幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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「日本が生んだ偉大なる経営イノベーター小林一三」鹿島茂著 ”百歩先を読んで行動する!”

2021-09-01 01:01:44 | 本の紹介
・小林一三の企業家としてのスタートが1907年の箕面有馬電気軌道の設立と専務取締役だとすると、それは日本の人口状態が、死亡率が順調に低下していったのに対し、出生率は高止まりして自然増加率が最大になった第二期に相当していたということである。つまり、小林一三は、日露戦争後の若年人口がどんどん増加していく最も良い時期に箕面有馬電気軌道を始めたということなのだ。

・小林がこの鉄道が有望だと見抜いたのは、不動産の格安さであった。箕面有馬電気軌道を計画してから分譲地開発を思いついたのではなく、分譲地となるべき土地の安さと優良さに気づいていたがために箕面有馬電気軌道は行けると判断したのだ。まさに人口学的な発想というほかない。

・どんな経験であっても、まったく無駄というものはないのだ。計数の得意な創造的起業家という小林の特質は、三井銀行時代の下積みがなければ養われることはなかったのである。

・「少年音楽隊」をそのまま導入したのでは三越の模倣となってしまうから、少女唱歌隊→少女歌劇団としたというもので、これには十分正当性がある。

・「歌劇団」へのこだわり
1)「歌劇団」と銘打ったのは実に宝塚少女歌劇団が最初であったからである。
2)この歌劇団が演目のために臨時に編成された団体ではなく、その団員をゼロから育てる学校でもあったこと。

・北浜銀行は箕面有馬電気軌道乗っ取りの好機到来と見たのか、北浜銀行の持ち株をすぐに引き取れと言ってきた。小林に持ち株を引き受けるだけの資金がないと見越しての挑戦である。小林は断固、これを受けて立つことにした、乾坤一擲の大勝負である。
こうして小林は、図らずも箕面有馬電気軌道の大株主となり、「実質的社長」から「本当の社長」へと一歩近づいたのである。

・事業は無理してはいけない。病人に無理が禁物なやうに、事業も無理をしたら必ず失敗する。

・要するに阪神の方で、ひとを見くびってゐたことが、今日落伍することになった理由だ。あの場合先方に目のある人間がゐたら、現在のやうなことにはなってゐなかったらう。

・利益はお客に返しなさい
うなぎ屋の主人から渡された決算報告書を見た小林は、「相当に儲かっている。この上儲ける必要はない、これから、儲けをお客に返しなさい」といい、女中へのチップを廃止するように提言し、主人がチップは女中の給料になっていると反論すると、こう述べたというのである。
「女中の給料は、店費から出せばいいじゃないか。それがすなわち、利益をお客に返すのだ。お客に利益を返せば、お客はまた利益を持って来る。チップを廃せば、よい店だとなって、お客が多く来る。その利益は、チップ廃止の損失に勝る」

・「阪急百貨店店員心得書」
1) 吾々の受くる幸福はお客様の賜なり
2) 職務に注意しお客様を大切にすべし
3) その日に為すべき仕事は翌日に延ばすべからず
4) 不平と怠慢は健康を害す。職務を愉快に努めよ。
5) 会社の盛衰は吾々の双肩にあり、極力奮闘せよ。

・五島慶太は一から十まで小林が阪急で成功したことを東京で試みて成功を収めたのである。
数々の乗っ取り劇で「強盗慶太」と呼ばれるようになる傲岸不遜な五島慶太さえ、小林に対しては終生、頭が上がらず、「今日の私があるのは小林先生のおかげ」と語っていたと伝えかれる。

・「君、えらい人ってのは、つまり世の中に対して貸勘定の多い人ってこどだね」

・「リラの花咲く頃」には恋人たちは、森へ野へと出かけて行って、春の悩ましい思いのために
気違いのようになる、それが春だ、という意味の歌で、私はパリで流行っていたこの歌の、リラの花をすみれの花に書変えた。すみれの花もリラの花と一緒にパリの花の一つで、パリではすみれを小さなブーケにして、花屋の店や街角で冬でも売っている。
リラの花には、恋人たちを狂わしき気持ちに駆り立てて森や野へ出掛けさせてしまうような性的な魔力があるのだが、白井鐵造はこれは「清く、正しく、美しく」の宝塚にはふさわしくないと不意識のうちに判断して、そのような性的な蠱惑作用のない「すみれ」に代え、「恋に恋する乙女」の花園たる宝塚にふさわしい「すみれの花咲く頃」を創りだしたのである。

・演劇と映画の二本立てで拡大路線へ
演劇革命のために創立された株式会社東京宝塚劇場は1933年4月に至って、日比谷映画劇場の建設がきまったことにより、急遽、演劇と映画を二本柱とした興行会社へと大きく舵を切ることになる。

・小林が仕掛けた「興行の近代化」というイデオロギー戦争が業界そのものを変革させる原因となったのである。この意味で、小林一三の功績は興行の世界においてもまことに偉人であると言わざるをえない。

・千里先の見える人は、世の中から気狂い扱いにされる。現状に踏み止まるものは、落伍者となる。百歩先を見て、事を行うものが世の成功者である。

・関西の私鉄の中で、阪急沿線には大学や高校が多いという事実が浮かび上がってくるのである。
阪急は乗客増加策のひとつとして学校の誘致をはかった。

・誰の眼にも明らかな形で、「軍部に反対し、官僚に反対し、統制に反対し」た人間は、小林を除くと一人もいなかったのだから。(商工大臣になって)

・小林が手塩にかけて育てた企業や団体は、東宝を除くと戦時下の統制によって解体されたり活動停止に追い込まれたりした。

・昭和20年11月5日から翌年の3月に公職追放令を受けて辞任するまで、小林は5か月間、国務大臣兼戦災復興院総裁として難局に当たることになるのである。

感想
一介の会社員がどうして阪急電車のオーナー社長になったのかと思いましたがよくわかりました。
約500頁の大作です。

小林一三氏は大臣に戦前戦後に計2回されていたのを初めて知りました。

阪急沿線にはたくさんの高校、大学があります。
私が通っていた大学も阪急沿線沿いでした。

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