浄土真宗本願寺派本山である、京都・西本願寺の別院として開かれた築地本願寺。
元々は日本橋横山町にあり浅草御坊と呼ばれていましたが、
明暦の大火後に代替地として大川(隅田川)河口沖が下付され、
海を埋め立て土地を築いた事から「築地」御坊と呼ばれるようになりました。
当時の本堂は南西向きに作られ、現在の築地場外が門前町となりました。
門前には海軍大學校などがあり、この軍用地が後に築地市場となります。
場外市場の一部が「もんぜき通り」と呼ばれるのは、本願寺門前町に由来しています。
関東大震災後の火災で伽藍が焼失したため、昭和九(1934)年に
当時の法主大谷光瑞伯爵の発願、伊東忠太の設計で新たに再建されました。
この際、古代インド様式の本堂の向きは北西に変わりました。
戦前の宗教建築としては珍しくRC造(鉄筋コンクリート)で、
ふんだんに大理石彫刻がほどこされています。
現在では西本願寺別院から、西本願寺唯一の直轄寺院となり
本堂は国の重要文化財に指定されています。
元々は日本橋横山町にあり浅草御坊と呼ばれていましたが、
明暦の大火後に代替地として大川(隅田川)河口沖が下付され、
海を埋め立て土地を築いた事から「築地」御坊と呼ばれるようになりました。
当時の本堂は南西向きに作られ、現在の築地場外が門前町となりました。
門前には海軍大學校などがあり、この軍用地が後に築地市場となります。
場外市場の一部が「もんぜき通り」と呼ばれるのは、本願寺門前町に由来しています。
関東大震災後の火災で伽藍が焼失したため、昭和九(1934)年に
当時の法主大谷光瑞伯爵の発願、伊東忠太の設計で新たに再建されました。
この際、古代インド様式の本堂の向きは北西に変わりました。
戦前の宗教建築としては珍しくRC造(鉄筋コンクリート)で、
ふんだんに大理石彫刻がほどこされています。
現在では西本願寺別院から、西本願寺唯一の直轄寺院となり
本堂は国の重要文化財に指定されています。