河蛙の味も西東。
(河村瑞賢(かわむらずいけん))(淀川改修)(東廻り航路西廻り航路)
[ポイント]
1.河村瑞賢は、東廻り航路・西廻り航路を開き、また淀川を改修した。
[解説]
1.河村瑞賢(1618~1699)は、伊勢国(三重県)の貧農出身の豪商。江戸明暦の大火のとき、木材の買い占めで巨富を得る。実際の工事を重ねる毎にノウハウを蓄積し卓越した土木家となる。やがて幕命・諸藩の命を受け数々の大土木工事を完成し、近世海運隆盛の基盤をつくり、その功績は後世に称えられる。
2.その2大工事が、西廻り航路・東廻り航路の開発と、安治川(あじがわ)(大阪府)の開削工事。
3.東廻りは、出羽酒田を起点とし、津軽海峡を経て江戸に至る。西廻りは酒田を起点とし、日本海沿岸諸港をめぐり瀬戸内海を経て大坂に至るルート。これらを整備し、江戸と大坂を中心とする全国規模の海上交通網を完成させた。これらの寄港地として港町が発達した。
4.後者は、淀川の水を安治川の蛇行部分を開削して、ストレートに海に流すことで、蛇行が原因で水害が起こるのを防ぎ、淀川水運を確立したもの。
〈2016関西学院大学・全学部2/2
問7 a・bの正誤を判断せよ。
a 17世紀後半に河村瑞賢によって青森から江戸に至る東廻り海運が整備されると、出羽・越後諸藩の年貢米の大半は東廻り海運を経て江戸に廻漕された。
b 近世後期に絹織物の生産地として発展した上野国は、五街道のなかの奥州道中と日光道中とが通る交通上の要衝でもあった。」
(答:a×東廻り→西廻り、b×上野→下野)〉
〈2016明大・情報
問1 下線部ア17世紀後半の時期の説明として、もっとも正しいものを、つぎの1~4のうちから1つ選べ。
1.幕府は、糸割符制度を設けて、貿易統制を始めた
2.上方を拠点とする井原西鶴が『好色一代男』を刊行した
3.角倉了以は西廻り航路を整備し、北前船が就航しはじめた
4.江戸の山東京伝が『仕懸文庫』を著した」
(答:2 ※1×糸割符制度(1604)、3×角倉了以→河村瑞賢、4×山東京伝(1761~1816))〉
〈2015大学入試センター
問2 下線部bに関連して、近世の西日本の流通に関して述べた次の文X・Yと、それに該当する人名a~dとの組合せとして正しいものを、下の1~4のうちから1つ選べ。
X 大坂と東北地方とを結ぶ、西廼り航路(海運)を整備した。
Y 高瀬川の開削を行い、内陸部の河川舟運の発達に寄与した。
a河村瑞賢 b紀伊国屋文左衛門
c田中勝介 d角倉了以
1.X-a、Y-c 2.X-a、Y-d
3.X-b、Y-c 4.X-b、Y-d」
(答:2)」〉
〈2014明大・農(食料環境政策)
問10 下線部キ松前藩に関連して、江戸時代の日本国内における海上交通および流通経済に関して記述した文章として、適切でないものを一つ選べ。
A 江戸では、米や雑穀をはじめとする地廻り物を扱う問屋が結成され、江戸地廻り経済圏が形成された。
B 17世紀後半になると、河村瑞賢によって南海路が整備され、全国的な海上交通網が完成した。
C 18世紀末ごろに、日本海の北前船や尾張の内海船などの廻船業が各地で発達した。
D 大坂・江戸間には、菱垣廻船や樽廻船が定期的に運航され、大坂から木綿・油・酒などを江戸へ運んだ。」
(答:B ※江戸-大坂間の南海路は河村瑞賢の開いたものではない)〉
〈2014明大・国際日本(国際日本)
問7.農産物の全国的な流通が盛んになっていく条件として、交通網の発達は不可欠であった。江戸時代の交通網の発達について述べた以下の文章A~Cについて、その正誤の組み合わせとして正しいものを、下記の1~4の中から選びなさい。
A:東海道、中山道、山陽道、甲州道中、奥州道中の五街道は、重要な幹線道路として幕府の直轄下に置かれ、17世紀半ばから道中奉行によって管理された。
B:五街道や脇街道などの主要な街道には宿駅が多く置かれ、流通の要所となった。宿駅には、本陣、旅籠、問屋場などが設けられた。
C:大坂・江戸間では菱垣廻船、樽廻船が運航するようになり、17世紀後半には江戸の商人だった角倉了以によって東廻り海運・西廻り海運が整備された。
1.A〇、B×、C〇
2.A×、B× C×
3.A〇、B〇、C×
4.A×、B〇、C×」
(答:4 ※A×奥州道中→日光道中、C×:角倉了以→河村瑞賢)〉
〈2013早大・文化構想
下線f(江戸時代になると太平洋・日本海にも広く廻船による海運が発達する)に関連する説明として、正しいものはどれか。1つ選べ。
ア 蝦夷地・東北の物資を、松前・日本海沿岸・下関を経由して上方に運ぶ松前船が盛んに往来した。
イ 江戸時代初期に堺商人によって樽廻船が創始され、上方と江戸の間を回漕した。
ウ 樽廻船は十組問屋と提携しに酒荷を上方から江戸へ輸送して菱垣廻船を圧倒した。
エ 江戸の商人河村瑞賢は、諸藩による海運整備の動きの高まるなか、東廻り・西廻り両航路を改良・整備した。
オ 南海道を通じて上方から江戸にもたらされる物資は「下り物」とも呼ばれた。
(答:エ ※ア×北前船の誤り、イ×1730年結成、ウ×十組問屋脱退の酒問屋が結成、オ×南海路の誤り)〉
〈2012同志社大学・文経済
物資の流通には交通網の確立を必要とする。幹線道路としては江戸に通じるいわゆるイ五街道をはじめとして、全国各地に街道筋が開発・整備されるようになる。街道筋には宿駅を設けて人馬を常備し、旅籠・一里塚などを整え、各領国を横断する人と物との往還路となった。しかし物資の大量輸送を担ったのは水運である。なかでも17世紀後半になって開発・整備されたオ.東廻り・西廻り海運は、東北地方あるいは松前と江戸とを、また九州、瀬戸内海沿岸諸国ばかりでなく北陸・東北と大坂とを結びつけたのであって、全国的な流通海路を作り上げた点で画期的であった。廻船の技術的発達とともに海運はさかんとなり、それまでの流通路であった内陸部の都市の発展は停滞するが、海運の要所にあたるカ港湾都市は飛躍的に発展した。また、海路に接続するキ河川交通もまた全国各地で開発・整備され物資の輸送を一層促進させた。
問オ.下線部オについて、幕府の命によりこの2つの海運を改良・整備したのは誰か、その人物名を記せ。
問カ.下線部カについて、1672年に西廻り海運が整備されて、庄内地方および最上川流域の産物の集散地と、して発展した出羽国の都市はどこか、その地名を記せ。
問キ.下線部キについて、角倉了以が大堰川を開削して発達した、丹波より京都への輸送水路を何と呼ぶか、次の1~4の中から選べ。
1.高瀬川水運 2.淀川水運
3.保津川水運 4.富士川水運
(答:問オ河村瑞賢〔瑞軒〕、問カ酒田、問キ3 ※2×淀川水運は河村瑞賢)〉