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『吉田君の朝』 

2014-04-24 | 大魔人ノベルズ

 1

 「買えへんねやったら帰ってや」
 これがまこと屋のオバハンの、心暖まるいつもの挨拶だ。
 小学生とはいえ、ひとを客とも思わぬ、このぞんざいな対応が俺たちのファイティング・スピリットに火をつける。
 「う、う…、うっといのぉ、あ、あのオバハン!」

 憎たらしそうに吉田が言う。

 「ほ、ほ…、ほんまやのう」俺は相槌を打つ。
 「ま、ま…、真似すんなよ」
 吉田は吃りを気にしているのだ。

 チェリオを飲んだあと、俺たちが何も買わないことを知ってるオバハンは、さっさと奥へ引っ込んで炊事をしてやがる。

 「ここで誰が一番根性あるか決めようぜ」
 木村はいつも急にわけのわからんことを言い出す。

農作業をしているおっちゃんたちに向かって、 「釣れますか~」と声を掛けるような奴だ。
 「ど、ど…、どないすんねん」
 吉田はあほやからすぐに乗る。
 
 木村が発案した根性試しの方法はこうだ。

オバハンは玄関口を改造して駄菓子屋を営んでいるが、奥の炊事場の手前は居間になっていて、そこに飲み過ぎで肝臓いわして死んだ旦那の位牌が備えてある。

そこにはお経をあげるときにチーンて鳴らす鐘と棒がおいてあり、オバハンの目を盗んで、それを一人づつ鳴らすというのだ。

 まず木村が手本を見せることになり、靴を履いたまま畳の上を膝で這って行き、鐘を一つチーンと鳴らした。

 「あほなことしな、あんたら。ばち当たるで」
 意外やオバハンに動じた気配はなく、炊事場から顔ものぞかせずにそう怒鳴っただけだった。
 次なる俺は同じく膝擦りに進んで行くと、仏壇の鐘でチンチキチンの~チンチン、というリズムを刻んでやった。
 「ええかげんにしいや、あんたら」
 炊事場からその巨体を表したオバハンは、前掛けで手を拭きながら、こっちに向かってのしのしと歩いてきた。
 「オッとお!」俺は慌てて玄関口に飛び降りた。居間の畳を蹴ったときについた土足の足跡がオバハンを烈火の如く激怒させた。
 「どないしてくれんのぉ、こんな泥だらけにして!おばちゃんは忙しいねんからなぁ」
 まこと屋の女主人は激しい怒りを露に咆哮し、プリプリ怒りながら炊事場の方へ戻った。
 俺たちはおかしさを堪えようともせず、飴や煎餅に囲まれた玄関口で下卑た笑いを存分にぶちまけた。
 
 盛り上がりを見せ始めたこのイベントを更にエキサイティングなものにするため、俺は吉田をけしかけた。
 「やっぱりここは吉田先生に行ってもらわなあかんな」
 「なんせ吉田が一番根性あるもんなぁ」
 木村も調子を合わせる。
 「そ、そ…、そうかなぁ」
 アホやからすぐ調子に乗る。
 「吉田二等兵、突撃致します!」
 この男、どうゆうわけか調子に乗ってるときには吃るのを忘れるのである。
 匍匐前進で一気に位牌の前に進み出た吉田君、突然鐘を連打し始めた!
 チチンチンチンチンチキチチンチンチンチーン!

 「この餓鬼ャー!」オバハンは血相を変えてすっ飛んで来た。
 吉田はにやにやした笑いを浮かべて悠々とこっちへ逃げてくる。
 その刹那、俺と木村は居間と玄関口を隔てるガラス戸を両側から閉じてやった。
 謀議は吉田が「二○三高地奪還!」などとわけのわからんことをつぶやきながら畳の上を這ってる間になされた。
 ガラスの向こうの吉田は、目を大きく見開き、口は「お前ら、何すんねん」という形に力無く動いた。
 俺と木村はゲラゲラ笑いながら、二万回ぐらいしばかれている吉田をガラス戸越しに眺めていた。

 2

 翌日、職員室のドアの隙間から、うなだれた吉田の姿が見えた。
 半泣きを超えた、七分泣きの状態で吉田が、
 「き、き…、木村君らがぁ…、」と言いかけると、すぐに手を上げることで有名な生活指導の佐々木に、
 「言い訳すんなぁ!」と平手打ちを食らっていた。

 もう二度とあのようないたずらはしません、という内容の反省文を書かされて職員室を出て来た吉田をつかまえて、
 「昨日は悪かったなぁ、悪気があったわけやないんや」と詫びる俺たちに対して、
 「も、も…、もうお前らとは、ぜ、絶対に遊ばへん!」と最初は取り付く島もなかった吉田君ではあったが、吉田先生の自転車テクニックを抜きにしてまこと屋襲撃第二作戦は語り得ないという、わけのわからない木村の説得に気を良くした単純な吉田を連れて、俺たちは再度まこと屋へと向かった。

 3

 計画の打ち合わせをしながら自転車を押して校門を出ると、吉田の家来の黒い犬がいつものように待っていて、俺たちのあとをついてきた。

 吉田君は元々犬が嫌いだった。今でも好きというわけでもないのだろうが、以前は病的なほどに犬を恐れていた。ある日学校の帰り、歯磨き粉のことを頑として歯ブラシ粉だと言い張っていた吉田が急に無口になって立ち止まったと思ったら、前方に黒い犬がいた。
「犬なんか何が怖いねん」と言って俺がそいつを蹴散らそうとすると、吉田は
「や、やめてくれ。し返しされる」と俺の腕に取りすがって俺をとどめた。

 ある日、木村がそんな吉田に対して、
「笑顔で接すると犬は怒らんらしいぞ」と、嘘を教えるもんだから、その日以来吉田は犬に出くわすたび満面に笑みをたたえて、いささかも悪意のないことを示し始めた。
「手を振りながら笑顔を向けると更に効果あるらしいぞ」という俺の言葉も真に受け、吉田は早速次の日から実行し始めた。道すがら黒犬に逢う度、そいつに向かって陽気に手を振り始めた。
「でも夜になったら笑顔やしぐさが見えへんから、それが問題やなぁ」木村はともすれば笑いそうになるのを必死でこらえ、沈痛な表情を装ってそう言った。
 その結果、夜には『オタマジャクシは蛙の子』のメロディーに合わせて「犬さん、私は悪くない~」と、陽気な声で歌おうということに決まった。

 犬が怖いばっかりに何でもする吉田に、俺たちは様々なアドバイスを与えた。曰く、片足でぴょんぴょん跳びながら手を振るのが良いとか、首を反らしての笑顔が効果的だとか、シャンプーハットをかぶってやれば、とか、しまいには校長のハゲ頭を後ろから張りとばした後になどと言うもんだから、さすがの吉田君も俺たちがおちょくってることに気づき、
「お、お…、お前ら、それ嘘やろ!」と憤慨し始めた。

 しかしながら、こういった努力の甲斐があったのか、黒犬は吉田君を見ても吠えなくなった。そして更に意外なことに、吉田君は黒犬に好かれてしまったのである。
 犬は尻尾を振りながら吉田のあとについてくるようになった。吉田君は毛虫が背中を這うような悪寒に苦しみながらも、それでもやはりにこにこと黒い犬を連れて歩いた。吉田は、いつも自分をバカにする木村を従えているような、そんな歪んだ優越感に浸るため、黒犬を「キムラ」と名づけたのだった。

 キムラはワォ~ンと一声吠えると、まこと屋への道を先導するかのように駆け始めた。

 4

 当時、俺たちは自転車の前輪を跳ね上げ、後輪だけで走る、ウイリーというテクニックを競っていた。今度の襲撃はウイリーで前輪を持ち上げたまま、まこと屋の玄関口に突っ込み、居間への上がり段に前輪をボンと下ろす、というものだった。
 突破口を切り開くのはやはり木村だ。シャーッという軽やかな車輪の音を響かせてまこと屋に突っ込んだ木村は、玄関口手前でキッと品のいいブレーキ音をたててママチャリの前輪を軽々と持ち上げると、そつなく上がり口の段のところに乗せた。
 その時の、ボンっという音を聞きつけたオバハンは、
「またあんたらか!汚れるゆうてるやろ」と今日は竹箒を手にもって現れた。
 木村は冷静に再度前輪を持ち上げると、玄関口の両横にあった煎餅のビンやなんかをひっくり返しながら無謀なターンを成功させた。
 何さらすんじゃと叫んで振り下ろしたオバハンの竹箒はむなしく空を切った。
 落ち着き払って一撃をかわした木村はまこと屋の外に出て余裕のVサインを決めた。
 犬のキムラも大はしゃぎで走り回った。
 次に続いた俺はウイリーで玄関口に前輪を乗せ、そのままペダルを踏んで後輪をも持ち上げるという離れ技をやってのけた。そのために押し出された前輪によって畳の上には一本の轍が描かれた。
「何考えてんのや、この子は!頭おかしいんちゃうか」怒り狂ったオバハンは竹箒をぐるぐる振り回しながら猛ダッシュで追いかけてきた。間一髪、前輪を持ち上げた俺は、畳の上でターンを切り、一気に玄関に駆け戻ったものだから、畳に描かれた泥の轍は二本になった。
 それを見たオバハンの激怒はその頂点を極めた。
「うりゃ!」自転車に追いつけないことを悟ったオバハンは、俺の背中をめがけ、手に持っていた竹の箒を投げつけた。わずかに左に逸れた箒は玄関脇にあった売り物のスルメイカを入れた瓶を粉々に砕いた。
「恐ろしいオバハンやの~」あわやというところで走り抜けたまこと屋の店先で俺はようやく人心地をつくことができた。

「吉田はもう行く根性ないやろ」ママさん自転車に跨ったままの木村は、両肘をハンドルに乗せた姿勢で最後に控えた吉田をあからさまに挑発した。
「せやせや、吉田は昨日のあれで、もうびびってんもんな」俺も追い討ちをかける。
「あ、あほ言え!お、俺を誰や思てんねん」というが早いか、吉田先生はいきなり新聞配達用のでっかい自転車に跳び乗った。
 そして、「吉田一等兵、突撃します!」と叫んだかと思うと、そのまま一直線にまこと屋の店内へと突っ込んで行ったのだ。犬のキムラもすかさず主の後を追って飛び出した。
 俺も木村も「お前二等兵やったんちゃうんか」などと野暮な突っ込みはしなかった。海の男に言葉は要らない。

 見せの中からは「おりゃあ!」という雄叫びが聞こえた。吉田は勢いをつけて26インチのばかでかい前輪を持ち上げ、それを玄関口の段に乗せたかと思うと、すかさず俺がやったようにそのままペダルを回して後輪をも持ち上げた。
「まだまだ!」わけのわからんセリフを叫んだかと思う間もなく、吉田はそのまま仏壇のある居間をも突き抜けて奥の炊事場まで突っ込んで行ったのだ。キムラもワォ~ンという吠え声を残して台所の奥へと主を追って姿を消した。
「おお!あいつ、自転車で炊事場に突っ込んで行きよった」普段冷静沈着な木村もさすがにこれには驚いたようだった。
「やっぱりほんまもんのアホや!」俺も正直ぶったまげた。
 続くガッシャーン!という数十枚の食器が割れる大音響とともに、トラトラトラという寄声を発しながら、こっちへ逃げて来る吉田の姿が見えた。自転車を両手で抱え、嬉しそうに走って来る姿が。
 キムラがその横を走り抜けようとしたその刹那、俺と木村は再び吉田の退路を断ち切った。玄関口と居間を仕切るあのガラス戸によって。
 新聞配達用の26インチを抱えたままの吉田のガッツポーズは瞬時に凍りつき、その下卑たニヤニヤ笑いは驚愕の引きつりへと変わった。
 ガラス戸に張りついた彼の目は既に涙目になりつつも「お前ら、またか…」という悲痛な叫びを映していた。
 黒い犬は主の窮状を察したかのように、クゥ~ンと一声、弱々しく鳴いた。

 ガラス戸のむこうでは、「もう承知せん!」と言いながら竹箒でしたたか打ち据えるオバハンに対して、泣きながら「もうしません」を8万回繰り返す吉田君がいた。犬のキムラはなす術もなく、二人の周りを走り回っていた。

 次の日、校長室には、呼び出された酒飲みの親父の後ろ姿とともに、角刈りの具合が電気店を営むその父親と妙によく似た吉田君の姿もあった。校長先生の一言一言すべてにうなずく彼の背中は、わけのわからない中東の戦争に起因する石油不足によって急激に明るさを失ったその年の街並みのように物悲しかった。

 5

 楠銀座商店街の端にあった吉田電気店のシャッターを押し上げ、飲んだくれの親父が店内に明かりを点すと、吉田君とキムラもうなだれたままシャッターをくぐった。
 たっぷり1時間に及んだ校長の説教には、「みなさん、この夏休み、くれぐれも怪我のないように」という挨拶に対して、「毛がないのはあんたやろ!」という素晴らしい切り返しによって、夏休みに入る前の朝礼を爆笑の渦に巻き込み、台無しにした吉田くんへの個人的怨恨も加わっていたのかもしれなかった。学校からの帰路、黒い犬は親父の後をずっと遅れてとぼとぼ歩く吉田君につき従った。飲んだくれの親父は、数日前から店の裏の電柱につないで仕方なく飼っていたキムラの存在を、この日初めて知った。
「なっ、なんやそれ」親父も吃るのだ。家に帰るなり一升瓶をつかんだ親父は、修理依頼の洗濯機の横におとなしく座った黒い犬を見て詰問した。
「い、犬です」吉田君はなぜだか父親に対していつも敬語を使っていた。
「んなもん、見たらわかるがな」日本酒のしずくを右手でぬぐいながら、親父はしゃっくりまじりで息子にからんだ。
「そんなもん、ほかしてこい!」酒の入った親父はすぐに荒れた。
 結局、親父は呂律の回らない舌で保健所に電話し、要領を得ないやり取りをしばらく続けたあと、キムラは1週間後に引き取られることに決まった。すなわち、吉田君は6日間だけ、その黒い犬を飼ってもいいという許可を得たのだった。

 6

 晴れて吉田家の一員となったキムラは、早速吉田君の運動靴を無惨にも噛み破り、Tシャツを泥まみれにして洗濯物を引きずり下ろした。
「や、やめてくれよぉ、キムラ~」吉田君は悲しい目をして溜め息をついた。キムラはそんな吉田君にじゃれついた。酒飲みの夫に愛想を尽かして2年前に出て行った母親に代わって洗濯をしていた親父は激怒し、
「このあほ犬がぁ!」と喚いて茶碗を投げ付けた。

 家にいるとろくなことにはならないと考えた吉田君は、キムラを散歩に連れて行くことにした。
 胴だけ長くて手足の短いキムラを、近所の子供たちはヘンテコな犬だと指をさして笑った。吉田君は他人の振りをしようと離れて歩くのだが、キムラはその短い手足で嬉しそうについてくる。ついて歩くだけならまだよいのだが、キムラは行き逢う犬、出会う犬、片っ端から喧嘩して歩いた。小さな体でありながら、喧嘩は相当強いようだった。
 三角公園の大きな雑種と戦ったときには流石に危うく見えたが、それでもすばやく立ち回り、形成を逆転させ、最後にはまだらになったそののど笛に噛み付いていた。

 しかし、キムラが仕出かす喧嘩は吉田君にとっては大いに迷惑であった。ただでさえ犬が怖いのに、往来で凄惨に吠えあい、組み打ちをされると、吉田君はどうしてよいかわからず狼狽した。一度などは犬同士がもつれ合ってる最中に自転車に乗って家へ逃げ帰ったことさえあった。

 三日目の夜、傷だらけになって帰ってきたキムラに向かって吉田君は

「け、喧嘩をしてはいけないよ。す、するんなら僕からずっと離れたところでしておくれ」と言い聞かせた。

「ぼ、僕はお前が好きではないんだからね」と、いくら相手が犬だとはいえ、ひどい言葉も付け加えた。

 更に「そ、それにお前は、あと三日で保健所に連れて行かれて、殺されるんだからね」と残酷なセリフをつぶやいた。

 主人が自分のことを好いていないことがわかるのか、そう言われるとキムラは少ししょげて、クゥ~ンと悲しそうに啼いた。


 その日からキムラは喧嘩をしなくなった。


 六日目の朝、キムラはまるで運命を察しているかのように、下校する吉田君におとなしくついてきた。

 この頃には、主の帰る時間をおおよそ覚えていたキムラは、学校が終わる頃には正門の前までやってきて、吉田君と一緒に帰るようになっていた。

 帰り道、商店街の手前にある寂れた空き地にさしかかったとき、恐ろしく大きな野良犬がキムラを見て獰猛に吠えたてた。キムラは吉田君に言われたように、咆哮を無視してその灰色の毛をした野良犬の前を通り過ぎようとした。

 震える吉田君を庇うように、キムラが前を通過したその直後、卑怯にも野良犬はキムラの後ろから襲い掛かり、真っ黒なその首に噛み付いた。キムラはとっさに向き直ったが、灰色の大きな体に組み伏せられてしまい、散々に噛み付かれて血を流した。

 体中を噛みちぎられて地面に押し付けられたキムラは、ちょっと躊躇し、あえぎながら吉田君の顔をそっと窺った。


 吉田君は、無抵抗で噛まれるままのキムラを見て、上級生にいじめられた記憶が蘇ってきた。恐怖で体が震え、抵抗することも出来ず、殴られ、お金を取られた4年生の日々が。


 「やれ!やってしまえ、キムラ!思う存分やれ!」吉田君は大声で叫ぶが速いか、気がついたときには自らもその灰色の野良犬に飛びかかっていた。

 許しを得たキムラはぶるんと一つ大きな胴震いをして野良犬の前脚を払いのけると、態勢を立て直し、弾丸の如く灰色の懐に跳び込んだ。

 二匹と一人はたちまち一つのかたまりとなって格闘した。吉田君が野良犬を羽交い絞めにし、キムラが噛み付いた。

 学校に残っていた俺と木村が通りかかったのはその時だった。
 「おい、あれ吉田ちゃうんか」正面を指差して木村が言った。

 「ほんまや、犬にヘッドロックしてんぞ」俺にもその姿が見えた。

 俺たちは歩みを速くして二匹と一人、いや、三匹に近づいた。

 灰色の犬はキムラの倍ほども大きな図体をしていたが、ほどなくきゃんきゃんと悲鳴をあげて敗退していった。

 俺たちが駆け寄った頃には、大きな方の犬はもういなくなっていた。
 吉田は一人で、
 「よ…、吉田二等兵は、吉二等兵は、敵を…、敵を撃沈しましたぁ」と言いながらおいおい泣きじゃくっていた。
 お前、撃沈の意味わかってんのか、と思ったが、俺は敢えて突っ込みはしなかった。横には例の汚らしい黒犬がクゥ~ンと悲しげな泣き声をあげていた。

 7 

 7日目の朝、保健所の車が楠根銀座商店街にキムラを収容しにきた。
 「お前らもキムラを見送りに来い」という吉田の剣幕の強さに、どういうわけか俺も木村も押されてしまい、あほらしいとは思いながらも俺たちは犬のキムラの送別のために早起きする羽目になった。

 俺たちが商店街の角を曲がった頃には、後部の荷台を改造して檻にしてあるトラックが出発しようとするところだった。

 車の後ろの網の向こうには数匹の野犬と一緒にキムラの姿も見えた。5年生の吉田君には連れられていくキムラをどうすることもできなかった。こみ上げる涙を抑えることすらできはしなかった。

 車が走り出した。

 キムラはやはり真っ黒なその鼻がつぶれるほどに網に押し付け、海の底のような悲しい目をして吉田を見、クゥ~ンと一声鳴いた。吉田は、そんなキムラを見ないように顔を背けてしゃがみこんだ。

 保健所の車が角を曲がろうとした瞬間、吉田はいきなりガバっと立ち上がり、大声を張り上げて「フレー!フレー!キムラっ。頑張れ、頑張れ、キムラっ!」と遠ざかる車に向かってエールを送り始めた。

 「おい、やめろ、かっこ悪い」と俺が止めようとすると、
 「うるさい、お前もやれ!」と吃りもせずに俺に命令しやがった。
 「あほう、そんな恥ずかしいことできるかぁ!」それにお前、犬嫌いやったんちがうんか」と食ってかかる俺の袖を木村が黙って引っ張った。
 見ると木村までが、
 「フレっ、フレっ、キムラっ!頑張れ、頑張れ、キムラ!」と犬にエールを送っているのだった。

 俺もやらんわけにはいかんかった。

 保健所の車は冷気の中に排ガスの臭いだけを残してとっくに見えなくなっていた。どこを走っているのかもわからないトラックに向かって、俺たちはエールを送り続けた。いつまでも、いつまでも。

                             
                                 終

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