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マルクス主義の台頭・河上肇

2018-04-30 | Weblog

1916(大正5)年9月 京都大学教授河上肇、『貧乏物語』

退く色肇 貧乏も。

1916年 河上肇 『貧乏物語』


[point]

1.河上肇は、『大阪朝日新聞』に『貧乏物語』を連載した。

[解説]

1.河上肇(1879~1946)は、山口県旧岩国藩士の家に生まれる。日本を代表するマルクス経済学者。東京帝国大学法科に進み、キリスト教の内村鑑三に影響を受け、また足尾鉱毒事件に衝撃を受ける。卒業後、新聞社記者、京都帝大講師、2年のヨーロッパ留学をへて、帰国後京都帝大教授。1916年(大正5年)から大阪朝日新聞に『貧乏物語』を連載し、翌1917年に出版され、ベストセラーとなった。結論は、貧乏をなくすには金持ちが贅沢をやめること、貧富の格差をなくすことだった。大正デモクラシーの中、貧困問題に正面から取り組んだ同書は、青年層に多大な影響を与えた。米騒動(1918年)以降、マルクス主義経済学の研究に傾斜し、やがて大学を辞し、実践活動に入る。ついに日本共産党に入党し、非合法の「地下活動」に入る。しかし検挙され、1933年から37年にかけて獄中生活を送る。収監中に転向声明を出す。出獄後は自叙伝などの執筆活動に入り、戦後世界での再活躍が期待されたが、敗戦後間もなく栄養失調などで死去したのが惜しまれる。

2.なお同名に国際問題評論家・河上清(1873~1949)がいる。山形県出身「万朝報」記者。のち渡米し、「時事新報」「毎日新聞」特派員・国際問題評論家として活躍。経済学者河上肇との混同に注意。
 
2017津田塾大(学芸(英文))

大正から昭和の初期にかけて、(中略)学術研究では、大正デモクラシーの風潮のもと、社会のありかたを問うさまぎまな主張が提出された。『東洋経済新報』の記者で、戦後に首相となる[ 7 ]は、自由主義にもとづいて、植民地の放棄や平和的な経済発展をふくむ小日本主義を唱えた。新聞に連載した『[ 8 ]』が反響をよんだ河上肇は、経済学者の福田徳三との論争をつうじて[ 9 ]主義経済学へと進んだ。[ 9 ]主義は、歴史学や文学などの学問をはじめ知的世界全般に影響をあたえた。哲学では、『善の研究』で知られる[ 10 ]が東洋と西洋の思想的統一を探究し、和辻哲郎は『風土』などで独自の倫理学を展開した。[ 11 ]は『古事記』や『日本書紀』の文献学的批判をつうじて古代史に新境地を開き、農商務省の官僚だった柳田国男は、民間伝承や風習を研究する[ 12 ]学の確立に貢献した。」

(答:7石橋湛山、8貧乏物語、9マルクス、10西田幾多郎

1911年1月 西田幾多郎『禅の研究』

行くいい禅の 西田来た。

1911年 『禅の研究』 西田幾多郎 京都大学

、11津田左右吉、12民俗)〉

2017大学入試センター・日本史A

問1 下線部a経済・社会の仕組みに対する人々の関心が高まるに関して述べた文として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。

 ① 雑誌『戦旗』には、プロレタリア文学の作品が発表された。

 ② 河上肇は、著書『太陽のない街』で貧困問題を取り上げた。
 ③ 経済学者大内兵衛は、戦争遂行に協力するため人民戦線を結成した。
 ④ 戦時中弾圧されたマルクス主義にもとづく研究は、戦後復活しなかった。」

(答:①、※②×河上肇→徳永直

1929(昭和4)年6月 徳永直『太陽のない街(共同印刷争議を素材として書いた作品)』

特に苦しい タイの街。

1929年 徳永直 『太陽のない街』

、③×協力→抵抗、④復活しなかった→復活した)〉

2017関西学院大・全学部

問10.下線部n津田左右吉に関して、正しいものを下記より選びなさい。

 ア.津田左右吉は、代表的著作『郷土研究』において、日本の農村史を描いた。

 イ.津田左右吉は.『古事記』や『日本書紀」の実証的・科学的分析を行なった。
 ウ.津田左右吉は、庶民の歴史を重視した『貧乏物語』を書いた。
 エ.津田左右吉は、儒教や仏教を外来思想として排除すべきとする『国意考』を著した。」

(答:イ〇、※ア×『郷土研究』は柳田国男、ウ×『貧乏物語』は河上肇、エ×『国意考』は賀茂真淵)〉


2017早大・教育

 その後、出版条例は出版法に、新聞紙条例は新聞紙法に、それぞれ代わり、両法は第二次世界大戦後の初期まで存続した。dその間、出版法および新聞紙法にもとづいて、「安寧秩序」を乱し、「風俗」を害すると認定される文章が掲載された出版物は、発禁(発売頒布禁止)や削除などの処分に付されたのである。
問3 下線部dの出版法または新聞紙法によって、1930年代に発禁にされたものを2つ選べ。

 ア 滝川幸辰『刑法読本』

 イ 火野葦平『麦と兵隊』
 ウ 和辻哲郎『風土』
 エ 河上肇『貧乏物語』
 オ 河合栄治郎『ファシズム批判』
 カ 戸坂潤『日本イデオロギー論』」

(答:問3ア・オ)〉


2016立教大・現心コミュ福観光営

5.第二次世界大戦が終わると、米ソ両大国を軸とする2つの陣営の対立が朝鮮半島にも波及した。1948年にソ連の占領地域に朝鮮民主主義人民共和国が、アメリカの占領地城に大韓民国が建国され、朝鮮半島の南北の分断状況がこれ以降つくられた。1950年には武力による南北統一を目指した北朝鮮軍が韓国に侵攻し、朝鮮戦争が開始された。アメリカは日本の戦略的重要性を再認識し、日本を西側陣営に組み入れるために、講和条約の締結を急いだ。その結果、吉田茂内閣のもとで1951年9月にサンフランシスコ平和条約が調印され、1952年4月に発効した。講和条約調印をめぐっては、単独講和か、12全面講和かをめぐって国内世論は激しく対立した。

問12.この論陣を張った学者・知識人でないのは誰か。次のa~dから1つ選べ。

 a.安倍能成 b.大内兵衛
 c.河上肇  d.南原繁」

(答:c× ※生きていれば全面講和を唱えたであろうが、敗戦間もなく死去)〉

2016関西学院大・全学部

 日露戦争以降、新聞・雑誌などが発達し、一般勤労者を基盤とする大衆文化が誕生した。そして、大正デモクラシーのもとではh多様な学問が花開いた。

問7.下線部h多様な学問に関連する説明として、正しいものを下記より選びなさい、


 ア.河上肇の『貧乏物語』が広く読まれるなど、マルクス主義の影響が強まった。

 イ.和辻哲郎は『善の研究』を著し。独自の哲学体系を打ち立てた。
 ウ.柳田国男は民俗学を確立し『風土』を著した。
 エ.長岡半太郎は強力な磁石鋼である、KS磁石鋼を発明した。」

(答:ア〇、※イ×『善の研究』は西田幾太郎、ウ×『風土』は和辻哲郎、エ×KS磁石鋼は本多光太郎)

1917年 本多光太郎KS磁石鋼を発明。

得意な本多 光太郎。

1917年 本多光太郎 KS磁石鋼



2014立教大・現代心理(映像)・社会・コミュ福祉(福祉)

問6.これに関連して、勤勉に働く労働者の賃金がなぜ上がらないのかを説き、『大阪朝日新聞』に『貧乏物語』を連載したのは誰か。その名をしるせ。」

(答:河上肇)〉

2013早大・政経

【史料】(1)「朝鮮の友に贈る書」
 この世にはどれだけ多く、許し得ない矛盾が矛盾のままに行われているであろう。私は仮りに日本人が朝鮮人の位置に立ったならばといつも想う。愛国の念を標榜し、忠臣を以て任じるこの国民は、貴方がたよりも、もっと高く反逆の旗を翻すにちがいない。われわれの道徳はかねがね、かかる行為を称揚すべき立場にいる。われわれは貴方がたが自国を想う義憤の行いを咎める事に、矛盾を覚えないわけにはゆかぬ。

問1.【史料】(1)の著者の説明として正しいのはどれか。


 イ『白樺』に参加し、また生活のためにつくられた工芸品の美を評価し、日本民芸館を創設した。

 ロ 『遠野物語』ほかの作品を著し、日本民俗学の創始者として知られた。
 ハ 京都大学教授として、『貧乏物語』などを刊行したが、のちに共産党員として逮捕された。
 ニ 東京美術学校や日本美術院の創設にかかわり、『東洋の理想』ほかの著作でも知られた。
 ホ 『友情』などの著者として知られ、また「新しき村」を建設するなど人道主義者として知られた。

(答:イ〇(1)の著者とは柳宗悦 ※ロ×柳田国男、ハ×河上肇、ニ×岡倉天心、ホ×武者小路実篤)〉


2013関西学院大学・済総合国際

 大正期から昭和初期にかけては、(中略)学問においても、cさまざまな分野で優れた学者が活躍し、日本独自の業績があらわれるようになった。

問3.下線部cに関して、それぞれの学者の名前と分野の組み合わせとして、誤っているものを下記より選びなさい.


 ア.野口英世一医学

 イ.河上肇一経済学
 ウ.津田左右吉一歴史学
 エ.本多光太郎一数学」

(答:エ×物理学。強力磁石鋼としてのKS鋼および新KS鋼の発明者)〉

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ハンザ同盟

2018-04-30 | 世界史地図
商業の発展
■ポイント 11~12世紀に商業が復活した理由、商業圏の地域的違いを理解し主要都市の位置を確認する。
商業の復活  背景 11~12世紀 封建社会の安定・農業技術の進歩により農業生産力の増大。
  • 余剰生産物の交換が盛んになる。ローマ時代の地中海域でのa 都市と商業  が復活。
  • ムスリム商人・ノルマン人(ヴァイキング)の商業活動 → b 貨幣経済  の広がりをもたらす。
  • 十字軍の影響による交通の発達 → c 遠隔地貿易  の発達。
    → これらの商業の復活の動きをd 商業ルネサンス  ともいう。
地中海商業圏  十字軍輸送を契機として、a 北イタリア  の港市が繁栄した。

Text p.140

    •  ヴェネツィア  ・c ジェノヴァ  ・d ピサ  など。
    •  東方貿易(レヴァント貿易) によりf 香辛料 ・ 絹織物   など奢侈品が輸入される。
    •  次いで内陸のg
 ミラノ  
      ・h
 フィレンツェ 
      などがi
 毛織物業 ・ 金融業 
    で栄える。
北ヨーロッパ商業圏  北海・バルト海沿岸のa 北ドイツ  の諸都市が新たに繁栄。
  •  ハンブルク  ・c リューベック  ・d ブレーメン  など。
  •  海産物 ・ 木材 ・ 穀物   などの生活必需品を取引。
  •  フランドル地方  :g ガン(ヘント)  ・h ブリュージュ  などi 毛織物産業  で繁栄。
  • イギリスのj ロンドン  :北海貿易の中心地。フランドルにk 羊毛  を輸出。
D 内陸通商路上の都市の発達
  • フランスのa シャンパーニュ  地方:地中海と北ヨーロッパをむすぶルートにb 定期市  が発達。
  • ドイツ内陸の商業都市:c ニュルンベルク  、d アウクスブルク  などが発展。
  • そのほか、バルト海沿岸と黒海方面を結ぶルートで、e ノヴゴロド  やf キエフ  が繁栄した。

 

ウ.中世都市の成立
■ポイント 中世の自治都市はどのように成立し、なぜ都市同盟を結成したかについて理解する。
中世都市  の発展。
  • ローマ帝国末期からヨーロッパの都市はa 司教座都市  として成立。
    = ローマ=カトリック教会の高位聖職者である司教の管轄する教会が置かれた都市。
  • その他の都市も封建領主の支配受けていたが、b 商工業の発達に伴い、都市の自治を要求し始めた。  
    背景:貨幣経済の進展に対応するため都市への課税を強化した封建領主に対して都市の抵抗が強まった。
自治都市  11~12世紀 ヨーロッパ各地の都市がコミューン運動(自治権の獲得運動)を展開する。
    • 自治の内容 a 市民が独自の政府、法律、裁判所を持ち、徴税権などを持つこと。  

Text p.141

  • 自治権の地域による強弱
     北イタリア  の諸都市:領主である司教から自立して自治都市(c コムーネ )となり、
     さらに周辺の農村を併合してd 都市国家   (共和国)となる。
     ドイツ  の諸都市:諸侯の力を押さえようとする皇帝からf 特許状  を得て自治権を獲得、
     皇帝直属の自由都市(g 帝国都市  )となる。 → 諸侯と同じ地位に立つ。
     他の都市は依然として封建領主の保護を受けて、納税の義務を負っていた。
    イギリス・フランスの諸都市:国王との結びつきが強く、自治都市は発達しなかった。
都市同盟  の形成
    • 12~16世紀  有力な都市が皇帝・国王・封建諸侯と対抗するために結成した。
    • 北イタリア:a ロンバルディア同盟   ミラノ中心に、ドイツ皇帝に対抗した。
       → ▲1176年 レニャーノの戦いで同盟軍が神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世軍を破る。

解説

レニャーノの戦いは教科書、用語集では扱われないが、ロンバルディア同盟軍がローマ皇帝軍を破った戦いとして重要。都市同盟軍はローマ教皇の支援を受け、イタリア政策を展開するローマ教皇フリードリヒ1世(赤髯王)の派遣した軍を破り、都市の自治を認めさせた。
  • 北ドイツ :b ハンザ同盟   c リューベック  を盟主とし最盛期には約70市が参加した。
    その機能 d 独自の法律・軍隊(陸海軍)を持ち、共同の利益を守った。   
     → 14世紀に全盛期となり、北ヨーロッパ商業圏を支配、大きな政治勢力となった。
     → 都市同盟は、16世紀の大航海時代まで存続し、主権国家体制の成立(後出)に伴い消滅する。

地図 主なハンザ同盟加盟都市  ●は主要都市  ●は加盟都市  ■は四大在外商館

ハンザ同盟
(点線は現在の国境)
●主要加盟都市
 ⓐ リューベック  
 ⓑ ハンブルク   
 ⓒ ブレーメン   
 ⓓ ケルン     
 ⓔ ダンツィヒ   
 ⓕ リガ      
■四大在外商館
 ① ロンドン    
 ② ブリュージュ  
 ③ ベルゲン  
 ④ ノヴゴロド        
コメント (2)
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平安時代初の入唐者3人

2018-04-29 | Weblog

 

再会タッチ平安京

澄・空逸勢)(平安京

[ポイント]
1.平安時代初のおもな入唐者は最澄空海橘逸勢の3人である。

〈2014明大・文(文、史学地理、心理社会)

問8 下線部(オ)唐に留学していた最澄と空海が帰国しに関して述べた文として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1.最澄と空海は、延暦23(804)年の遣唐使にしたがって入唐した。
 2.最澄と空海は同じ年に帰国した。
 3.最澄は伝教大師、空海は弘法大師である。
 4.最澄は近江出身、空海は讃岐出身である。

(答:2 ※最澄は805年帰着、空海・橘逸勢は806年帰着)〉

〈2012同志社・神商心理

 平安時代に入って最初の遺唐使の一行には、唐の仏教や文化を学んでわが国に大きな影響をもたらした最澄や空海といった僧侶がいたことは有名である。これらの僧と共に入唐して、三筆の一人と称され、後に承和の変において伊豆に流罪となる人物はだれか。この人物名を漢字で記せ。」

(答:橘逸勢)〉

 

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唐で客死した渡航者4人

2018-04-29 | 入試問題+ゴロ合わせ

 仲間神聖 清かった。


遣唐使で客・阿倍仲麻呂)(井真成(せいしんせい)・向玄理・藤原清河(ふじわらのきよかわ))


[point]
1.唐で客死した著名人は阿倍仲麻呂高向玄理藤原清河井真成の4人である。

[解説]
1.高向玄理は、第1回遣隋使小野妹子一行の1人。南淵請安らともに帰国し国博士となり活躍後、再入唐したが客死。

2.阿倍仲麻呂は唐の大学に学び科挙に合格、玄宗皇帝に仕え、詩人王維李白と交友したが、客死。

3.仲麻呂は「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」という望郷の歌を詠んでいる。

4.藤原清河は北家の祖房前の子で、鑑真を伴い帰国をはかり、鑑真は無事日本に到着したが、清河と阿倍仲麻呂の乗る船は難破し、唐で客死した。

5.井真成は仲麻呂と同便で渡航、玄宗皇帝に仕え客死した人物の中国名。その墓誌は国号表記「日本」の最古の例。

2014同志社大・文

〔Ⅰ〕次の(1)(2)の文章を読み下線部または空欄に対応する下記の設問に笞えよ。                 

(1)618年に、隋にかわって中国を統一した唐は、アジアに大帝国をきずき、周辺諸地域に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんとなり、都の長安は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。東アジアの諸国も唐と通交するようになり、日本からはa)遣唐使が派遣された。大使をはじめとする遣唐使には、留学生・学問僧らも加わり、ア)多いときは約500人もの人々が渡海した。航路は難波津から筑紫の大津浦(博多湾)を経た後、壱岐・対馬から朝鮮半島の西沿岸を北上し、山東半島に至る「北路」と、五島列島付近から一気に東シナ海を横断して揚子江岸に向かう「南路」および、九州南端から種子島・屋久島・奄美大島などを経由した後、東シナ海を横断して揚子江口を目ざす「南島路」の、イ)ルートがとられた、b)しかし、造船や航海の技術はまだ末熟であったたため、海上での遭難も多かった。遣唐使たちは、唐から先進的な文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した( c )や吉備真備は、のち聖武天皇に重用され政界でも活躍した。

【設問ア】使節が渡航に用いた、奈良時代の基本的な船の数を、次のうちから1つ選べ。

 1.2隻 2.4隻
 3.6隻 4.8隻

【設問イ】これらのルートのうち、派遺の初期に主にとられたルートを、次のうちから1つ選べ。

 1.北路 2.南路 3.南島路

【設問b】717年に留学生として入唐したある人物は、王維や李白らと交流し、鑑真の渡日に尽力し自らも帰国を試みるが失敗に終わっている、この、玄宗皇帝に重用され高官にのぼり、唐で没した人物名を漢字で記せ。

【設問c】空欄( c )は、法相宗の僧で、橘諸兄の政権に参画し、僧正に任ぜられ、護国仏教の確立に努めた。この人物名を漢字で記せ。」

(答:ア2、イ1、b阿倍仲麻呂、c玄昉)〉

2011文教大・全学部

問6 下線部(d)吉備真備・玄昉の人物について述べたA~Cの文について、その正誤の組合せとして正しいものはどれか。次の中から一つ選べ。

 A 吉備真備は大和の有力豪族出身で、蔭位の制によって位階を得て中央政界に進出した。
 B 玄昉は称徳天皇の薨去(こうきよ)とともに失脚し、下野薬師寺別当に左遷された。
 C 吉備真備と玄は、ともに聖武朝下の橘諸兄政権に参画した。

 1正正誤 2正誤正
 3誤正誤 4誤誤正」

(答:4 ※A蔭位の制により出世したのではない。B玄昉は道鏡の誤り)〉

 

 

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奈良時代初の入唐者

2018-04-28 | Weblog

 

 仲間は君と ゲイボーイ。


阿倍仲麻呂(あべのなかまろ))(玄(げんぼう))(の奈良時代遣使・吉備真備(きびのまきび))


[ポイント]
1.奈良時代初の入唐者は、吉備真備玄昉(げんぼう)・阿倍仲麻呂の3人である。

[解説]
1.吉備真備(693?~775)は、珍しく蔭位(おんい)によらずに大学を経て役人となり、公卿まで昇進。学業に優れ、717~735年唐に留学、帰朝後は新知識をいかんなく発揮して昇進を重ね、玄(げんぼう)と共に橘諸兄の政権の顧問格となる。藤原仲麻呂により九州の国司に左遷され一時不遇だった。しかし唐末の混乱(安史(あんし)の乱など)という国際情勢緊迫下に真備の軍事および国際知識が必要とされ中央政界に復帰。逆に勢威を失った藤原仲麻呂の乱を平定し、つぎの道鏡政権下でも右大臣に出世し、さらにその失脚後の光仁天皇時代も引き続き右大臣を務め死去。後の菅原道真と並ぶ学者政治家。

2.玄(?~746)、は法相宗の僧で、717~735年唐に留学し帰朝のとき経論(きょうろん)5000巻をもたらした。これらの経論は次々と書写されて流布、日本の仏教信仰確立に多大な貢献をした。玄は、唐で呪術的能力も学んでおり、聖武天皇・皇后光明子をはじめ皇室関係者の病気平癒に活躍し、その威光により仏教界で絶大な権力をふるった。また橘諸兄政権で大仏造営など護国仏教の確立に努めた。藤原仲麻呂により筑紫観世音寺に左遷され、同地で死去。

3.阿倍仲麻呂(698?~770?)は、留学生として717年に入唐。大学に学び科挙に合格(スゴイ!)、任官し要職を歴任。帰国を願ったが許されず、ようやく許されて753年遣唐使一行と帰途についたが、再び長安に戻り玄宗皇帝に仕え、ふたたび要職を歴任し、帰国を果たせず死去。その学識と文才は唐でも知られ、詩人王維李白と交友(これもスゴイ!)。望郷の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」という歌はよく知られている。

〈2014同志社大・文

「遣唐使たちは、唐から先進的な文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した( c )や吉備真備は、のち聖武天皇に重用され政界でも活躍した。」

(答:玄昉)〉

〈2013明大・商

「しかし、天然痘の流行で四子が相次いで病死すると勢力は一時衰え、政権は皇族出身の[ 3 ](684~757)や唐に留学経験のある玄、吉備真備らの主導するところとなった。玄と吉備真備は、[ 3 ]に重用されて活躍したが、d【1)藤原百川 2)藤原武智麻呂 3)藤原緒嗣 4)藤原冬嗣 5)藤原広嗣】は、彼らを除くことを名目に、740年、乱を起したが、敗死した。」
(答:3橘諸兄、d(5))〉

 

 

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西田幾多郎

2018-04-28 | Weblog

1911年1月 西田幾多郎『禅の研究』

行くいい禅の 西田来た。

1911年 『禅の研究』 西田幾多郎 京都大学



[point]

1.哲学の西田幾多郎は、『善の研究』を著して独自の哲学体系を打ち立てた。

[解説]

2017関西学院大・全学部

 a)西田幾多郎らの「京都学派」は、安易な軍国主義・民族主義礼賛にはほど遠かったものの、太平洋戦争中に海軍をつうじて戦争協力を進めた。それは、英米の近代的生き方と大衆文化が世界中に伝播し、各民族が持つべき創造的な民族文化を奪うことを懸念していたからであった。

問1.下線部aの著作を下記より選びなさい。


 ア『経国美談』 イ『古寺巡礼』
 ウ『風土』 エ『善の研究』


(答:エ)イウ 和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889年3月1日 - 1960年12月26日)は、日本哲学者倫理学者、文化史家、日本思想史家。『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られ、その倫理学の体系は和辻倫理学と呼ばれる。日本倫理学会会員。

2017早大・人間

問7 下線部f大正時代に関連して、当時の学問や科学技術をめぐる動向に関する記述として、誤っているものはどれか、1つ選べ。
 
 ア 津田左右吉は、『古事記』や「日本書紀」の文献学的批判を行なった。

 イ 本多光太郎は、KS磁石鋼を発明した。
 ウ 八木英次は、現在のテレビ用アンテナの原型を発明した。
 エ 理化学研究所が、第一次世界大戦の最中に設立された。
 オ 和辻哲郎は、『善の研究』を著して独自の哲学体系を打ち立てた。

(答:オ×和辻哲郎→西田幾多郎)〉

2017津田塾大(学芸(英文))

 大正から昭和の初期にかけて、(中略)哲学では、『善の研究』で知られる[ 10 ]が東洋と西洋の思想的統一を探究し、和辻哲郎は『風土』などで独自の倫理学を展開した。」

(答:西田幾多郎)〉


2016関西大・全学部2/8:「

F 倫理学者の10[ア和辻哲郎 イ西田幾多郎 ウ田辺元]は、西洋哲学を研究するとともに、仏教美術・日本思想史を研究し、『古寺巡礼』『風土』などを著した。歴史学者の11[ア喜田貞吉 イ津田左右吉 ウ安倍能成]は、『神代史の研究』『古事記及日本書紀の研究』『日本上代史研究』などを著し、古代史の科学的解明に貢献した。」

(答:10ア、11イ)

1940年3月 津田左右吉『神代史の研究』など筆禍事件。

退くよ摩擦だ 神代史。

1940年   津田左右吉 『神代史の研究』



2016明大・政経

 国家主義的気運が高まるとともに、(エ)国体論にもとづく思想統制がはかられ、学問の世界でも思想・言論活動に対する弾圧が厳しさを増した。政府は軍国主義を鼓吹し、国体観念の国民への浸透を促すとともに、来るべき総力戦の遂行に備えて、労働者と資本家が一丸となった戦争協力体制の構築に力を注いだ。 

問4 下線部エに関して、この時期の思想統制・言論弾圧に関する説明として誤っているものはどれか。A~Eから一つ選べ。


 A 文部省は『国体の本義』を発行し、国民に対して国体の尊厳と君臣の大義を説き、日本を天皇中心の家族国家とする運命共同体論を唱道した。

 B 津田左右吉の日本古代史に関する実証的研究が、皇室の尊厳を傷つけるものとして批判され、『神代史の研究』などの著書が発禁となった。
 C 政府の植民地政策を批判していた東大教授の矢内原忠雄が右翼から反戦思想として攻撃され、辞職を余儀なくされた。
 D 自由主義経済学者の河合栄治郎が軍部や政府の政策を批判した著書を発禁とされたうえで、東大教授を休職処分となり、起訴された。
 E 大内兵衛、有沢広已、西田幾多郎らの東大教授グループが、人民戦線の結成をはかって政府に反対したとして治安維持法で検挙された。」

(答:E× ※哲学者西田幾多郎は京都学派の創始者で京大教授、しかも政府に協力的)〉


2014立大・現代心理(映像身体)・社会・コミュ福祉(福祉)

 他の学問領域では、『善の研究』を著して脚光を浴びた〈 う 〉が、個人と社会の新たな関係を求めて東洋思想と西洋思想の統一をはかった。

 a.片山潜 b.西田幾多郎

 c.南方熊楠) d.和辻哲郎」

(答:b西田幾多郎)〉

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前九年と後三年の源氏棟梁

2018-04-27 | Weblog

 

1051年 前九年の役。

統合急げ 前九より。

1051年 前九年の役 源頼義


[ポイント]
1.前九年の役は源頼義が、後三年の役は源義家が鎮定した。

[解説]
1.1051年におこった前九年の役は、源頼義が対立する安倍氏を清原氏の助けを得て滅ぼした。

2.1083年におこった後三年の役は、清原氏の内紛に源義家が介入・鎮定した戦乱で、奥州藤原氏繁栄の基礎、および源氏の東国地盤確立がなる。

〈2016関西学院大学・全学部

4 次のa・bの正誤を記せ。

 a.前九年合戦では、源頼信・義家父子は東国の武士を率いて陸奥の安倍氏と戦い、清原氏の助けを得て安倍氏を滅ぼした。
 b.後三年合戦では、源義家が清原(藤原)清衡を助けて清原氏の内紛を制圧した。清衡の子孫は奥羽地方を支配した。」

(答:a×頼信→頼義、b〇)

〈2016早大・文化構想

問2 下線a頼朝の祖先が奥羽の地域権力の活動に介人しているに関連して述べた次の文X・Y・Zの正誤の組み合わせのうち、正しいものはどれか。1つ選べ。

 X 源頼信は、前九年合戦で活躍した。
 Y 源頼義は、安倍貞任を滅ぼした。
 Z 源義家は、清原氏の内紛に介入した。

 ア X一正 Y一正 Z一正
 イ X一正 Y一正 Z一誤
 ウ X一正 Y一誤 Z一正
 エ X一誤 Y一正 Z一正
 オ X一誤 Y一正 Z一誤」

(答:エ ※X×頼信→頼義)〉

〈2016慶大・法

問ア 前九年の合戦は、俘囚の長としでその地方で権力を振るっていた安倍頼時らが国司に対して反乱を起こしたのが発端であり、摂関家に仕える軍事貴族であった清和源氏の流れをくむ[ 19 ]がその子とともに平定した。この合戦を素材とする[ 20 ]は、『将門記』とともに中世の軍記物語の源流である。」

(答:19源頼義、20陸奥話記 ※原問には59項の選択肢があり、そのうち源氏は7人)〉

〈2014立大・経済コミュ福観光

 この源頼光に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.その弟の源頼信は、平忠常の乱を鎮圧した
 b.その子の源頼義は、後三年合戦で、安倍頼時・貞任による反乱を鎮圧した
 c.その父の源満仲は、藤原純友の乱を鎮圧した
 d.その孫の源義家は、保元の乱の時に後白河天皇と結び勝利した。」

(答:a ※b.頼義は頼信の子。安倍氏の内紛は前九年合戦の誤り、後三年合戦で勝利したのは子の義家、c源満仲は安和の変で藤原氏に協力して左大臣源高明を密告。藤原純友の乱の鎮圧は源経基、d保元の乱は源義朝(義家の嫡子為家の長男))〉

 

 〈2013明大・文:「
C.10世紀の前半、日本列島の東西で二つの大きな戦乱がおこった。(オ)坂東(関東地方)と瀬戸内海を舞台におこった承平・天慶の乱とよばれた二つの乱で、乱を鎮圧した勝者とその子孫たちは中央の官人となり、「都の武者」となっていった。清和源氏の頼光は摂関家とつながり受領として活躍していったが、その弟の[ d ]は、11世紀前半に再び坂東でおこった[ e ]の乱で追討使に任じられ、乱を平定したことで坂東に進出する足がかりを得た。そののち、子の頼義が前九年合戦を、頼義の子義家が(カ)後三年合戦を鎮圧したことで、源氏は東国での基盤を固めることになった。

 8.空欄d・eに入る語の組み合わせとして正しいもの次の1~4のうちから一つ選べ。

 1d.満仲 e.平国香
 2d.満仲 e.平忠常
 3d.頼信 e.平国香
 4d.頼信 e.平忠常

 9.下線部(オ)に関連して、坂東でおこった戦乱を描いた書物として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1『将門記』  2『純友追討記』
 3『陸奥話記』 4『保元物語』

 10.下線部カの後三年合戦以後の出来事として正しいものを一つ選べ。

 1 戦乱などの社会不安を背景に、末法思想が民衆の間に急速に広まった。
 2 後三条天皇は、荘園の乱立をおさえるため、延久の荘園整理令を発した。
 3 東北地方は、清原(藤原)清衡やその子孫が支配する地となった。
 4 武士の実力が認められ、宮中を警護する滝口の武士がはじめておかれた。

 (答:8(4)、9(1)、10(3))〉

 

 

 

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平忠常の乱

2018-04-27 | Weblog

 

 

 

1028(長元元)年 平忠常の乱

卑劣や忠常 皆よりブー。

1028年 平忠常の乱 源頼信


[ポイント]
1.平忠常の乱は、1028(長元元)年、上総でおこる。

[解説]
1.源頼信は房総半島に広がった乱を鎮定し、これが平氏に代わって源氏が東国進出する契機となる。

〈2014立教大・経済コミュ福祉・観光

 藤原道長が「此世をば 我世とぞ思ふ 望月の かけたる事も 無と思へば」と詠んだのは、土御門殿(つちみかどどの)という屋敷であったが、この屋敷はいったん火災に遭い、上記の歌が詠まれる数ヶ月前に再建されたところであった。再建にあたっては、( ハ )の日記である『小右記』に記されたように、「土御門殿の( ニ )一間を以て、諸の受領に配し営ましむと云々。いまだ聞かざるの事なり。造作の過差、往跡(おうせき)に万倍す」(原漢文)と受領たちが競って造営を分担し、3)源頼光が家中の家具、調度を献上したことで知られている。

問3 下線部3の源頼光に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.その弟の源頼信は、平忠常の乱を鎮圧した
 b.その子の源頼義は、後三年合戦で、安倍頼時・貞任による反乱を鎮圧した
 c.その父の源満仲は、藤原純友の乱を鎮圧した
 d.その孫の源義家は、保元の乱の時に後白河天皇と結び勝利した。」

(答:ハ藤原実資※実のある資料 醤油で記。、ニ.寝殿、問3a)〉

 

 

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刀伊の入寇

2018-04-27 | Weblog

 

 

1019(寛仁3)年3月 刀伊の入寇。

刀伊来りゃゴンと 封じたか。

1019年 刀伊の入寇 大宰権帥 藤原隆家 

[ポイント]
1.刀伊の入寇は1019年にあり、藤原隆家らが鎮圧した。

〈2014同志社大・文:「
 1019年に九州北部でおこった( h )の来襲の際には、大宰権帥の( ケ )の指揮のもと、九州の武士たちがこれを撃退した。

【設問h】空欄( h )に入る語句を漢字で記せ。

【設問ケ】空欄( ケ )に入る人物名を次のうちから1つ選べ。

  1.藤原隆家 2.藤原秀郷
  3.藤原成親 4.藤原伊周」

(答:h刀伊、ケ1)〉

 

 

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969年 安和の変。

2018-04-26 | Weblog

 

黒く密告 あんた方。

969年 源満仲 安和の変 源高明 為平親王

 

[ポイント]
1.安和の変969年)で、源満仲の密告により左大臣源高明が失脚し、藤原氏による他氏排斥は完成する。

2.源高明醍醐天皇の皇子で、儀式書(有職故実書)である『西宮記』を著した。

〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ

10世紀から11世紀にかけて、藤原氏(北家)は天皇家と外戚関係を結ぶことで、政治権力を掌握した。当時の貴族は嫁入婚が主流であり、母や母方の祖父の影響は大きかった。藤原氏はこれを利用し、( イ )の変で左大臣の源高明を失脚させて以降、摂政・関白の地位を独占した。摂関政治が確立するなかで、地方政治のあり方も変化した。

(答:イ安和)〉

〈2013早大・文:「下線bの人物(源高明)の説明として、誤っているものはどれか。1つ選び、マーク解答用紙の該当する記号をマークしなさい。

 ア 字多天皇の子供であった
 イ 左遷されたとき左大臣であった
 ウ 儀式書である『西宮記』を著した
 エ 大宰権帥として左遷された
 オ 村上天皇の死後、左遷された

(答:ア ※源高明は醍醐天皇の皇子。村上天皇の死は967年)

イ.

高明は醍醐天皇の皇子として生まれ、臣籍降下の後に左大臣に昇りながら、安和の変大宰府に左遷されたことで知られており、『源氏物語』の光源氏のモデルの1人とも言われている。高明邸が当時では珍しく西宮(右京)側にあったことから、「西宮左大臣」の異名で呼ばれ、書名の由来となった。

本書の執筆年代は不明であるが、動機の1つとして安和の変の際にともに大宰府に送られた息子源俊賢に有職故実を伝授するために執筆されたとする見方もある[1]

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藤原純友(すみとも)の乱

2018-04-26 | Weblog

 

臭く純友 追捕小野。

939年 藤原純友の乱 追捕使 小野好古


[ポイント]
1.藤原純友の乱小野好古源経基が平定した。

[解説]
1.藤原純友(?~941)は、伊予掾(いよのじょう)として海賊(かいぞく)追捕(ついぶ)にあたっていたが、939年東国で平将門の乱が起こると(呼応(こおう)の証拠(しょうこ)はない)、立場を一転して瀬戸内海の海賊の首領となり、日振島を根拠地として反乱を起し、大宰府を焼き討ちしたりした。

2.朝廷は小野好古(884~968)を追捕使(ついぶし)とし、源経基(生没年不詳、清和源氏の祖)に命じて941年にようやく平定した。

〈2014早大・政経

3.下線部(3)承平天慶の乱についての説明として誤っているものはどれか。

 ア 乱はいずれも藤原忠平の摂政在任中に起こった。
 イ 乱を起こした藤原純友と平将門は、それぞれ国府を攻め落とした。
 ウ 乱を起こした藤原純友と平将門は、いずれも任官の経験がある。
 エ 乱の鎮圧には追捕使か押領使が関与した。
 オ 乱を鎮圧した者の家柄はともにのちに武門の棟梁と呼ばれた。

(答:ウ ※藤原純友は従五位下伊予掾(じょう)(つまり伊予国の行政官で守(かみ)・介(すけ)に次ぐ三等官)。平将門は、滝口の武士でしかなく検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだが任官できていない)〉

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935年 平将門の乱(~940)

2018-04-26 | 入試問題+ゴロ合わせ

 

組み殺したい ひでぇ伯父。

935年 新皇平将門の乱 藤原秀郷 押領使

[ポイント]
1.平将門の乱935年におこり、将門は940年、平貞盛藤原秀郷に討たれた。

[解説]
1.平将門(?~940)は平高望(たいらのたかもち)の孫。所領争いから伯父(おじ)の平国香(たいらのくにか)を殺す。

2.939年に反乱を起して常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)の国府を攻略し国司を追放し、関東一帯を占拠。

3.平将門新皇(しんのう)と称し、下総(しもふさ)の猿島(さしま)を中心に独立国家を作ろうとした

4.平将門の乱を記した軍記物語は『将門記(しょうもんき)』

5.同時期に起こった藤原純友の乱とをあわせて承平・天慶の乱(939~941)ともいう。

〈2013愛知教育大・前期

「問8 下線部(6)10世紀前半の東国の兵乱の名称を答えよ。」

(答:平将門の乱あるいは承平天慶の乱)〉

〈2012明大・文学部

下線部(オ)坂東(関東地方)と瀬戸内海を舞台におこった承平・天慶の乱とよばれた二つの乱に関連して、坂東でおこった戦乱を描いた書物として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1『将門記』 2『純友追討記』
 3『陸奥話記』4『保元物語』」

(答:1)〉

※ 将門の乱を始まりは清水書院『日本史B』の935年(私闘の開始)から、山川『詳説日本史B』の939年(国司つまり国家権力の末端との闘争開始)と2説ある。

 

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地方での武士の台頭前後

2018-04-25 | Weblog

 炎上あんな問い質す前後院。

延喜の治・平(じょうへい)天(てんぎょう)の乱)(安和の変)(刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)・平忠常(たいらのただつね)の乱)(九年(ぜんくねん)の役・三年(ごさんねん)の役)(院政

[ポイント]
1.地方武士の台頭のころの8事項は、延喜の治→ 承平天慶の乱→ 安和の変→ 刀伊の入寇→ 平忠常の乱→ 前九年の役→ 後三年の役→ 院政の順で発生。

[解説]は各項。

 〈2014早大・国際教養

問5 下線部e藤原冬嗣から藤原道長の時代に関連する記述として、この時代に該当しないものはどれか。1つ選べ。

 ア承平・天慶の乱 イ長講堂領の成立
 ウ安和の変    エ法成寺の建立
 オ刀伊の入冦」

(答:イ ※長講堂領は院政期以降。後白河法皇の荘園所領の総称)〉

 

 

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柳田国男

2018-04-25 | Weblog

1910(明治43)年6月柳田国男『遠野物語』

ひどく遠いの やな国よ。

1910年 『遠野物語』 柳田国男



[point]

1.柳田国男は、『郷土研究』を発行し『遠野物語』を著す。

[解説]

1.歴史学の柳田国男(1875~1962)は、民間伝承の調査・研究を通じて、無名の民衆(「常民(じょうみん)」)の生活史を明らかにする民俗学を確立し、雑誌『郷土研究』を発行し、『遠野物語』(1910)を著す。岩手県遠野地方に伝わる説話・民間信仰・年中行事などを集めた民間伝承の記録書。

2017同志社大・全学部

 沖縄県民の本土に対する劣等感を取り除くために啓蒙活動に積極的に取り組んでいた伊波普猷(いはふゆう)は、1921年に日本の民俗学の創始者として著名な( l )の来県を受け、沖縄研究に対する激励を受けてから、交流を深めることになった。

問1 空欄( l )に入る適切な人物名を漢字で記せ。この人物は1913年に『郷土研究』を創刊し、民間伝承の調査・研究を通じて「常民」の生活史を明らかにする民俗学を確立した。」


(答:柳田国男)〉


2017関西学院大・全学部

問10.下線部n津田左右吉に関して、正しいものを下記より選びなさい。

 ア.津田左右吉は、代表的著作『郷土研究』において、日本の農村史を描いた。

 イ.津田左右吉は.『古事記』や『日本書紀」の実証的・科学的分析を行なった。
 ウ.津田左右吉は、庶民の歴史を重視した『貧乏物語』を書いた。
 エ.津田左右吉は、儒教や仏教を外来思想として排除すべきとする『国意考』を著した。」

(答:イ〇、※ア×『郷土研究』は柳田国男、ウ×『貧乏物語』は河上肇、

1916(大正5)年9月 河上肇、『貧乏物語』

退く色肇 貧乏も。

1916年 河上肇 『貧乏物語』

エ×『国意考』は賀茂真淵)〉

 〈2017津田塾大(学芸(英文)):「

 [ 11 ]は『古事記』や『日本書紀』の文献学的批判をつうじて古代史に新境地を開き、農商務省の官僚だった柳田国男は、民間伝承や風習を研究する[ 12 ]学の確立に貢献した。」

(答:11津田左右吉、12民俗)〉


2016関西学院大・全学部

問7.下線部h多様な学問に関連する説明として、正しいものを下記より選びなさい、

 ア.河上肇の『貧乏物語』が広く読まれるなど、マルクス主義の影響が強まった。

 イ.和辻哲郎は『善の研究』を著し。独自の哲学体系を打ち立てた。
 ウ.柳田国男は民俗学を確立し『風土』を著した。
 エ.長岡半太郎は強力な磁石鋼である、KS磁石鋼を発明した。

(答:ア〇、※イ×『善の研究』は西田幾太郎、ウ×『風土』は和辻哲郎、エ×KS磁石鋼は本多光太郎)〉


2014立大・現代心理社会コミュ福祉:「

 また、柳田国男が民間伝承の調査研究を通じて、「常民」(無名の民衆)の生活史を明らかにする民俗学を確立し、1910年に刊行された『〈 え 〉』は日本民俗学出発の記念碑的文献となった。」

(答:遠野物語)〉


2013早大・政経

【史料】(1)「朝鮮の友に贈る書」
 この世にはどれだけ多く、許し得ない矛盾が矛盾のままに行われているであろう。私は仮りに日本人が朝鮮人の位置に立ったならばといつも想う。愛国の念を標榜し、忠臣を以て任じるこの国民は、貴方がたよりも、もっと高く反逆の旗を翻すにちがいない。われわれの道徳はかねがね、かかる行為を称揚すべき立場にいる。われわれは貴方がたが自国を想う義憤の行いを咎める事に、矛盾を覚えないわけにはゆかぬ。

問1.【史料】(1)の著者の説明として正しいのはどれか。


 イ『白樺』に参加し、また生活のためにつくられた工芸品の美を評価し、日本民芸館を創設した。

 ロ 『遠野物語』ほかの作品を著し、日本民俗学の創始者として知られた。
 ハ 京都大学教授として、『貧乏物語』などを刊行したが、のちに共産党員として逮捕された。
 ニ 東京美術学校や日本美術院の創設にかかわり、『東洋の理想』ほかの著作でも知られた。
 ホ 『友情』などの著者として知られ、また「新しき村」を建設するなど人道主義者として知られた。

(答:イ〇柳宗悦 ※ロ×柳田国男、ハ×河上肇、ニ×岡倉天心、ホ×武者小路実篤)〉


2012立教大・全学部(理は除く)

 弥生時代、日本列島に水稲耕作が広がることは広く知られている。『郷土研究』を刊行し、民俗学を確立した〈 え 〉はその伝播ルートとして「海上の道」を説き、中国大陸から南西諸島を経由したルートを想定した。しかしながら、考古学的には華南から朝鮮半島を経由して九州に伝播したとする説が多くの支持をえており、九州から南西諸島に稲作文化が広がったと考えられている。また弥生時代には金属器が使用されるようになるが石器の使用も続いた。」

(答:柳田国男)〉

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総合・テーマ史 ★★ 中国・儒教思想史 

2018-04-24 | 入試問題+ゴロ合わせ
2002 学習院大学

【問】次の文章を読み,それぞれ(1)~(10)の設問について〔   〕内の語句または数字から最も適切と思われるものを選び、その記号をマークしなさい。

孔子の学説を継承発展させてきた儒学は,長らく中国の正統的な教えとして尊重されてきたが,諸子百家の時代には、孔子を祖とする儒家の他にも、様々な有力な学派が存在した。例えば、無差別の愛や戦争否定を説き、『韓非子』「顕学」篇に、儒家とならぶ著名な学派として挙げられる(1)〔①道家 ②法家 ③墨家 ④陰陽家〕などは,その代表的なものの一つである。

 漢代には,五経博士が置かれるなど、儒学を国家の正統教学とする動きが進むとともに、経典の注釈を中心とする(2)〔①文選 ⑧古文辞 ③朱子 ④訓詁〕学が発達した。特に、後漢の鄭玄は、中国史上、最大の注釈学者の一人である。

 魏晋南北朝時代には、儒学の権威は相対化され,老荘思想を碁盤とした道教や仏教が盛んになった。仏教の勢力が拡大したのは4世紀後半以降で、この時代には、中国から仏教の原典を求めてインドに向かう者が現れるとともに、西域から(3)〔①法顕 ②鳩摩羅什 ③弥勒 ④竜樹〕のような優れた僧侶が中国に迎えられた。

 唐代に入ると、中国仏教はその最盛期を迎えるが、儒学の側では、国家公認の経典解釈を示す『五経正義』が作られ、思想統制に役立てられたが、思想としての儒学の活力は失われていった。また、唐代には、イスラーム教や,キリスト教の(4)〔①アリウス ②ネストリウス ③アタナシウス ④グノーシス〕派などの外来宗教も伝えられ、一部で流行した。

 唐末五代の社会的大変動で、旧来の支配層だった貴族は没落し、末代には士大夫と呼ばれる儒学的教養を持った新興地主層が、科挙を通じて官僚として登用され、社会的指導者となった。科挙は、隋に始まった官吏登用試験で、宋代にその制度の大枠が完成した。これ以後、明・清を通じて科挙制度は一層精緻化され、(5)〔①1894 ②1905 ③1911 ④1925〕年に廃止されるまで,科挙に合格することこそが,中国社会のエリートたることの証明であった。

 宋代の士大夫は、文化面でも指導的役割を果たし、経典の字句の解釈にとらわれずに儒学の本質的精神をつかみ取ろうとする宋学が、士大夫を担い手として発達した。また、当時の代表的な文学ジャンルとして、欧陽脩や蘇軾などの名文家を輩出した散文や,楽曲に合わせて歌う韻文である(6)〔①詞 ②詩 ③賦 ④北曲〕などがあるが,欧陽脩や蘇軾は、文人であると同時に著名な政治家でもあった。

 明代には、『四書大全』『五経大全』が編纂され、国家による儒学の経典解釈の固定化が進められる一方、王守仁は、主観と実践を重視する(7)〔①朱子 ②考証 ③公羊 ④陽明〕学をおこした。

 明末清初には多数のイエズス会宣教師が中国を訪れ、ヨーロッパの天文・暦法・数学・砲術なとを紹介し、元代に作成された(8)〔①貞享暦 ②授時暦 ③崇禎暦書 ④時憲暦〕を踏襲した明代の暦の改訂などにも協力したが、キリスト教が儒学の地位を脅かすことはなかった。

 清代には、異民族による支配の影響もあり、儒学は、経典の文献学的研究が中心となり、その学問的水準は飛躍的に高まったが、実践の学としての性格は失われた。こうした状況への不満から、清代中期以降、経世実用を重視する(9)〔①朱子 ②考証 ③公羊 ④陽明〕学がおこった。清未の戊戌の変法を主導した康有為は、この学派の代表的人物である。
 中華民国に入ると,西洋近代思想に基づく儒学批判が、雑誌『新青年』を中心として本格化した。著名な儒学批判者としては、「儒家の階級制度を主張する害」などを書いた呉虞や、後に中国共産党の指導者として初代総書記となった(10)〔①魯迅 ②胡適 ③毛沢東 ④陳独秀〕らが挙げられる。

 

解 答 

10
 

解説 

(1) ③墨家 僕から非攻兼愛を。

       墨家 非攻 兼愛

(2)2.④.訓詁(学) 

 (4)②

グノーシス主義Gnosticism)は、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った宗教・思想である。物質と霊の二元論に特徴がある。普通名詞としてのグノーシスは、古代ギリシア語で「認識・知識」を意味する。グノーシス主義は、自己の本質と真のについての認識に到達することを求める思想傾向にあたる。

グノーシス主義は、地中海世界を中心とするもの以外に、イランメソポタミアに本拠を置くものがあり、ヘレニズムによる東西文化のシンクレティズムの中から形成されたとみれる。代表的なグノーシス主義宗教にマニ教がある。

(6)歌詞っていうでしょ。

(8)②

1280年 郭守敬の授時暦を施行。

いつは大きい 郭守敬。

1280年郭守敬授時暦元

9.公羊学は考証学を批判した儒学の一派。康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょう)が重要。

(10)

1921年7月〈中国〉中国共産党、上海で結成:委員長に陳独秀。

くついに今日 陳独秀。

1921年 中国共産党 陳独秀 上海

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