〔今回は、「待合室」の第302回(2009年2月24日から3月4日まで)として掲載した記事の再掲載です。かなりの時間が経過したこともあって、一部を修正しております。なお、写真撮影日は2008年9月7日です。〕
さて、秋月城址を出て、秋月八幡宮まで自転車を走らせることとしました。城址から近いのですが、城址から八幡宮まで向かう観光客は見当たりません。もっとも、これは私が訪れた日がそうであったというだけの話ですので、恒常的にそうであるかどうかはわかりません。
桜ノ馬場の南端に、八幡宮への入口があります。その右側に、このような由来の案内板があります。
平安時代の940年の前後に、瀬戸内海で藤原純友の乱がありました。天慶の乱とも言われており、関東で起こった平将門の乱(承平の乱)とともに、律令国家の崩壊、地方武士の台頭を如実に示す事件と評価されています。当時は摂関政治が行われていたのですが(但し、まだ藤原道長は生まれていません)、この摂関政治というものは、或る意味で日本の歴史の中で最も政治というに相応しくないような政治ですから、平安京の外では弛緩していたことでしょう。そのようなところに、貴族であった藤原純友が乱を起こしたのですから、中央は大変な状況であったはずです。しかも、摂関政治では全くの無策に終わっていたというのです。もしかしたら、日本の政治の悪い部分は、相当程度、平安時代に端を発するものかもしれません。
その乱は、結局、武士によって平定されました。そして946年に秋月八幡宮が建立されたといいます。現在の姿になったのは江戸時代になってからである、ということのようです。
ここから坂道を登り、秋月八幡宮へ向かいます。入口だけを見ていると林道のようです。大分市内にもこのような感じの林道がありました(鳥居はありませんが)。いや、林道だけでなく、市道などでもこのような道路があったりするのです。「大分市は中核市だよな」と頭の中で確認しないと、どこを走っているのかわからなくなります。
何せ、県道41号線(大分大野線)という、大分県でも屈指の、道幅が極端に狭い悪路の県道が、この写真のような感じなのです。大分大学の裏のほうからふじが丘に出て、その西端から県道41号線に入り、南へ進むと急に道幅が狭くなり、やっと車が一台通れるかどうかというくらいの幅になるのです。私が持っていた5ナンバーの車でもきつかったので、3ナンバーでは無理でしょう(今は多少改善されているそうですが、どこまでなのかはわかりません。なお、県道41号の全線が悪路である訳ではありません)。
途中の道から山林を撮影してみました。下のほうに池があります。溜池かもしれませんが、水面は藻などで埋め尽くされています。このような場所にはよくある光景である、とも言えるでしょう。
八幡宮に到着しました。それほど大きくはないのですが、立派な神社です。しかし、ほとんど人はいません。通常の観光ルートから外れているのでしょうか。私が甘木鉄道甘木駅前の観光センターでもらった絵地図でも、八幡宮が紹介されていません。
秋月八幡宮の本殿です。ここで参拝することとしますが、その前に一枚、ということで撮影しました。 時間としては、もうお昼に近い頃でしたが、静かで、非常によい雰囲気です。
ここで参拝を終え、また秋月城址へ戻ることとします。