●江戸時代(霊元天皇 徳川家綱)
Shoshu-jiin and Shoshanegihatto were enacted.
一路露骨な 諸宗諸社。
1665年 家綱 諸宗寺院法度 諸社禰宜神主法度
江戸時代になると、幕府は、信仰を禁じられたキリスト教や不受不施派の徹底した弾圧を目的として、民衆を檀那寺である寺院に檀家として所属させ、その証明として寺請証文を発行させる制度を整えていった(寺請制度)。また幕府は、寺院や僧侶、神社や神職に対する統制も強め、将軍家綱の代になると、諸宗寺院法度を出して宗派ごとに本山・末寺の地位を保障して末寺を組織させ、その統制力のいっそうの強化をはかった。また諸社禰宜神主法度を制定して統制を加え、公家の吉田家を本所として統轄させた。
[ポイント]
1.幕府は寺檀制度をもうけ、さらに1665年には諸宗寺院法度を出し本末制度をつくった。
[解説]
1.幕府の禁じたキリスト教や日蓮宗不受不施派(ふじゅふせは)を信仰させないために、武士も神職もだれもが檀那寺の檀家になって(寺檀制度)、寺請証明を受けた(寺請制度の方が通りがよい)。
2.不受不施派は日奥(1565~1630)を祖とする日蓮宗の一派で、法華を信じないものの施しを受けず、また施しをせずとする、幕府権力よりも宗教が優越するという信仰を持っていた。
3.1601~16年に旧仏教系の各宗大寺院ごとに統制令を出していた(金地院崇伝起草。これを総称して諸宗諸本山法度あるいは寺院法度という)。家綱代の1665(寛文5)年には各宗派共通の統制法規として諸宗寺院法度を出した。宗派ごとに本山・本寺の地位を保障して末寺を組織させた(本末制度)もの。
4.皇子や宮家・摂家(せつけ)の子弟が入寺する寺を門跡寺院と言うが、この門跡寺院の多くが仏教諸宗の本山でもあったので、門跡を朝廷の一員とみなして統制した。
5.新たに17世紀半ばに、明僧隠元隆琦(いんげんりゆうき)が禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう)を伝えた。
〈2016早大・人間科学:「
問1 下線部a17世紀代に発令されたI~Ⅲを時期の古い順で並べたとき、正しい組み合わせはどれか、1つ選べ。
Ⅰ田畑永代売買の禁令
Ⅱ分地制限令
Ⅲ諸宗寺院法度
アI→Ⅱ→Ⅲ イⅠ→Ⅲ→Ⅱ
ウⅡ→Ⅰ→Ⅲ エⅡ→Ⅲ→I
オⅢ→Ⅰ→Ⅱ カⅢ→Ⅱ→Ⅰ
(答:イ ※Ⅰは1643年、Ⅱは1673年、Ⅲは1665年)〉
〈2013慶大・法
江戸時代になると、幕府は、信仰を禁じられたキリスト教や[ 1 ]の徹底した弾圧を目的として、民衆を檀那寺である寺院に檀家として所属させ、その証明として寺請証文を発行させる制度を整えていった。(中略)また幕府は、寺院や僧侶、神社や神職に対する統制も強め、将軍[ 2 ]の代になると、諸宗寺院法度や諸社禰宜神主法度を出して、その統制力のいっそうの強化をはかった。」
(答:1不受布施派(ふじゆふせは)、2家綱 ※原問には78語の選択肢あり)〉
〈2013早大・国際教養:「
問9 下線部hの人物金地院崇伝に関して、この人物が制定に関連していない法令はどれか。1つ選んで、マーク解答欄紙の該当記号を選べ。
ア 武家諸法度
イ 分地制限令
ウ 禁中並公家諸法度
エ 諸宗諸本山法度
オ キリスト教禁教令
(答:イ×1673年発令、※金地院崇伝(1569~1633)、ア・ウは1615年、エは1601~16年で成立)
〈2013立命館・文法済営などA方式
問h 下線部8宗旨証文ヲ集テ、人別帳ヲ編立ル事ニ成に関連して、江戸時代の寺請制度について説明した文章として、適当でないものを下から一つ選べ。
あ.「宗旨人別帳」は当初幕領で作成され、のちに諸藩でも作成された。
い 婚姻・奉公・旅行の際には、身元証明書となる寺請証文が檀那寺から発行された。
う これによって、仏教以外の宗教がすべて禁圧されることになった。
え 人々は強制的にいずれかの寺院の檀家となり、檀那寺と檀家の関係は固定されることとなった。
(答:う)〉
〈2012京都府立大学前期
問 不受不施派について説明せよ。」
(解答例:日奥を祖とする日蓮宗の一派。法華経を信じない者からは施しは受けず、施しもしないとする教義。これは幕府権力よりも宗教が優越するという信仰であったため、幕府はこれを異端とみなして弾圧した。(94字))
[ポイント]
1.幕府は、1665年、諸社禰宜神主法度を制定し、吉田家に統轄させた。
[解説]
1.江戸幕府は、仏教以外の神道・修験道・陰陽道(おんみょうどう)なども仏教に準じて容認した。寺壇制度(寺請制度)により、武士も神職も含めだれもが檀那寺の檀家になって、寺請証明を受けねばならなかった。
2.神社・神職に対しては、将軍家綱代の1665(寛文5)年、(諸宗寺院法度と同時に)諸社禰宜神主法度を制定して統制を加え、公家の吉田家を本所として統轄させた。
〈2016早大・商
問E 江戸時代の下線部ホ吉田神道と吉田家に関する説明で、正しいものはどれか。
1.吉田神道は両部神道として大成された。
2.諸社禰宜神主法度は、吉田家による神職の組織化を促進した。
3.吉田神道は本地垂迹説を唱えた。
4.吉田家を神職の本所と定めた諸社禰宜神主法度は、朝廷から発布された。
5.吉田神道は仏教や儒教とは習合しなかった。」
(答:2 ※1×両部神道→唯一神道、3×反本地垂迹説、4江戸幕府)〉
〈2015関西大・文商法など
既存の宗教勢力に対しては寛文5年(1665)、諸宗寺院法度や諸社禰宜神主法度などの法令を出すなどして統制を強めた。仏教寺院に対しては、本山と末寺を分離して、前者に後者を統制させた。神職については、公家の(10){(ア)近衛(イ)九条(ウ)吉田}家を本所として統制させた。さらに、キリシタン禁制を受けて宗門改がおこなわれた。」
(答:ウ)〉
〈2014早大・教育
問6 江戸時代の下線部b神事仏事の説明で正しいものはどれか。
ア 檀那寺の行事ではない宗教行事に参加する者はいなかった。
イ 幕末に登場した民衆宗教は、おもに仏教系の宗教活動であった。
ウ 天皇や将軍の宗教活動は、もっぱら神社信仰であった。
エ 修験者・陰陽師の祈躊や占いは人びとの頼りにされた。
オ 神職は寺請けの宗門改を免除された。」
(答:エ〇仏教では満たされなかったものを満たした ※イ×神道系、ウ×仏教信仰も盛ん、オ×神職も例外ではない)〉〉
[ポイント]
1.家綱代の幕府は、末期養子の禁を緩和、殉死(じゅんし)を禁止、諸社禰宜神主法度と諸宗寺院法度を出し、寛文印知(かんぶんいんち)を行い、明暦の大火があった。
[解説]
1.1651(慶安4)年に3代将軍徳川家光が死去し、子の徳川家綱(位1651~80)が11歳で4代将軍になった。すでに幕府機構は整備され、会津藩主で叔父の保科正之(ほしなまさゆき)(後半は大老酒井忠清)をはじめ譜代大名も補佐し、社会秩序が安定しつつあった。
2.平和が続く中で重要な政治課題となったのは、大名改易により数多く発生し戦乱を待望する牢人や、秩序におさまらない「かぶき者」の対策であった。1651年に兵学者由井(比)正雪の乱(慶安の変)がおこると、幕府は大名の末期養子の禁止を緩和し、牢人の増加を防いだ。すなわち跡継ぎのいない大名が死にのぞんで(末期)、急に相続人(養子)を願い出る末期養子は、ほとんど認められていなかった(末期養子の禁止)が、この時から、50歳未満の大名に認められた。一方、江戸に住む牢人とともにかぶき者の取締りを強化した。
3.1663(寛文3)年、成人した家綱は代がわりの武家諸法度を発布し、あわせて殉死の禁止を命じ、主人の死後は殉死することなく、跡継ぎの新しい主人に奉公することを義務づけた。将軍と大名、大名と家臣の関係において、主人の家は代々主人であり続け、従者は主人個人ではなく主家に奉公する主従の関係を明示した。この結果、下剋上はあり得なくなった。
4.翌年には、すべての大名に対しいっせいに、主君がその領地を認める文書である領知宛行状(りょうちあてがいじょう)を発給して将軍の権威を確認(寛文引知)し、また幕領のいっせい検地をおこなって幕府の財政収入の安定もはかった。
5.1665(寛文5)年、諸宗寺院法度や諸社禰宜神主法度などの法令を出すなどして統制を強めた。
6.家綱の代、1657年、江戸明暦の大火がおきている。
〈2016同志社大・全学部
3代将軍家光の死後は、松平信綱らが中心となって4代将軍家綱を支えた。1651年の由井正雪の乱や、1657年の( ウ )の大火を乗り越えて、冪政の安定がはかられた。
【設問ウ】空欄( ウ )には、振袖火事とも呼ばれるこの大火の起こった年号が入る。これにあてはまるものを次のうちから1つ選べ。
1.明徳 2.明暦 3.明応 4.明和
(答:ウ.2)
〈2016早大・国際教養
問9 下線部f親藩・譜代大名に関する説明として、誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア 水戸藩主の徳川光圀は、彰考館で『大日本史』を編纂させた。
イ 譜代大名は三河時代以来の徳川家の家臣であった。
ウ 徳川家康の子であった義直は名古屋城を居城とした。
エ 会津藩主の保科正之は、陽明学に基づく藩政によって名君と呼ばれた。
オ 下馬将軍と呼ばれた酒井忠清は、将軍家綱のもとで権勢を振るった。」
(答:エ保科正之は朱子学を藩学として奨励)〉
〈2014立大・文
4代将軍家綱が将軍在位中に幕府が行ったことはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.正徳小判などの貨幣を発行した
b、生類憐れみの令を発した
c.足高の制を設けた
d.末期養子の禁止を緩和し、牢人の増加を防いだ」
(答:d ※a×6代家宣7代家継のときの新井白石による正徳の治で、b×5代綱吉の発令、c×8代吉宗の享保の改革時の政策)〉
〈2016早大・文
こうした石高制による支配方式は江戸幕府に引き継がれた。将軍は大名に1万石以上の知行を与え、軍役を負担させた。また、b.領地を没収したり、減俸や国替えを行って、大名を統制した。c.寛文年間になると、将軍はすべての大名に一斉に知行を与える文書を発給し、将軍家と大名家という家の関係を強調した。幕府は江戸時代を通じて4回、大名から国単位に国絵図・[ C ]を提出させた。このように石高制は全国的に施行されたが、d異国・異域と境を接する地域には領地の石高表示がない「無高」大名がいた。
問4 下線bの処分を何というか。あてはまる語句を漢字2字で記述しなさい。
問5 下線c.の時代に実施された政策として正しいものを1つ選べ。
ア 朝鮮より回答兼刷還使が派遣されるようになった。
イ 金銀貨幣を改鋳し、品質を落として差益を幕府の収入とした。
ウ 島原・天草一揆を鎮圧し、キリスト教の信仰を弾圧した。
エ 殉死を禁じ、跡を継いだ新しい主君に引き続き奉公させた。
オ 幕府は歌学方を設置し、北村季吟を登用した。
問6 空欄Cにあてはまる語句を漢字2字で記述しなさい。
問7 下線dに関する説明として正しいものを1つ選べ。
ア 松前氏は箱館に来航する山丹人と交易を行った。
イ 対馬藩は朝鮮に渡航し、倭館で貿易を行った。
ウ 平戸藩の松浦氏は隔年交代で長崎警備を行った。
エ 鍋島氏の所領である長崎に唐人屋敷が設けられた。
オ 薩摩藩は琉球を通じて東南アジアと貿易を行った。」
(答:問4改易、問5エ、問6郷帳、問7イ ※寛文年間の将軍は家綱)〉
〈2015立命館大・全学部
下線部2)保科正之に関連して、保科正之は4代将軍徳川家綱を補佐して儒教的理想を政治に反映させようとしたことで有名である。とりわけ、寛文武家諸法度発布に際して、ある事柄が禁止されたことには保科の強い勧めがあったといわれている。禁止された事柄は何か。漢字2文字で答えよ。」
(答:殉死(追腹))〉
〈2013明大・文
江戸幕府の支配の体制は3代将軍家光の時に確立した。家光を継いだ子の家綱は1651年(慶安4)4月に11才で将軍になったので、幼少な家網は叔父にあたる[ a ]・老中の松平信綱らの家門や譜代大名によって支えられた。戦乱の気風が鎮まり、平和が続くなかで政治課題となったのは、牢人や社会秩序を乱す無頼の(ア)「かぶき者」への対策であった。同年7月慶安事件がおこると、幕府は(イ)末期養子の禁止を緩和し、大名の改易を減らし、牢人の増加を防ぐ一方、「かぶき者」の取り締まりをいちだんと強化した。成人した家綱は、1663年(寛文3)5月武家諸法度を発布し、新たに[ b ]の禁止を命じている。家綱が将軍であった時期の幕政は、武断政治から文治政治への転換期とじて捉えられている。
問1 空欄aは会津藩主でもある。空欄aに入る人名として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1前田網紀 2池田光政 3保科正之 4堀田正俊
問2 下線部(ア)「かぶき者」には旗本奴と町奴がいる。のちに芝居の主役にもなった町奴の頭領の人名として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1丸橋忠弥 2奈良屋茂左衛門
3幡随院長兵衛 4戸次(別木)庄左衛門
問3 下線部(イ)末期養子の同じ意味内容の語として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1嫡子単独相続 2長子単独相続 3別家 4急養子
問4 空欄bに入るべき語として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1殉死 2私の婚姻 3居城修補 4群飲佚遊」
(答:問1→3、問2→3、問3→4、問4→1)