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・ママでいられたのは、112日。だが「温もり」は忘れない、忘れるはずなんてない。
・主治医からのメール
「もし、出産を諦めて、乳がんの治療に専念したとしても、残念ですが、余命は大きく変わらなかったと思います。だから、奈緒さんは、子供を授かり、清水さんとの息子さんを産むことができて、お母さんになれて、息子さんを残せたことが『奇跡』で、その喜びを経験できて幸せだったと
思います」
・ところが奈緒は、「トリプルネガティブ」だった。5つのサブタイプの中で、最も悪性度が高く進行の早いタイプで、乳がん全体の割合で言うと、わずか約2割。薬物療法の効果が期待しにくいともされている。
・「あれがほしい」とか、「これを買って」とかを一切、口にしなかった妻だ。その妻が、初めて、はっきりと僕に目で語りかけていた。
「産みたい」
・治療方針も定まった。
手術⇒抗がん剤⇒「出産」⇒CT・MRI⇒抗がん剤タキサン⇒放射線治療
・「トリプルネガティブの乳がんで転移があるということは、そういうことじゃないんだよ。もって3か月、そう思ってほしい」
・僕は毎晩、大阪病院に泊まった。一緒の病室に泊まるのは、奈緒が入院して以来、ずっと続けている習慣だ。僕は病院から会社に出社し、入れ違いに、僕の親が息子を病室に連れてくる。そして、僕が仕事が終わると、会社から病院に直行し、親とバトンタッチし、家族3人の時間を過ごす。夜9時過ぎに息子をいったん自宅に連れ帰り、親に預ける。僕はそのまま病院にとって返し、奈緒と病室で一緒に過ごす。奈緒の存在を感じながら、僕はソファで横になった。その繰り返しが1か月以上続いた。
・「休ませてもらえませんか」
チーフプロデューサーの坂さんと何度、話し合ったことだろう。
でも僕は番組を続けた。奈緒が、僕がテレビ画面に映るのを楽しみにしてくれていたから。奈緒のお母さんによると、「ten」の時間になると、奈緒はテレビをつけてと、頼んだという。どんなに辛くても、奈緒は、画面の中の僕を目で追った。
奈緒が僕を支えてくれていた。そうじゃなかったら、僕はとうの昔に折れていた。
・奈緒は、一度も自分の病状を尋ねなかった。
奈緒のほうが怖かったはずだ。不安だったはずだ。でもそれを全く出さない。それどころか、息子に、僕に、とびきりの笑顔を見せる。
大阪病院の担当医・木村医師が弔辞に書いてくださった言葉がある。
「副作用の強い治療中も、まわりに心配をかけないように、愛らしい笑顔で穏やかに過ごされた奈緒さんの御姿と、ご一緒に全力で闘うご主人様の姿勢は、私たち医療従事者の心を打つものでした。私たちに病状を一度もといただすこともなく、ただただご主人である清水さんについていかれ、そして、お子さんを愛される姿は忘れることができないものです。恐らくすべてをご理解されていたことと思います。でも奈緒さんはご主人様を信じていらっしゃった」
・でも、奈緒は抗がん剤を打ちたかった。それが唯一の生きる術だとわかっていたから。
・「奈緒、ホスピスに行こうか」とは言えなかった。
本人がどれだけわかっていようが、息子を産んで、ママになってまだ3か月も経っていないのだ。
そこでたどりついたのが、神戸のポートアイランドにある、小児がん専門治療施設「チャイルド・ケモ・ハウス」だった。
「チャイルド・ケモ。ハウス」の楠医師に頭を下げて、事情を話した。先生もわかってくれて、その時に備え、容態の確認も含め何回か家にも往診に来てくれた。
・医療用麻薬とステロイドだ。もうこれしか痛みに効かなかった。医療用麻薬とステロイドで意識障害が早く進む危険性がある。
苦しませず、怖がらせず、痛がらせず。
愛する妻に、愛する息子のママに、今の僕にできることはそれしかないと思っていた。
奈緒をこれ以上苦しませたくない。
奈緒の苦しみを見ていたくない。
「先生、お願いします」
・相談していたハイヒール・リンゴさんは、「テレビに出ている人間が、番組を休むということはどういうことかわかっているよね。一度、休んだら戻れない可能性。あんたは、キャスターとして、本当にそれでもいいんやな?」と、何度も心配し問い続けてくれていた。最後に、電話で「休むと決めました」と伝えた日、リンゴさんは局の近くの喫茶店に来て、「ten」の終わる時間まで待っていてくれた。僕の話を聞いたリンゴさんは泣きながら、「わかった、今からシミケンの家行くわ」と言って、家まで来てくれた。
リンゴさんは奈緒に、「シミケンが仕事休むのは、逃げたわけじゃないからね。決してあんたたちは不幸じゃない。あんたたちは幸せなんだから。こんなかわいい子供がいて」と言って玄関を閉めた。
・それでも僕が話をお聞きし、一緒に涙を流すことで、少しでも前を向いていただけるならば・・・。
それが今の僕にできること。やらなくてはならないこと。妻からの宿題だと思っている。
・僕はもう一度、チャンスをもらった(復帰)。
それには全身全霊で応えなければ。と思う。
きっと奈緒がいてもそう言うだろう。
・もし、闘病している方が近くにいらっしゃるならば、僕は、
「一緒にないてあげてください」
いや、
「一緒に泣いてもいいんですよ」と伝えたい。
・今、振り返って思います。
「寄り添う」、この言葉の本当の意味とは何なのか。
悩み、苦しみ、悲しみ、不安、喜び、本人が一番辛い。じゃあまわりは何ができるのか。「一緒」に悩み、苦しみ、悲しみ、喜び、笑い、泣く・・・。そして、「一緒」に未来を信じ、共に「今」を生きる。
感想;
寄り添う。
ロゴセラピーではバイザイン、傍らにいる。
一緒に悲しみ、一緒に存在する。
シミケンさんの心の中には、今も奈緒さんが寄り添っておられるのだと思います。
清水健アナ 毎日亡き妻の写真に話しかけ、その笑顔に幸せを感じる
https://news.yahoo.co.jp/articles/892d6e59df652c005c687d009cf4b1c6ba809cfc
・ママでいられたのは、112日。だが「温もり」は忘れない、忘れるはずなんてない。
・主治医からのメール
「もし、出産を諦めて、乳がんの治療に専念したとしても、残念ですが、余命は大きく変わらなかったと思います。だから、奈緒さんは、子供を授かり、清水さんとの息子さんを産むことができて、お母さんになれて、息子さんを残せたことが『奇跡』で、その喜びを経験できて幸せだったと
思います」
・ところが奈緒は、「トリプルネガティブ」だった。5つのサブタイプの中で、最も悪性度が高く進行の早いタイプで、乳がん全体の割合で言うと、わずか約2割。薬物療法の効果が期待しにくいともされている。
・「あれがほしい」とか、「これを買って」とかを一切、口にしなかった妻だ。その妻が、初めて、はっきりと僕に目で語りかけていた。
「産みたい」
・治療方針も定まった。
手術⇒抗がん剤⇒「出産」⇒CT・MRI⇒抗がん剤タキサン⇒放射線治療
・「トリプルネガティブの乳がんで転移があるということは、そういうことじゃないんだよ。もって3か月、そう思ってほしい」
・僕は毎晩、大阪病院に泊まった。一緒の病室に泊まるのは、奈緒が入院して以来、ずっと続けている習慣だ。僕は病院から会社に出社し、入れ違いに、僕の親が息子を病室に連れてくる。そして、僕が仕事が終わると、会社から病院に直行し、親とバトンタッチし、家族3人の時間を過ごす。夜9時過ぎに息子をいったん自宅に連れ帰り、親に預ける。僕はそのまま病院にとって返し、奈緒と病室で一緒に過ごす。奈緒の存在を感じながら、僕はソファで横になった。その繰り返しが1か月以上続いた。
・「休ませてもらえませんか」
チーフプロデューサーの坂さんと何度、話し合ったことだろう。
でも僕は番組を続けた。奈緒が、僕がテレビ画面に映るのを楽しみにしてくれていたから。奈緒のお母さんによると、「ten」の時間になると、奈緒はテレビをつけてと、頼んだという。どんなに辛くても、奈緒は、画面の中の僕を目で追った。
奈緒が僕を支えてくれていた。そうじゃなかったら、僕はとうの昔に折れていた。
・奈緒は、一度も自分の病状を尋ねなかった。
奈緒のほうが怖かったはずだ。不安だったはずだ。でもそれを全く出さない。それどころか、息子に、僕に、とびきりの笑顔を見せる。
大阪病院の担当医・木村医師が弔辞に書いてくださった言葉がある。
「副作用の強い治療中も、まわりに心配をかけないように、愛らしい笑顔で穏やかに過ごされた奈緒さんの御姿と、ご一緒に全力で闘うご主人様の姿勢は、私たち医療従事者の心を打つものでした。私たちに病状を一度もといただすこともなく、ただただご主人である清水さんについていかれ、そして、お子さんを愛される姿は忘れることができないものです。恐らくすべてをご理解されていたことと思います。でも奈緒さんはご主人様を信じていらっしゃった」
・でも、奈緒は抗がん剤を打ちたかった。それが唯一の生きる術だとわかっていたから。
・「奈緒、ホスピスに行こうか」とは言えなかった。
本人がどれだけわかっていようが、息子を産んで、ママになってまだ3か月も経っていないのだ。
そこでたどりついたのが、神戸のポートアイランドにある、小児がん専門治療施設「チャイルド・ケモ・ハウス」だった。
「チャイルド・ケモ。ハウス」の楠医師に頭を下げて、事情を話した。先生もわかってくれて、その時に備え、容態の確認も含め何回か家にも往診に来てくれた。
・医療用麻薬とステロイドだ。もうこれしか痛みに効かなかった。医療用麻薬とステロイドで意識障害が早く進む危険性がある。
苦しませず、怖がらせず、痛がらせず。
愛する妻に、愛する息子のママに、今の僕にできることはそれしかないと思っていた。
奈緒をこれ以上苦しませたくない。
奈緒の苦しみを見ていたくない。
「先生、お願いします」
・相談していたハイヒール・リンゴさんは、「テレビに出ている人間が、番組を休むということはどういうことかわかっているよね。一度、休んだら戻れない可能性。あんたは、キャスターとして、本当にそれでもいいんやな?」と、何度も心配し問い続けてくれていた。最後に、電話で「休むと決めました」と伝えた日、リンゴさんは局の近くの喫茶店に来て、「ten」の終わる時間まで待っていてくれた。僕の話を聞いたリンゴさんは泣きながら、「わかった、今からシミケンの家行くわ」と言って、家まで来てくれた。
リンゴさんは奈緒に、「シミケンが仕事休むのは、逃げたわけじゃないからね。決してあんたたちは不幸じゃない。あんたたちは幸せなんだから。こんなかわいい子供がいて」と言って玄関を閉めた。
・それでも僕が話をお聞きし、一緒に涙を流すことで、少しでも前を向いていただけるならば・・・。
それが今の僕にできること。やらなくてはならないこと。妻からの宿題だと思っている。
・僕はもう一度、チャンスをもらった(復帰)。
それには全身全霊で応えなければ。と思う。
きっと奈緒がいてもそう言うだろう。
・もし、闘病している方が近くにいらっしゃるならば、僕は、
「一緒にないてあげてください」
いや、
「一緒に泣いてもいいんですよ」と伝えたい。
・今、振り返って思います。
「寄り添う」、この言葉の本当の意味とは何なのか。
悩み、苦しみ、悲しみ、不安、喜び、本人が一番辛い。じゃあまわりは何ができるのか。「一緒」に悩み、苦しみ、悲しみ、喜び、笑い、泣く・・・。そして、「一緒」に未来を信じ、共に「今」を生きる。
感想;
寄り添う。
ロゴセラピーではバイザイン、傍らにいる。
一緒に悲しみ、一緒に存在する。
シミケンさんの心の中には、今も奈緒さんが寄り添っておられるのだと思います。
清水健アナ 毎日亡き妻の写真に話しかけ、その笑顔に幸せを感じる
https://news.yahoo.co.jp/articles/892d6e59df652c005c687d009cf4b1c6ba809cfc
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