CHICAGO LIVE IN JAPAN
見開き紙ジャケット仕様(エンボス加工、2枚組、最新リマスタリング、全21曲収録)
初のリリースから40年、待ちに待った幻のライブ・アルバムの登場です。
LP廃盤後(1枚組の編集盤も発売)、テイチク、そして海外ではCHICAGOレーベルからCD化されていますがその後、ずっと再発されることもなく国内外で目玉の飛び出そうなくらいの超高値で取引されていたマニア垂涎のアルバムです。
録音会場は大阪フェスティヴァル・ホール(1972年6月10,11&14日。武道館はコンサート用の会場ではないので当たり前ですが音が悪く、観客のノリが圧倒的に大阪の方が良いと評判だったためにここに決定。他のバンドのライブ盤も大阪音源が多いのはそういう事情があるようです)。
シカゴ人気が最高に火を噴いていた時期、1971年に引き続いて2度目の来日が決定。
ところが年明け早々にロバート・ラムが伝染性肝炎を患い、ちょうど3ヶ月後に延期となった公演がこの音源です。
とにかくその当時このアルバムに関わったスタッフの皆さんによる証言が秀逸。
シカゴはデビューから3作立て続けに2枚組アルバムを発表、更には初のライブアルバムに至っては音楽の殿堂カーネギーホール4枚組というボリューム(当時、この7800円を捻出するべくマサとケンジはアルバイトに汗を流したのでした。オイルショックの煽りで後にプライス・シールが帯価格のところに貼られて8600円になっていましたが・・・中高生ファンにとってシカゴのアルバム購入は毎回辛かった)。
しかし当のシカゴはこのライブLPの内容にはひじょうに不満を持っていたらしく(音質、演奏、価格など)それは日本のレコード会社スタッフも感じていたそうです。
それならばここ日本でもっといいライブアルバムを作りたい!とダメもとでオファーしたらすんなりとオーケー!
それからは怒濤の勢いで準備に終われる日々、機材の調達、レコーディング・エンジニアの依頼、シカゴ・サイドとの打ち合わせ、ジャケットの構想・・・。
今回の解説で、今まで不明だった部分や間違った解釈をされていた箇所が数多く解き明かされています。
また笑える部分や涙なしでは読めない感動秘話も満載。
よくぞここまで・・・という思いがこみ上げてくること請け合い。
これ以上細かいことはここに記載しませんが読み応えある内容、ちゃんとアナログ当時の帯、レーベル面、インナースリーブも復活、また公演チケット数枚や告知チラシ、雑誌表紙を掲載したブックレットまでもが封入されています。
音質も格段に向上していて、以前にはあまり聞こえてこなかった音(各楽器の分離が感動的)が鮮明に飛び出してきます。
シカゴのメンバー達もこのアルバムを絶賛しているほどで、ディープ・パープルの「ライブ・イン・ジャパン」と双璧をなす傑作と言えるでしょう。
MCも可能な限りどのメンバーがナニをしゃべっているのか・・・まで説明入り。
数多くの紙ジャケットCDが毎月のように発売されていますが、シカゴのこのシリーズは他の追随を許さないくらいの力作だと自信を持って公言しますよ、絶対に買って損なし。
さて肝心の内容ですが「シカゴⅤ」発売前の来日なのにその中の新曲を前半に4曲も披露。
もちろん「サタディ・イン・ザ・パーク」も初お披露目。(このイントロにおけるエピソードはコアなファンならご存じのはず)
「ロウダウン」「クエスチョンズ67&68」の日本語ヴァージョンもしっかりと収録(ピーターのたどたどしい歌いっぷりが微笑ましい。武道館では英語歌詞)
「シカゴ11」までずっと正式にスタジオ録音されなかったテリー入魂の「ミシシッピー・デルタ・シティ・ブルース」
定番の組曲、ヒット曲オンパレード、メンバー各自の熱いソロバトル、大阪なのでやたらに「おおきに!!」を連発したりのサービス満点。
そして後半は各曲がスタジオヴァージョンよりも長尺演奏。スピーカーから汗ほとばしり出そうなくらいの迫力、アンコールメドレーに突入します。
こんな物凄いアルバムが何故ずっと正式にシカゴの中でナンバーを貰えないのか未だに不思議です。
これ以降、海外アーティストによる「ライブ・イン・ジャパン」ブームが勃発、
その火付け役をになった功績をもっと評価しましょう。
いやはやなんとも、この頃のシカゴはロック界最前線を勢い良く突進していたんだよ。