まる。

 幕府は改革に着手する準備として、1838年に老中[ イ ]の指示により、江戸と地方がかかえている問題への対策について諸国の代官たちに諮問をした。次の史料はその際に越後国出雲崎代官が幕府に提出した回答(上申書)の一部である。


史料

 (村を無断で立ち退いた者たちのうち)帰住相願い候者は稀にて、御府内又は在町(注1)へ立ち入り、生涯立ち戻らざる者どもは、支配(注2)において厚く世話致し候とも行き届き難し、殊に在方(注3)にては昼夜農業のために艱苦骨析(注4)、その上、米を食し候者は少なく、麦稗へかて(注5)を取り交ぜ麁食(注6)致し候者、御府内へ出候ては、その日稼ぎ致し候者も美食を致し、身持ち惰弱(注7)に相成り候故、帰住の志さらにこれ無し
                       (「市中取締類集」)
(注1)御府内又は在町:御府内は江戸のこと。在町は在郷町・在方町ともいう。
(注2)支配:ここでは幕府の代官のこと。
(注3)在方:村のこと。
(注4)艱苦骨折:苦しみと努力のこと。
(注5)かて:混ぜ加える食物のこと。
(注6)麁食:粗末な食事のこと。
(注7)惰弱:なまけてだらしのないこと。

問4 空欄[ ア ][ イ ]に入る語句の組合せとして正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1ア徳川家慶 イ水野忠邦
 2ア徳川家慶 イ田沼意次

 3ア徳川家綱 イ水野忠邦
 4ア徳川家綱 イ田沼意次


問5 下線部d外患に関連して、近世後期の対外問題への幕府の対応に関して述べた次の文1~3について、古いものから年代順に正しく配列したものを、下の1~4のうちから一つ選べ。


 1 海防上の必要から、近藤重蔵らに択捉島の探査を行わせた。

 2 アヘン戦争の情報を受け、外国船に対する薪水給与を命じた。
 3.ロシアとの間に軍事的緊張が高まるなか、はじめて全蝦夷地を直轄地とした。

 (1)1-2-3 (2)1-3-2
   (3)2-1-3 (4)2-3-1
 (5)3-1-2 (6)3-2-1


(答:問4→1、問5→2, 3.は1807年 「否応なしに 全蝦夷地。」)

1.家康の子秀忠が、1605年征夷大将軍に就任した(~1623年)。

1.2代将軍徳川秀忠(位1605~23年、大御所1623~32年)は、家康(1542~1616)の3男。家康に従わない秀吉の子豊臣秀頼(1593~1615)がいぜん大坂城におり、名目的に父秀吉以来の地位を継承していた。1605(慶長10)年、家康は将軍職が徳川氏の世襲であることを諸大名に示すため、みずから将軍職を辞して子の徳川秀忠(1579~1632)に将軍宣下を受けさせた。家康は駿府に移ったが、大御所(前将軍)として実権はにぎり続け、豊臣氏が建立した京都方広寺の鐘銘(しょうめい)を口実に、1614~15(慶長19~元和元)年、大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)で豊臣方に戦いをしかけ、攻め滅ぼした。

 

〈2012明大・文学部

問1.以下の各文は徳川家康の政治的立場や政策等に関する文章である。正しいものを一つ選べ。

 1 家康は織田信雄と結んで羽柴秀吉と近江賤ヶ岳で戦ったが、家康優勢のまま和睦は進められた。

 2 関ケ原の戦いに勝利した家康は、石田三成方についた西軍の大名を処分し、翌年には大坂城代を設置し、西国や朝廷の動向を監視させた。
 3 家康はその勢力を三河の岡崎から東海・中部地方に拡大したが、関ケ原の戦いに勝利したのち領地を関東に移され、居城を江戸に定めた。
 4 家康は1603年(慶長8)征夷大将軍となったが、将軍職が徳川家の世襲であることを示すため、2年後には将軍職を子の秀忠に譲った。
 5 1615年(元和元)7月最初に発布された武家諸法度は、家康が儒者藤原惺窩に起草させ、秀忠の名によって発布した。

(答:4 ※1×小牧・長久手の戦いの誤り、2×大坂城代ではなく京都所司代、3×家康は秀吉により1590年関東に転封、5×金地院崇伝が起草)〉



1604(慶長9)年 〈糸割符制度〉★

2016-10-20 | Weblog

●江戸時代(後陽成天皇 徳川家康)
Itowappu trading system is established.
色は白いよ 糸割符。
           1604年    白糸     糸割符制度  

1604年、ポルトガル商人の暴利抑制のため、堺・長崎・京都の商人に糸割符仲間をつくらせ、白糸とよばれた中国産生糸を一括購入させる糸割符制度を開始。糸割符仲間は後に江戸・大坂の商人を加え、五ヶ所商人とよばれた。

五カ所とは京都長崎に、大坂江戸

 

[解説]
1.当時、ポルトガル商人は、マカオを根拠地に中国産の生糸(白糸)( しらいと)を長崎に運んで巨利を得ていたが、幕府は1604(慶長9)年、糸割符制度を設けて、糸割符仲間とよばれる特定の商人らに輸入生糸を一括購入させた。この結果、日本側が価格決定権をにぎることになり、ポルトガル商人らの利益独占の排除に成功した。

 

2.糸割符仲間を、まず京都長崎の特定の商人らにつくらせた。糸割符制度は、この仲間が毎年春に輸入生糸の価格を決定し、その価格で輸入生糸を一括購入して、これを仲間構成員に分配した制度である。

 

3.のちに商業分野では後発の新興都市である江戸坂の商人が加わり、五カ所商人とよばれた。

 

〈2014明大・経営

問3 下線部(ウ)糸割符制度に関する説明文の中で、正しいものを1つ選べ。

 A 糸割符仲間は、当初は江戸・京都・摂津の三ヵ所商人だけであった。
 B 糸割符仲間は、当初は江戸・京都・大坂の三ヵ所商人だけであった。
 C 糸割符仲間は、三ヵ所商人に長崎、堺が加わり、五ヵ所商人となった。
 D 糸割符仲間は、輸入生糸の価格を決定していた。」

(答:D)〉

〈2012立大・全学部

 徳川幕府が、1604年に設けた糸割符制度は、〈 い 〉と呼ばれた中国産の生糸の輸入に関して、幕府が特定商人に割り当てて統制するものであり、当時、中国と日本の間の中継貿易で莫大な利益をあげていたポルトガル商人の利益独占の排除をめざして行われたものであった。」

(答:い白糸)〉

〈慶応大

 五カ所のうち、最初からこの制度に加わっていた都市名を3つ記述せよ。」

(答:京都・堺・長崎)〉



江戸時代の政治改革

2016-10-19 | 『新世界史頻出年代暗記』



ショート今日球完成大手。


(正の治・保の改革・沼時代)(寛政の改革)(御所時代・保の改革)


1.幕政改革は、正徳の治享保の改革田沼時代寛政の改革大御所時代天保の改革の6期。

[解説]
 幕政改革の開始動機は、おもに財政難打開にあった。今日の経済学の常識で考えれば、商品貨幣経済がスムーズに発展していくように、それを妨げる様々な障碍(しょうがい)を取り除いていく政策こそが真の改革である。しかし江戸時代の3大改革正徳の治は、いずれも倹約にはじまり年貢収納高の増加を図り、貨幣経済を抑制しようとする政策が基本であった。つまり今日から見れば、これら4つは、経済の観点からはどちらかといえば改悪であった。人心の引き締めという点では評価できても、経済は改悪である。その点、田沼時代は、人心の緩(ゆる)みはあったにしても経済改良の時代だった。大御所時代は商品貨幣経済を放置したのでいわゆる政策としての「改革」ではないが、日本列島全体の経済にはむしろ良かったのである。

 幕府は、家康時代の米中心の自然経済志向を理想とし、そこへの回帰を目指していた。だから農民を貨幣経済から隔離し、階層分化を防ごうとした。しかし、武士階級自身が、発達する商品貨幣経済にどっぷりはまって享受していては無理な話であった。都市の享楽の後背地である農村に「たばこ」などの商品作物の栽培を依存していけば、農村に貨幣経済が浸透していくのは必定だった。

 財政の再建は、商品貨幣経済に依拠した収入増こそ図らなければならなかった。幕末の長州藩による越荷方(こしにかた)経営などのように、儲かっているところから自らの経営で取るか、貨幣で税を取るかすべきであった。しかし幕政は後ろ向きに、貨幣経済未発達の「権現様(ごんげんさま)=家康」の時代へ無理矢理戻そうして失敗したのである。ほとんど同じ政策でありながら、享保の改革よりも、寛政、さらに天保の改革の破綻(はたん)が早く、期間も短くなっていく。それは、商品貨幣経済がますます発展し、改革が目指す原点=家康時代との乖離(かいり)があまりに大きくなっていたからである。

〈2014早大・文化構想

 近世には、江戸・大坂・京都などの大都市が発展したが、特に大坂は「天下の台所」といわれ、日本における経済の中心となった。大坂では幕府や各藩の年貢米や特産物が[ D ]に集まって保管され、商品として販売された。販売を請け負ったのは蔵元や掛屋とよばれる商人だった。一方、経済の発展とそれに伴う問題は、江戸幕府の政治をしばしば動揺させた。d幕府のいわゆる三大改革やその間の田沼政権は、経済問題への取り組み抜きには語れない。

問8 下線dに関連して述べた文のうち誤っているものはどれか。2つ選べ。

 ア 享保の改革では、大名に対して参勤交代を半年にするかわりに上米を命じた。
 イ 享保の改革では、米価安定のために大坂堂島の米市場を公認した。
 ウ 田沼政権では、株仲間の範囲を積極的に広げ、江戸の二十四組問屋などを公認した。
 エ 寛政の改革では、札差の保護を図るために棄損令を発布した。
 オ 天保の改革では、株仲間を物価高騰の原因とみなして、株仲間解散令を発布した。」

(答:D蔵屋敷、問8ウ・エ ※ウ×二十四組問屋は大阪、エ×旗本・御家人の保護)〉


江戸時代の農民(本百姓)の税負担

2016-10-18 | 『新世界史頻出年代暗記』


本物小物高くって。

本途物成・小物成・高掛物(たかがかりもの)・役・伝馬役(てんまやく))


1.本百姓の負担は、本途物成高掛物小物成伝馬役国役の5つ

[解説]

1.本途物成(本年貢)は、検地帳に記載された田畑・屋敷にかかる。村高の40~50%を米納が原則。

2.高掛物は、村高に応じて付加される付加税の総称。幕領に課せられたものは3種(高掛三役)あった。最初は米納だったが、次第に金納化。


3.小物成は、副業や山野・河川からの収益にかかる雑税。


4.伝馬役は、宿場町の労役負担。東海道で100人、馬100匹。伝馬役の一種の助郷役は参勤時などで宿駅が人馬不足のときに、周辺農民に対して課された労役。これを出すようにあらかじめ指定された村を助郷村あるいは助郷という。当初、助郷村の範囲は宿場の近隣に限られたが、次第に遠方に拡大され10里以上にも及ぶ場合があった。遠方で村が人馬を提供できない場合、金銭で代納しなければならなかった。助郷はきわめて重い税で街道筋の農村を苦しめた。


5.国役は、幕府が特定の国を指定して、河川堤防の修築などの賦役、または各種経費の負担を命ずる臨時の税。領地の石高を基準として課した。 


〈2016早大・文化構想

 明智光秀を討った羽柴(豊臣)秀吉は、面積の表示と枡の容量を統一し、検地を開始していった。検地により全国の生産力を米の収穫量で示す[ C ]制が確立した。[ C ]は、d農民の年貢や諸役の負担のみならず、大名の軍役の基準ともなった。

問6 空欄Cに当てはまる語句として正しいものはどれか。1つ選べ。

 ア貫高 イ足高 ウ石高 エ石盛 オ俸禄

問7 下線dに関連して、山野河海の利用や農業以外の副業などにかかる負担を何というか。漢字で記述しなさい。」


(答:問6ウ、問7小物成)〉

〈2015関西学院大・神社済教

問9.下線部j本途物成に関する説明として、誤っているものを下記より選びなさい。

 ア.おおむね四公六民や五公五民の割合で徴収された。

 イ.高請地を基準に賦課された。
 ウ.貨幣で納めることもできた。
 エ.石高にあらわされない農業以外の副業にもかけられた。」

(答:エ×副業にかかるのは小物成)

〈2014立大・現心コミュ福観光営

 豊臣秀吉や、その後の徳川幕府は、田畑・屋敷地には、その石高に応じた本途物成、すなわち本年貢を賦課し、検地によって田畑・屋敷地とは峻別された山野河海の用益には( ヲ )を賦課した。( ヲ )は、江戸時代を通じて各地の特産物や商業にも賦課される場合があり、本途物成以外の雑税を意味した。」

(答:ヲ小物成)〉


〈2014立大・文

問14.年貢や諸役に関する説明として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.国役とは、街道近辺の村々が公用交通に人や馬を差し出すという役である

 b.検見法とは、一定期間同じ年貢率を固定する方法である
 c.四公六民とは、石高の40%前後を領主に納めることである
 d.高掛物とは、農産物以外の副業に課せられる年貢である」

(答:c ※a×この説明は伝馬役、b×毎年出来高をはかる方法。この説明は定免法、d×この説明は小物成)〉


1673(延宝元)年 〈分地制限令〉★

2016-10-17 | 『新日本史頻出年代暗記』

 

 

 

  

●江戸時代(霊元天皇 徳川家綱)

 

Restriction of the land order is promulgated.

色んな身分 分かつなと。 

1673年  分地制限令 徳川家綱

 4代将軍家綱の1673年、分割相続による耕地の細分化をおさえるため、分割相続の制限令である分地制限令が出された。名主は 20石以上、一般百姓は 10石以上での所持で分割が認められた。たが,その後いくぶん変化があり、明治維新後廃止された。

 

1.分地前10石あればよいから、分地後10石あることが要件になった。

[解説]
1.分地制限令1673年のときは、分割前に「名主二十石、百姓は十石以上」を持っていない農民の分割(分地)相続を禁止した。


2.幕府は1713年の改正で、分割後も「名主二十石、百姓は十石以上」あることと制限を強化した。


3.西日本での干ばつと虫害、東日本での長雨と冷害による寛永の大飢饉(1641~42)は幕藩体制を揺るがすような衝撃を幕府に与えた。このため幕府は、その2年後に田畑永代売買禁令および木綿と菜種の作付制限令を出している。各農民統制法規の目的は、全て本百姓体制を維持し、年貢を確保するため。すなわち田畑の売買を禁止して土地喪失を防止し(田畑永代売買禁令)、商品作物栽培を禁止して貨幣経済浸透による階層分化を防ぎ(田畑勝手作の禁)、分割相続による農民の零細没落化を防止し(分地制限令)、さらには贅沢(ぜいたく)を禁止するなど生活全般への規制を加えていった。


〈2013成城大学・経済

 幕府の財政収入は、直轄領〔幕領〕からあがる年貢のほか、佐渡・伊豆などの主要鉱山から得られる収入が中心を占めていた。幕府は百姓の小経営を安定きせ、年貢・諸役の徴収を確実にするため、1643年に[ 1 ]、1673年には分割相続による田畑の細分化を防ぐために[ 2 ]を出すなどした。」

(答:1田畑永代売買の禁令、2分地制限令 ※原問には選択肢が34語あり)〉

 

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飛鳥文化

2016-10-17 | ベック式!日本史用語集

 明日は彫り込む 釈迦の玉、駆使中盤で 降板し。

飛鳥文化  飛鳥寺

    法隆寺金堂釈迦三尊像 

         (法隆寺)玉虫厨子 

                (法隆寺)百済観音像

                    (法隆寺)獅子狩文様錦

                        中宮寺半跏思惟像   

                           (中宮寺)天寿国繍帳

                               広隆寺半跏思惟像 

                                     四天王寺

                             

1.法隆寺金堂は、7Cの建造。平面18×15m、西院の中心で、柱のエンタシスなど中国の南北朝様式を特色とする。鞍作鳥作の『釈迦三尊像』や焼失した壁画は著名。五重塔・中門・歩廊(廻廊)と共に旧山田寺廻廊遺材に続く世界最古の木造建築。

2.広隆寺半跏思惟像は、南朝の南梁様式。像高1.2mの木像。材は赤松。これも弥勒菩薩像と思われる。朝鮮伝来のもので603年聖徳太子が秦河勝(はたのかわかつ)に贈ったと伝えられ、韓国によく似た像がある。中宮寺の半跏思惟像と共に新羅様ともいう。2体とも右足を左足の上にのせている。国宝に第1号で指定。なお広隆寺は秦氏の氏寺で秦河勝が京都の太秦に建立したと伝えられる。

3.中宮寺天寿国繍帳は、聖徳太子の死後、妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が太子の天寿国での様子を、刺繍で描かせたもの。日本最古の刺繍。

4.法隆寺は厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)が建立し、(再建されていたとしても)現存する世界最古の木造建築物である。法隆寺再建論争は法隆寺西院伽藍(金堂・五重塔など)の成立をめぐる論争。『日本書紀』に670年法隆寺炎上の記事があるため、歴史学者は現存の金堂・五重塔の670年以後の再建を主張。一方建築史家は様式や尺度から創建当時のものと非再建を主張。法隆寺再建説の根拠は1939年、発掘された若草伽藍(がらん)跡である。これで再建説が有力となる。同伽藍は法隆寺西院より古い四天王寺式伽藍配置をもっていた。2004年、1000度以上の高温にさらされている彩色寺院壁画破片多数が発見され、炎上をさらに裏付けた。

5.その他代表建築に法隆寺五重塔。11㎡、総高32m、金堂と左右対称に建てられ、法起寺(ほっきじ)三重塔(国宝)と共に飛鳥様式を伝える最古の塔。最下層の塑像群は著名。

6.その他代表彫刻に法隆寺百済観音(かんのん)像も。南梁様式。像高2.1mの一木造像で7Cの作。材は楠(くすのき)。百済から渡来との伝承による名称だが、この渡来説は否定されている。体つきに丸味がある。

7.その他代表彫刻には中宮寺半跏思惟像も。像高1.3mの木像。材は楠(くすのき)。片足を他の足の太股(ふともも)の上に組み(半跏、ただし広隆寺の像とともに右足を左足の上にのせている半跏)、手を頬に当てて深く思考(思惟、ただし思惟(しゆい)は思惟(しい)の古語的表現)している。如意輪観音(如意宝珠という玉で人びとの願いをかなえる観音)と寺には伝わるが弥勒菩薩(お釈迦様の教えを受けなかったすべての人びとを救う菩薩)と考えられる。南朝様式に近い。

8.上記の4像のうち法隆寺金堂釈迦三尊像のみ北魏(北朝様式、他の3像は南梁(南朝)様式。

9.その他代表絵画に法隆寺玉虫厨子須弥座絵。小型の仏像を安置する箱型の仏具が厨子。もとは小さな阿弥陀三尊像をを収納し、金堂の中に安置されていたといわれる。数千枚の玉虫の羽を敷き詰めてある。須弥座絵は黒漆の上に朱や緑青を油に溶かした絵の具で、仏教説話を題材に描いている。忍冬(すいかずら)のような蔓草(つるくさ)を図案化した忍冬唐草文様が用いられている。

▼玉虫厨子;装飾に玉虫の羽が使われている。

10r.飛鳥寺蘇我馬子が建立した日本最初の寺である。

11.広隆寺秦河勝(はたのかわかつ)が建立した同氏の氏寺である。

12.飛鳥文化の国際性を示すものとして、法隆寺金堂のエンタシスの柱、法隆寺玉虫厨子の須弥座絵(しゅみざえ)に描かれた忍冬唐草文様(にんどうからくさもんよう)や、法隆寺伝来の獅子狩文様錦(ししかりもんようきん)がある。

 

2014明大・農(食料環境政策)

問6 下線部(ウ)飛鳥に関連して、飛烏文化と最も関連が深い事項を下記から一つ選べ。

 A 薬師寺東塔  B 法隆寺阿弥陀三尊像
 C 興福寺仏頭  D 高松塚古墳壁画
 E 獅子狩文様錦

(答:E ※A・C・Dは白鳳、Bは鎌倉、釈迦三尊像と混同しないように)

2013青山学院・文教育経済法経営

問4.下線部 b.7世紀前半に唐に使節を送ったときに関して、この時期の作品として誤っているものを、次の①~④の中から一つ選んでマークしなさい。

 ①法隆寺金堂壁画 ②中宮寺天寿国繍帳 ③広隆寺半跏思惟像 ④法隆寺玉虫厨子

(答:①、※①は白鳳)

2012明大・商

法隆寺は、607年に大和の斑鳩に聖徳太子(厩戸皇子)が創建した寺院である。創建当時の伽藍は670年に焼失したが、現在の伽藍はそれからほどなくして再建されたものと考えられている。創建当時のものではないとしても、7世紀の木造建築の現存例は世界でも珍しく、金堂・五重塔・中門・回廊は飛鳥時代の様式を伝え、我が国における仏教の普及を考えるうえでも貴重な建築である。

また建築以外でも仏像では、聖徳太子の死後、623年に鞍作鳥が制作したとされる北魏様式の金堂A【①薬師如来像 ②釈迦三尊像 ③四天王像 ④救世観音像 ⑤百済観音像】などが有名である。このほか法隆寺に隣接する尼寺である[ あ ]には、国宝の半跏思惟像や天寿国繍帳が所蔵されている。

(答:A②、あ.中宮寺)

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説話集

2016-10-16 | 『新世界史頻出年代暗記』

平初霊異記末はコン、鎌倉発し宇治ここじゃ。

〈2015静岡大・国語・前期:「
問 この作品(枕草子)と異なるジャンルの作品を一つ選べ。

 ア方丈記 イ花月草子 ウ十訓抄
 エ折りたく柴の木 オ徒然草」


(答:ウ ※これのみ説話集で他は随筆)〉

〈2012早大・文化構想:「10世紀になると正史がなくなるが、代わって日記が現れてくる。藤原実資は長年にわたって小右記と呼ばれる日記を書き続け、摂関期の重要な史料になっている。また、院政期になると、今様を集めた。『梁塵秘抄』や、説話集であるf『今昔物語集』がつくられた。

問題8 下線部f『今昔物語集』に取材した芥川龍之介著「羅生門」を素材の一つとして同名の映画を製作し、国際的に高く評価された映画監督は誰か。漢字で記入しなさい。」


(答:黒澤明)〉


1643(寛永20)年 〈田畑永代売買の禁令〉★

2016-10-16 | 『新日本史頻出年代暗記』

●江戸時代(後光明天皇 徳川家光)

An ordinance prohibiting the sale and purchase of farmland is issued by the Tokugawa shogunate.
人無視されて ばい菌と。
1643年     田畑永代売買の禁令 


3代将軍家光の1643年、江戸幕府は前年に最大規模化した寛永の大飢饉を契機に本格的に農政に進出。

富農への土地集中と租税負担者である本百姓維持のため、田畑の永代売買を禁止。

農民が土地を質入れすることで禁令の意味は崩れたが、明治政府が地租改正の準備として田畑の売買を解禁する1872年まで存続した。

 頻出史料  「身体成らざる者は田畠を沽却せしめ、猶々身上成るべからざるの間、向後田畠売買停止たるべき事」


1.江戸幕府農民統制の主な法規に、田畑永代売買の禁令1643年)、田畑勝手作の禁令分地制限令がある。

[解説]

1.幕府は百姓の小経営をできるだけ安定させ、一方で貨幣経済にまき込まれないようにし、年貢・諸役の徴収を確実にしようとした。このため、1643(寛永20)田畑永代売買の禁令1673(延宝元)には分割相続による田畑の細分化を防ぐために分地制限令を出し、商品作物を自由に栽培することを禁じたりした(田畑勝手作りの禁、1615、1643年)。

 

〈2016早大・人間科学

問1 下線部a17世紀代に発令されたI~Ⅲを時期の古い順で並べたとき、正しい組み合わせはどれか、1つ選べ。

 Ⅰ 田畑永代売買の禁令
 Ⅱ 分地制限令
 Ⅲ 諸宗寺院法度


 アI→Ⅱ→Ⅲ
 イⅠ→Ⅲ→Ⅱ
 ウⅡ→Ⅰ→Ⅲ

 エⅡ→Ⅲ→I
 オⅢ→Ⅰ→Ⅱ
 カⅢ→Ⅱ→Ⅰ


(答:イ ※Ⅰは1643年、Ⅱは1673年、Ⅲは1665年)〉

 

〈2015関西学院大・神社済教

 

 暮らし向きのいい百姓たちは田地を買い取り、いよいよ暮らし向きがよくなり、暮らし向きのよくない百姓は田畑を売ってしまい、余計に暮らし向きが悪くなる。だから以後の田畑売買を禁止するのだ。[ g ]はこのように述べている。

問6.空欄gに該当する語句を下記より選びなさい.


 ア.公事方御定書
 イ.田畑永代売買の禁令

 ウ.分地制限令
 エ.田畑勝手作りの禁


(答:イ)〉



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