〔今回は、「待合室」の第289回(2008年10月20日から28日まで)として掲載した記事の再掲載です。かなりの時間が経過したこともあって、一部を修正しております。なお、写真撮影日は2008年9月7日です。〕
甘木鉄道甘木駅の隣にある観光案内所で自転車を借り、5キロメートル以上は離れている秋月城址へ向けて走り始めました。コースについては、事前に或る程度の確認をしていますが、当日、絵地図をもらい、それを見ながら走りました。もっとも、甘木駅から秋月城址までの道は、基本的に国道322号線を北上するだけで、非常にわかりやすいので安心です。
街中は快走でしたが、市街地を出ると少しずつですが登り坂になります。数ヶ月ぶりに自転車に乗ったこと(通勤の際には自転車を使いません)、借りた自転車の変速機能が上手く作動しないことなどで、少し苦しくなりました。もっとも、甘木駅前でバスを待っていても時間の無駄でしたし、結果的にバスを使うよりも早く着きました。
東京の23区地域や川崎市内などであれば、たとえ距離計がなくとも、どの程度の距離を走ったのかについては大体の推測がつきます。福岡市内も同様です。これは、自分が住んでいる地域であるから、あるいは、通いなれている所であるから、ということかもしれません。しかし、私が全く、あるいはあまり訪れたことのないような地域であっても、市街地であれば距離感をつかむことはできますが、市街地を離れてしまうと距離感がつかめなくなります。朝倉市もそのような場所です。甘木駅周辺であれば、大体の距離感はつかめますが、市街地を離れるとわからなくなるのです。もしかしたら、これは道路の案内標識の有無などによるのかもしれません。 電信柱を頼りにすればよいのかもしれませんが、いちいち何本目などと数えてはいません。
駅前を離れると、しばらくの間は静かな住宅地の中を走っています。だんだん、遠くに見えていた山々が近くなってきます。そして民家が少なくなってきて、3キロメートルくらいは走ったのだろうと考えられるようになります。甘木駅から秋月城址までの、ちょうど真ん中あたりになってきたでしょうか。
左右に畑が広がります。何を栽培しているかはよくわかりませんが、西鉄甘木線の沿線からこの辺りまでは、このような耕地をよくみかけます。福岡県産の野菜は関東地方でもよく売られていますが、上の畑で栽培されているものも関東地方に出荷されているかもしれません。
鉄道路線を使って甘木へ来たのは、2001年2月11日以来、およそ7年7か月ぶりのことですが、その後も自動車でなら甘木に来たことがあります。とは言っても、天神へ遊びに行った時の帰り道の途中が多く、夕方や夜に通るだけという感じでした。買い物をしたこともありますが、それは大分自動車道甘木インターチェンジのそばにある大型ショッピングセンターでのことでした。そのようなこともあって、この辺りは全く初めてです。
持丸交差点です。同じような名称の交差点が別に存在しますが、この交差点は、杷木や日田、それもサテライト日田建設予定地があった南友田を通る国道386号線との交差点ではありません。
写真の奥のほうが甘木駅方向で、朝倉市役所のそばを通る県道112号線との交差点はこの先にあります。私は写真の方向とは逆に進んでいるのですが、何となく、既視感(フランス語でいうdéjà vu)にとらわれ、撮影したのでした。
国道322号線を通っていますが、ここは国道500号線のルートでもあり、西鉄甘木線馬田駅付近から重複しています(2本以上の国道が同じルートを通ることは珍しくありません)。私が目指す秋月城址の手前に長谷山交差点があり、そこで322号線と500号線が別れます。
この国道500号というのが、私にとってはまんざら無縁でない道路です。起点が別府市であるため、大分市に住んでいた頃には時々走っていたのです。別府市を出ると日出町、宇佐市の旧安心院町地域や旧院内町地域を通り、中津市の旧耶馬溪町地域を通ります。旧安心院町地域であったか旧院内町であったか、よく覚えていませんが、19時過ぎに車を走らせ、NHK第一放送を聴こうとすると、大分放送局の内容はいくらやってみても入らず、その代わりに594キロヘルツ、つまり東京の放送がよく聴こえるのです(ローカルニュースですぐにわかります)。2003年4月17日、旧耶馬溪町のサニーホールで「市町村合併のメリット・デメリット」という講演をさせていただいた後、自宅へ帰るために国道500号を使ったこともあります。とにかく暗く、街灯もなければ民家からの燈もないような場所をひたすら走ったことを思い出します (考えてみれば、夜なのだから当たり前なのですが、いかに燈の多い場所に生まれ育ったかがわかるというものです)。
それはともあれ、秋月城址へ向けて走ります。国道386号線との交差点を過ぎたあたりから、民家がさらに少なくなり、少しばかりですが登り勾配が続きます。
長谷山交差点を抜け、国道322号は山道に入ります。そのすぐ手前に秋月城址への案内板がありますので、右折します。旧家と思われる家屋敷が並び始め、しばらくすると急な坂になります。坂はしばらく続きますが、自転車で登り続けます。すると、秋月城址に連なる城下町に入ります。
もしかしたら途中でバスに抜かされるかもしれないと思っていたのですが、そうなることなく到着しました。自転車で来て正解でした。しかし、私の他に、そのような観光客はおりません。そもそも、観光客の多くは自家用車を利用していますし、地元の人でも、この辺りの地形などを考えると自転車を利用する率が低いでしょう。実際、私が自転車で走ってきたことに驚きの目を向けた観光客がいました。
自動車も走ることができる(但し、幅は狭い)道路のそばに橋があります。目鏡橋です。眼鏡橋ではありません。福岡県が有形文化財に指定しています。
長崎市内にある眼鏡橋によく似ていると思ったら、 その長崎から招かれた石工が築いたとのことです。時は文化7年といいますから、西暦に直せば1810年のことになります。秋月藩の家老であった宮崎織部が築かせました。長崎の眼鏡橋ほど湾曲の度合いが強くない ようにも思えます。
私は目鏡橋の上を通っていませんが、歩行者などは通ることができます。下を流れているのは野鳥川です。長谷山交差点近くで小石原川に合流します。
自転車からこの橋を見て、すぐに長崎市へ行った時のことを思い出しました。たったの一度だけ、2001年12月22日の夕方から24日の夕方まで滞在したのですが、九州でもとくに強い印象を受けた場所でもあります。また行ってみたいと思っています。
それにしても、福岡県、さらに九州は、私のような関東人が引きつけられる何かを持っているような気がします。2008年9月に福岡ソフトバンクホークス監督の辞任を表明した王貞治氏が、福岡に本拠地を置くプロ野球団の監督を 実に14年間も務められたことは、驚きでもあるとともに、私にとっては理解できるような気がするのです。勿論、私の勘違いかもしれません。しかし、福岡、さらに九州が王氏の心の何かをとらえていたと考えられないでしょうか。実際、辞任表明の際に「九州は第二の故郷」という言葉を口にされていました。また、王監督は福岡市内のあちらこちらで食べ歩きなどをなさっていた、という話を耳にしたことがあります。 さぞ、美味いものをたくさん見つけられたことでしょう。普段は食べ歩きなどに関心を持たない私も、集中講義の際に必ず入る店を天神、藤崎、大橋などにいくつか見つけました。
話の方向がずれました。この橋を越えた辺りから、いよいよ本格的に城下町に入るということで、登り坂も苦ではなくなります。趣のある家屋も多く、歩く価値は大きいと思います。こういう場所を車で走るなんて勿体無い話であって、せめて自転車、できれば徒歩でどうぞ (但し、バスの発着時刻などに御注意を)。
城下町の通りをしばらく進むと、秋月城址への入口に着きます。道はまだ、勾配のまま続いておりますが、目的地から外れてもあまり意味がないので、ここで右折します。先ほどまで走っていた国道322号線の車の少なさが嘘のようです。秋月郷土館に行くにも、この写真に登場する橋を渡ります。
私が福岡県を訪れるのは、大分時代とは異なり、第一に西南学院大学での集中講義という仕事のためでしたので、時期が限られます。そのために見られないので残念なのですが、ここから先の500メートルほどは杉ノ馬場といい、桜の名所です。時期が来れば桜の花のトンネルができるという訳です。
さて、この橋を越えて、いよいよ歴史に触れることとなります。