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哲学者マルクス・ガブリエルが語る、資本主義を倫理的に改善する方法 [インタビュー]よりよい社会を次世代に残すために ”倫理と資本主義の融合による実践”

2024-10-14 07:50:50 | 社会
by  マルクス・ガブリエル 2024.10.14 Harvad Busines Revew

サマリー:資本主義は、社会的格差や環境破壊などさまざまな問題を引き起こす、欠陥あるシステムだと考えられてきた。しかし、私たちは資本主義を放棄するのではなく、倫理と資本主義を融合させ、道徳的に正しい行為から利益を... もっと見る
なぜいま資本主義に倫理が必要なのか
編集部(以下色文字):資本主義は社会的格差や環境破壊などの問題を引き起こすなど、多くの欠陥があり、完璧なシステムとは言えません。しかしガブリエル教授は、近著『倫理資本主義の時代』の書名にもある通り、資本主義にまだ希望を見出しているようです。その理由についてお聞かせいただけますか。

マルクス・ガブリエル(以下略):資本主義について語られるとき、たいてい焦点が当てられるのは、疎外や搾取、収奪の問題です。これらは資本主義の初期から見られる現象であり、貪欲さや無意味な資本の蓄積、社会的不平等といった現代の問題を説明するために、マルクス主義の視点から論じられたものです。こうした点はまさに資本主義が抱える課題であり、多くの人々が認識している通りです。
 しかし、それらは資本主義の本質ではなく、副産物にすぎません。私は著書『倫理資本主義の時代』において、資本主義の本質は3つの条件(生産手段の私有・自由契約・自由市場)が緩やかに結びついた結果であると主張しています。そのうちの「自由契約」に関する最も重要なものは、封建制からの解放、そして奴隷制の終焉です。つまり私は、資本主義がなければ奴隷制はけっして終わらなかっただろうと言いたいのです。現在でもある種の奴隷制度は存在していますが、堂々と続けられなくなったという点で少なくとも前進はしています。
 そして重要なのは、私たちが資本主義に代わる何かを想像するのは不可能だということです。なぜなら、経済的な実践やシステムは、誰かの想像によって生まれるものではないからです。つまり、資本主義は計画されたものではなく、結果として存在するようになっただけなのです。
 私は「このままのやり方を続けて、それを倫理資本主義と呼ぼう」と言っているわけではありません。改革は必要です。しかし、それこそが資本主義の本質です。私たちは資本主義が生み出した問題を解決するために、資本主義的な手段によって、資本主義を改革する必要があります。
 問題に対する解決策を見つける最良の方法は、体系的で興味深く、実際に機能する方法を提供することであり、それを可能にするのがまさに資本主義です。資本主義は最高の食べ物、最高の住居、最高の交通手段を得るための最良の方法といえます。なぜなら、それらは計画されたものではなく、人間同士が協力した結果として生み出されたものだからです。
 だからこそ、私は資本主義に希望を持っています。資本主義が本質的に欠陥をはらんでいるわけではありません。現代社会が抱える問題は、資本主義の負の要素から生じているのではなく、何らかの選択や状況の結果として偶発的に発生した副産物だということです。それが、私の資本主義に対する基本的な考え方になります。

組織に「倫理」という判断軸をどう組み込むか
 ガブリエル教授は、倫理と資本主義を融合させるべきだと主張されていますが、資本主義が抱える問題はなぜ倫理によって解決できるとお考えなのでしょうか。
 私は昨日池袋にいました。池袋は非常に人が多く騒がしい場所ですが、なぜ常に暴力的な状況に陥らないのでしょうか。それは倫理のおかげです。もし人類初期のサピエンスを現在の池袋に連れてきたら、すぐにお互いを殺し合ってしまうでしょう。しかし、現代の私たちは協力する方法を学びました。倫理は人間の基本的な協力問題を解決します。それは社会に最低限の安定をもたらすのです。
 そして、資本主義が抱える問題はすべて倫理的な問題です。たとえば、税の不公平さや気候危機などもそうです。では、どうやってこれらを解決すればよいのでしょうか。これらは技術的な問題ではありません。
 たとえば、無駄なエネルギー消費を控えるために「飛行機を使わない」「あらゆるテクノロジーを使わない」といった単純な解決策は想像できます。しかし、なぜ実行されていないのでしょうか。それは、これらの問題を解決するための倫理的なリソースが不足しているからです。実際に機能する倫理とは、私たちの「現代的な生活を送りたいという欲求」と「(地球環境を守りながら)生き残るための必要性」との間でバランスを取る方法を教えてくれるものです。しかし、現時点でこの2つは調和していません。
 これは私たちが何かを生産する必要があるということです。哲学者が「気候危機をどう解決するか」という本を書き、読者がそれを読めばすべて解決するわけではありません。私たちに必要なのは、固定的な倫理ではなく「倫理的思考」です。論理的思考が一貫した生活を送るために非常に有効であるように、倫理的思考は安定した社会で生きるために有効なのです。

複雑な道徳的問題を解決する2ステップ
 たとえば、「川で溺れている子どもを助けなければならないか」といった道徳的問題に関しては、人々が一つの答えで合意することは難しくないでしょう。しかし、合意に達するのが困難で、複雑な道徳的問題というのも存在すると思います。人によって意見が分かれるような問題をどう解決すればよいのでしょうか。
 複雑な道徳的問題を解決するためには、2つのことが必要です。最初のステップは、明らかな道徳的事実を見つけることです。意見の相違がある中でも、何かしら合意できることがあるはずです。私たちは実際に、すでに多くのことで合意していますが、普段それを明示していないだけにすぎません。
 たとえば、人工妊娠中絶は多くの国で非常に争点となる問題です。しかし、ここでも全員が「人をランダムに殺してはいけない」ことに対しては合意しています。そのうえで、何が正しいのかという議論が始まり、「これは私の体に関する問題だ」などという他の考慮が加わってくるのです。ですから、最初のステップは、争いの下にある普遍的に受け入れられている道徳的事実を見つけることです。これが最初のステップであり、大きな視点の変化です。
 次のステップは、状況を徹底的に分析することです。表面的な判断で止めないでください。結論を急がず、徹底的な分析を行いましょう。公共での議論や専門家の意見を聞くことも必要です。そうすると、意見の対立がある場合、両方の側に正しい部分があることがわかります。
 たとえば、ある問題に100の側面があり、よく分析すると、そのうち13の側面ではすでに合意していることがわかったとしましょう。問題は、残りの87の側面を解決するためにどうするかです。さらに分析すると、最終的にはどちらかの意見が現実的に優れていることが明らかになります。そして、意見が均衡しているように見えていたものが、異なる形に変わっていくのです。
 道徳的な対立は、何らかの形を持った混乱だと思います。Aが混乱しているか、Bが混乱しているか、または両者とも混乱しているかのいずれかです。そして、両者が状況を誤って理解している可能性もあります。まずはこの混乱を解消するために、私たちが現在十分に行っていない、現実に起きていることの分析をしっかりと行うことが必要なのです。
 個人的な判断で止まってはいけません。倫理は個人的な感情に関するものではありません。感情も一定の役割を果たしますが、それはあくまで分析に貢献する範囲においてのみ重要です。これこそが真の倫理的思考です。現在、私たちはこうした倫理的思考を十分に行うことができていません。道徳的な対立が存在するのは、1970年代から続くポストモダンの流れを受けて、道徳的事実は存在せず、あるのは民主的な連帯だけだ、という考え方があるからです。
 倫理によって安定した社会が築かれてきたということは、かつて私たちは倫理的思考を持っていたということでしょうか。
 私たちは、過去に倫理的思考をうまく使いこなしてきたため、現在の位置にいるのです。その例として、三権分立が挙げられます。少なくとも日本では、政治家が法廷を操作することはできません。試みることはできるかもしれませんが、腐敗にも限度があります。なぜ三権分立の考え方ができたのか。それは18世紀にモンテスキューのような哲学者が、権力の分立という問題を考え抜き、これがよい解決策であると見なしたからです。したがって、私たちがいま享受している多くの事柄は、倫理的思考の結果です。
 しかし21世紀に入って、私たちはそれを忘れてしまいました。自由民主主義が非常にうまく機能していたため、長い間、倫理的思考を必要としなかったからです。自由民主主義が私たちの倫理的問題を解決してくれたのです。そしていま、私たちはその資源を使い果たしました。倫理的な思考を無駄にし、怠けてしまったために、現在の状況に陥ったのです。

ポピュリズムは自由民主主義の脅威である
 近年、欧州諸国や米国などの多くの国でポピュリズムが台頭しています。世界でこうした変化が起きている背景をどのように解釈していますか。
 ポピュリズムの台頭は、右派と左派の両方に見られると思います。特に右派におけるポピュリズムは、自由民主主義にとってより大きな脅威であると考えています。とはいえ、急進的な左派ポピュリズムの脅威も過小評価してはいけません。
 ポピュリズムは、複雑な問題に対してあたかも絶対的でシンプルな解決策を持っているかのように装います。たとえば彼らは、気候変動や金融危機といった複雑な問題に対して「移民が原因だ」と主張するのです。
 では、もし移民が問題だというなら、それは具体的にどういうことなのでしょうか。人々がある場所から別の場所に移動するという行動自体が問題というわけではありませんよね。では、なぜ移民が問題なのか。そして通常、その問いに対して返ってくるのはいい加減な回答ばかりです。
 加えて、中道政治、つまり可能な限りすべての人に配慮しようとする政治というものは、どうしてもどちらか一方に偏りが出るもので、それは人間社会では避けられないことです。問題解決のために提示される解決策と同じくらい複雑な政治が必要なのです。私たちがいま求めているのは、問題解決に真剣に取り組む、新しいタイプの関心です。
 ポピュリズムに対抗する方法は、大きく複雑な問題に対して具体的な解決策を提示することです。たとえば、インフレや円安は現実に起きている問題です。円安問題を解決し、その結果として関連する多くの問題も解決できれば、それは真の解決策と言えるでしょう。しかし、ポピュリストたちは「ただ国境を閉じればよい」と主張するのです。
 たとえば、観光客についての議論もこれと似ています。桜のシーズンが終わった2024年5月頃、日本にいた私は観光に問題があると感じました。当時、訪日外国人旅行者数の上半期累計は前期と比べ6.9%増加していました。日本では確かにオーバーツーリズムを感じましたが、それは円安とも関係がありました。円安のおかげで海外の人々がようやく日本に来られるようになったのです。
 ここで、一つの戦略として「円をもっと高くして観光客が来ないようにしよう」というものが考えられます。しかし、これは日本経済に影響を及ぼします。ですから、観光客を非難することは本当の解決策にはなりません。たとえば、富士山を撮影するためにコンビニエンスストアの駐車場に集まった観光客に対して「富士山を撮影できないように駐車場に黒幕を張ろう」などというのは偽の解決策です。これこそがポピュリズムです。
 本当の解決策は、バランスを見つけることにあります。たとえば、他の地域を魅力的な観光地にするというものも現実的な一つの解決策です。政府も観光を増やすことを目標に掲げているのですから、私たちは日本で観光客をもっと増やしたいという意見で合意しています。たとえば、他の場所にも素晴らしいホテルを建てて「名古屋をもっと輝かせよう」とすることが現実的な解決策になります。そうすれば、日本についての別のストーリーを語ることができ、それが倫理的な資本主義となるのです。
 ポピュリストの提案は、よく考えればいい加減であることがわかりますが、それでも少なくとも解決策にはなっているわけです。私はポピュリズムの台頭は、権力者たちが問題を解決できなかったことの結果だと考えています。彼らは間接的にポピュリズムを生み出しているのです。なぜなら、彼らは解決策を示していないからです。彼らがすべきことは、文化戦争(カルチャー・ウォー)に従事するのではなく、本物の解決策を提供することです。

道徳的問題に関する対話をどのように行うことができるのか
 数学的事実や地理的事実には共通の尺度があります。一方、私たちは道徳的事実について議論するための共通言語を持っていません。異なる文化や宗教、イデオロギーを持つ人々と、どのように道徳や倫理について意義ある対話を始めることができるのでしょうか。
 英国の著名な哲学者の故デレク・パーフィットは、晩年に米国で教えていた頃、世俗倫理はまだ始まったばかりだと語っていました。つまり、いまの倫理は初期の物理学と同じようなものであり、私たちはまだガリレオ以前の時代にいるようなものだと。そして、天文学者のヨハネス・ケプラーが活躍し始めた時代のように、人々が「物を投げたら落ちる」ということに気づき始めたばかりの段階にいるというわけです。
 私たちの倫理学は非常に原始的ですが、進歩しています。女性の投票権のような、以前は見えなかった道徳的事実を発見してきました。しかし、私たちはそれをすべて書き留めて、体系立ててまとめることはしてきませんでした。私は倫理学が数学のような科学になることは可能だと考えていますが、まずはそれを正しく始める必要があります。
 物理学がなぜ機能するのでしょうか。それは何千もの物理学者がいるからです。物理学が機能して、倫理学が機能しないわけではありません。ただ、挑戦している人が非常に少ないだけなのです。しかし、その非対称性は驚くべき問題です。なぜなら、私たちが直面している最大の問題は倫理的なものであるにもかかわらず、取り組む人がほとんどいないだからです。それは経済的にも非常に愚かなことです。
 私は倫理学が数学的な厳密さを持つものに変わることができると考えています。しかし、それを始めるには、いくつかの前提を基に本格的に取り組む必要があります。
「女性蔑視をしてよいのか」という問いに対して、もちろん誰も「よい」とは答えません。倫理学が前に進むためには、さらに「女性蔑視の何がいけないのか」と尋ねることがポイントです。それは、数学の原則のように、きちんと明確にしておく必要があることです。なぜ2+2が4なのか。それは数えなくてもわかることです。なぜなら、そう習ったからです。その意味では、倫理を築き上げるには、自分たちの信念を明確にし、それらがどのように結びついているのか、関係性の研究が必要だということです。
「女性蔑視が悪いこと」と「人種差別が悪いこと」には明確な関係があると私たちは考えていますが、両者はまったく同じものではありません。これらを結びつけるために私たちは「差別」という言葉を発明したのです。では、そもそも差別とは何なのか。このように、私たちはすべてのことを正確に理解する必要があります。つまり、「人種差別は悪い」「女性蔑視は悪い」、そしてこれらに共通点があるならば、おそらく他にも同じように悪いものがあるはずです。たとえば、成人差別や、障害者差別などが挙げられます。人々はこのようにして、他の差別についても意識し始めるのです。
 私たちはそのリストを作成し、現在は問題視されていないものの、実際には問題があることを明確化する必要があります。このようにしていけば、倫理は数学的な精度を持つものに変わる可能性があります。そしてこれを正しく行うことで、ケプラーのように、まず自然を記述し、その中に数学的な法則を見つけることができます。
「倫理資本主義」における成長を計測するための指標はどうあるべきか
 倫理資本主義が実現されたならば、それは理想的な社会だろうと思います。しかし、その倫理的な成長を測るためには、どのような指標を使うべきでしょうか。現在、多くの先進国はGDPを主な指標としていますが、経済成長を測定するための指標としては完璧とはいえません。代替となる指標について、何か提案がありますか。
 GDPは経済の真の価値を測定していません。たとえば、ロシアが戦争を開始した時、多くの国が経済制裁を行ったことでロシアは経済的に崩壊すると思われていました。しかし、実際にはそうなっていません。なぜなら彼らは戦争経済にいるからです。彼らは無限にGDPを成長させ、他国を攻撃し続けるかもしれません。
 それは現在のGDPの指標に基づいて考えていたからです。もし私たちが、真のGDPを得るために負の外部性を加味して測定をしたらどうなるでしょうか。単に害を測定せず、見た目上は利益を上げているように見える多くの企業が、実際にはお金を失っていることがわかるでしょう。負の外部性を加味するだけでなく、肯定的な指標、幸福度といった生活の質を測定する必要もあるでしょう。
 たとえばブータンです。ブータンは二酸化炭素(CO2)排出量がマイナス、つまり大気中のCO2を排出量よりも多く吸収しています。もちろん、東京がブータンのようになれるとは言いません。さまざまな理由からそれは難しいでしょう。しかし、ブータンは「国民総幸福量」(GNH)という、非常に優れた指標を持っています。
 このGNHを採用すると想像してみてください。国民一人当たりの購買力だけでなく、生活の質を測るのです。これを行えば、はるかによい物語が描けるはずです。すでに、社会発展指数やその他の指標があり、生活の質を測定する方法はわかっています。ただ、これまでのところ、それら2つの指標を組み合わせることをしてこなかっただけです。ですから、経済指標を根本から改革するのではなく、もっと保守的な方法で改革を進めるというアプローチも考えられます。

次世代のために何ができるのか
 いまの私たちの世代は、次の世代によりよい社会を引き継ぐために何をすべきだと思いますか。
 道徳的進歩が偶然やアクティビズムによってもたらされるのではなく、体系的に進歩するための仕組みをつくり出す必要があると思います。現在の道徳的進歩はアクティビズムによるものであり、悪意ある政治の力によって簡単に阻まれてしまったり、たまたま進展したりすることがあります。私たちはこれを体系的な「システム」に変えなければなりません。これが、次世代のために私たちができることであり、特別なことではありません。
 もちろん、私たちは気候変動の危機を解決しなければならないのですが、政治的な観点から見ると現在はむしろ逆風が吹いている時期で、最善を尽くして人類の道徳的水準を何とか維持することができるかどうか、という瀬戸際にあります。それでも、私たちは進歩的であり続ける必要があります。
 私たちは人類の永遠の進歩という考えを諦めてはいけません。これが最も重要なことです。次世代は人類の進歩そのものですから、その進歩を彼らに引き継ぐために、私たちの先人が行ったように、進歩的な仕組みをつくり上げる必要があると思います。先人たちは技術とビジネスを組み合わせた現代的な仕組みをつくり、福祉を実現しましたが、それはもう機能していません。そこに新たな層を追加し、よりよいシステムを引き継げるようにしなければなりません。
 だからあなたは、倫理資本主義の伝道者であろうとしているのですね。
 おっしゃる通りです。私には2人の娘がいますが、最初の娘が生まれた瞬間、私は道徳的リアリストになりました。生まれたばかりの子はまだ話せないし、理性的でもないけれども、紛れもなく人間だと実感したのです。この時から、私は客観的な道徳的事実の存在を信じるようになりました。
 そこから一般化すると、すべての人が誰かの子どもだということです。私が子どもとの間に持つ関係は、他の誰かが別の人との間に持っている関係と何ら違いはありません。つまり、もし私が他の誰かに暴力を振るったとすれば、それはこの娘に暴力を振るったのと同じだということです。だからこそ、私は暴力がいけないのだと理解しました。これを踏まえたうえで、人が誰かに暴力を振るってもよいと思う理由は、一体どこにあるのでしょうか。
 私たち人間は、明らかに悪いとわかっているものを続け、良いことを止めてしまうという非常に愚かな習慣を持っています。ですから、責任を持つすべての個人は、何かが悪い場合、それを終わらせる必要があることを理解しなければなりません。これが「悪さ」という概念です。悪いものとは、存在してはならないものです。
 では、なぜ世界に多くの悪いことがあっても気にしないのでしょうか。私たちは、資本主義の世界に生きていますが、悪や害に関しては、まったく非合理的で非経済的な行動を取っています。これは驚くべき欠点です。道徳というのは「もっとお互いに優しくしよう」というものではありません。経済的成功の指標なのです。だからこそ、私たちは倫理という基準を据えてこの資本主義を生きるべきなのです。

マルクス・ガブリエル
哲学者。ボン大学(ドイツ)の哲学科教授。同大学の哲学科正教授に史上最年少の29歳で就任。スタンフォード大学人文科学センター国際客員研究員などを兼任。著書はWarum es die Welt nicht gibt, Ullstein, 2013.(邦訳『なぜ世界は存在しないのか』講談社選書メチエ、2018年)、Neo-existentialism, Polity Press, 2018.(邦訳『新実存主義』岩波新書、2020年)、『倫理資本主義の時代』(早川書房、2024年)など多数。


感想
 マルクス主義はほころびを見せています。
資本主義も多くの問題を抱えています。
それに対してどうするか。
いろいろ考えさせられます。