・精神分析に限らず、多くの心理療法は「実感」を利用する。「実感」を扱うことは心理療法の中核的なプロセスの一つである、と言ってもけっして過言ではないだろう。・・・
しかし、「心の実感」とはいったいどういう現象なのか、どう扱うのか、どうしてそれが人の成長につながっていくのか、本書ではこれからこのような課題を考えていく。
・「身体感覚に聞いてみる」ことが少なくなってくる。身体感覚に照会しないまま、時間だから食堂に駆け込み、いつもどおりに「定食」を注文する。このように身体感覚を無視した行動は身体感覚を鈍感にさせていくのである。
池見西次郎は、このように身体感覚が鈍感になった状態を「失体感症」と呼び、これが「失感情症」と関連していると考えるのである。
・ロジャーズはクライエントの話に耳を傾け、それを心理学者としてではなく、一人の人間として「わかる」まで聴くことに専念した。そして、それに加え、一人の人間として、クライエントの話を聴きながら、実感したことを素直に伝えるように試みたのである。このような発想に基づいたやりとりを想像して、再現してみよう。
Cクライエント 上司と話すとき、不安、というか・・・ある種の緊張感があるんです。以前には、そういうことはなかったのに。今年に入ってから、起こるようになったんです。
Sセラピスト ある上司の方と話すとき、あなたは、ある種のの不安、というか緊張を体験する。それは何だろうか、と考えているのですね。
C そうです。何か不安になるんです。
S あなたは、その感じが「不安」であるかのように実感している。
C 不安というよりも・・・自信がないんですね・・・仕事がうまく進んでいるときは、自信があるせいか、こんな不安感は感じたことがなかったんです。・・・そう・・・そういえば、最近は、何か自信がなくなってきているような気がするのです。
S それは、上司、というよりも、あなたの「自信」と関係している。
C そうかもしれません。そういえば、上司と話すときだけじゃなくて、他の管理職の人たちと会議なんかで話すときも、ちょっと何か言われると、こたえるというか・・・、
S なぜ自信を失っている自分がいる、そしてそのことが、この不安と関連している・・・。
このように、ロジャーズはけっして、「あなたの問題はの正体は〇〇〇〇なんですよ」といった診断や助言をしないのである。むしろ、上記のように、クライエントの話をきっちりと理解しながら傾聴し、理解したことを言い返していくのである。
・人は人間関係の中で傷ついたり成長したりする。人が成長するとき、それは人との関係によるものなのである。
・ロジャーズは「カウンセリング」という特殊な関係だけが人を変えるとは述べていない。親子関係であれ、友人との関係であれ、職場の人間関係である、ある条件を満たした人間関係がそこにあれば、人はより自分らしく生き、成長すると考えたのである。
・ロジャーズはカウンセリングという特殊な人間関係には三つの「カウンセリング・マインド」があるとした・
①「一致」と「不一致」
②「共感的理解」
③「無条件の肯定的関心」(受容)
・彼女はいつも定刻に来た。セーラー服を着た十六歳の高校生である。セーラー服は着ていたが、学校には行っていない。それが彼女の問題、不登校である。・・・
しばらく聴いているうちに、私は取り残される感じがしてたまらなくなってきた。これはモノローグだった。いなくても、同じような調子で一週間の様子を彼女は語るように思えてきた。この報告のような語りには「心の実感」の描写がまったくといっていいほど現れていない。これは一週間の行動報告なのである。
私は質問を入れてみる。「友達から電話があったとき、何を感じたの? どんなかんじがしたの?」
彼女の答えはそっけない。「別に」
<「実感」を誘う質問は拒否なのか>と私は勝手に考えてみる。そして次に「テレビ、何見たの?」
「別に」
「実感」を促す質問だけではない。すべての質問についても同じだった。その後、とにかく何をどう質問しても、答えはすべて同じ--「別に」。何もなかったように、彼女はどんどん語りを続けていった。
これはいったいどういうことなのか、私は彼女の話を聴きながら、いろいろな可能性を考えてみた。病態水準はどうなのか<少し精神病的な傾向なのだろうか>? それも考えにくい。それとも、面接に来るが、本当は親の圧力で来ているだけで、本人には来談の意志がないのか? それにしても、礼儀正しく、定刻に来てよく話すところをみると、そうとも思えない。私との関係を、いったどうとっていくつつもりなのか? ・・・?
そんなことを考えながら、私はなるだけ温かく、関心をもって彼女の話を傾聴していた--いや、本当は傾聴しているツモリだった。というのは、実のところ、彼女のモノローグが三十分を過ぎるころ、私に向かって、たまらない眠気が襲ってくるのがわかるからである。職務怠慢のようで、これを書くのは少し気がひけるが、面接開始後三十分ごろの私の体験では、ストーブの上のやかんの音と彼女の小さな声が入り交じって錯覚し始める。ストーブに面している私の身体の片面では、心地よい温もりが身体を襲い始める。瞼はまるでウエイトで引っ張られるように、地球の引力を感じ始める。「いかん」と思い、これと戦う。彼女の話を聴きながら、私の中で戦いが始まるのである。
恥ずかしい話だが、二、三回の面接はこのように進んだ。今日はもっと質問に答えてくれるのではないだろうか、今日は何とかモノローグからダイアローグ(対話)に発展しないだろうか。などと期待しつつも、その期待は、彼女の「別に」という短い応答によって断ち切られていった。
とうとう、四回目。この辺でなんとかしなければならない、と私は焦り始めた。これ以上これが続くと、私にとっても負担感が生じてくるだろうし、彼女も治療を打ち切るのではないかと考えた。何をどうすればいいのだろうか。何に、どう応答しても「別に」が返ってくるのだ。
ここで私の中で「自己一致」のことが浮かんできた。私は、まったく「不一致」の状態に陥っている。温かく聴いているフリをしながら、実際に感じているのは「退屈? 眠気?」。
思いきって、私が実感していることを彼女に伝えることが「自己一致」への道であるように感じられてきた。
私の感じているのは何だろう? 退屈という言葉では正確ではない。その回、私は彼女の話を聴きながら、私に何が感じられるのか、「私の実感」に静かに焦点を当てていた。
そうしてみると、彼女といるときの私の心の実感は複雑なものだった。簡単に「退屈」などと思ってしまえるようなものではなかった。まず、<彼女の話が身近に感じられない?こと。それに関連する<焦りのような感じ>、次に、そのことを彼女に言うと彼女を傷つけてしまうのではないか、という<臆病な感じ>、というよりも<とてもデリケートなものに触る感じ>がしていた。そこで、私は彼女にこれからすべて打ち明けることにした。
「ねえ、ちょっとここであなたの話を中断するようだけど、僕が感じていること、言ってもいい?」というように切り出して、私の実感を伝えてみた。彼女の目は急にキラキラと輝き出したような印象を受けた。大丈夫だった。それどころか、今度は彼女が本当のところを打ち明けてくれた。
実は彼女は面接の前の夜、面接の一時間で話す内容をすべてリハーサルしているのだった。話す内容を考えて、暗記する。時計を見ながらそれを一人で言ってみる。時間があれば、内容を変えて、もう一度リハーサル。時間が足りなければ、内容を一部削除して、もう一度リハーサル。つまり、ここで話していることは、すべて暗記されたものの復唱だった。退屈するはずである。よほどの名女優でない限り、このようなモノローグが相手の心を引きつけるわけがなかった。
そして、この面接が彼女の治療過程の一つの転機になった。もう暗記された内容はでてこなくなった。それどころか、この「暗記面接」が実は彼女の問題の核心であることもわかった。学校では、友達との人間関係で、彼女は全てを準備しているのだった。自発で突発的な出会いができないで苦しんでいたのである。面接の場面場面で、彼女はすべてを準備いているのだった。自然で突発的な出会いができないで苦しんでいたのである。面接の場面場面で、彼女は何を感じて、話したくなるのか、私は聴いていて何を感じて、話したくなるのか。その後の面接では、私たち両者が自己一致して、その場を生きることが課題となってきた。
そういう面接が後二十回ほど続いた。徐々に彼女は自発的に感じたことを話せるようになってきた。友達といるときに緊張してしまうことや、人から関心を向けられることは嬉しくても、自分から人に対して、どう関心表現したらいいのかわからないことなどの話題が面接の中心になってきた。どのように自分を表現したらいいのか、私たちは一緒に考えるようになってきた。そのような面接過程の結果、彼女勇気を出して学校にいき始めた。面接で一緒に「かかわり方」を考えた成果が現れたのか、学校では、友達との関係も徐々に深まり始めた、そして修学旅行をきっかけに、彼女はついに不登校状態を過去のものにすることにできたのである。
・一人で、あるいは人と一緒に、実感を見つめるたびに、私たちは冒険をしている。自分のなかの実感に問いかけた結果として、私たちは、歴史に残る詩や音楽、芸術作品を生み出すことがあったり、自分のことや友人のことが新たな角度から見え、本当にいとおしく見えることもあったり、また、今週末どう過ごしたいかといった、ごく日常的なことがわかる場合もある。私たちは毎日、内なる冒険の縁に立っているのである。
その禅師の ところに仏教 哲学者が話を聞 きに行 きました. そこで禅師は 「哲学の話をする前に, お茶 を飲みましょう」といいました. お湯が沸く間, 2人 は沈黙 しています. その沈黙の中で哲学の先生 はいろいろ考えています 「どの質問か ら始めようか」
などと…. とうとうお湯が沸いてお茶ができると, 禅師はその湯飲み を哲学の先生の前において, お茶 を注 ぐわけです. どん どん注いで, 湯飲みが一杯になったのですが, それでも注ぎ続ける, で, お茶もこぼれるし畳 も濡れ る, それでも注 ぎ続 けた, という講話があるんです. 哲学の先生が 「何 をしているんですか」と聞 くと,
禅師が こう答えます.「この器 と, あなたの頭は一緒です. もうすでにいっぱいです. 私が何 を注いでもこぼれるで しょう」. これ は私の好 きな講話で, カウンセ リン
グしなが ら, ときどき思い出します.
・傾聴は指示を求めるような話に対してではなく、話し手自身が何かを考えたり、感じたり、創造的な解決を見いだそうとするときに有効である。別の言い方をするならば、話し手自身が考えるように、話を展開させることが傾聴の第一のポイントであるといえるだろう。
感想;
この本はカール・ロジャーズの「来談者中心療法」とジェンドリンの「フォーカシング」から、傾聴について述べられています。
傾聴とは、話をただ聴くだけではなく、相談者に気付きを与える聴き方のようです。
何を身体で、何を心で、何を心身で感じているかの実感を感じるというか知ることがとても大切だと言われています。
違和感を感じたら、それは何か違っていたり、無理をしていたり、我慢していることがあるのかもしれません。
自分の心身の声を聴くこと。そしてその声を大切にすることが重要なのでしょう。
周りの目よりも、周りの評価よりも、心身の実感を大切にすることが良いようです。
私たちは自分の心身の声を聴くことがひょっとしたら鈍感になっているのか、心身の声よりも違うことを優先しているのか、聴いていないのかもしれないと思いました。
ただ、欲望を理性でコントロールすることはどんな時にも必要ですね。
そうしないと人生を台無しにしてしてしまうかもしれません。
わかっていてもなかなか出来ないですが・・・。
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