雨あとの 雨を浮かべし 花を見に
中村 梅士 Baishi
今日は日曜日だが、仕事が気になって休日の気分には
なれなかった。
しかし、老母の誘いに付き合った。
雨の後の紫陽花を見に行くつもりではあったのだ。
紫陽花も、もう見納めである。
母は今年の終戦記念日で87歳になる。
耳は遠くなり、5分も歩けば座り込む。
ぼけてはいないが、耳が遠いせいか、思い込みで判断
して、理屈に合わないことをする。
介護をする人は大変だ。
プロ意識があるからやれているのだろうけど、自分の
親でも、たまに会うだけでも心が重くなる。
自分には世話になる人もいないが、人の世話にはなり
たくない。
野良猫のように、人知れず孤高にこの世を去りたい。
それが最期のプライドである。
あじさいは、雨にキラキラとしていたが、もう最盛期
を過ぎていた。
見納めの輝きである。
たくさんの人が訪れていた。
今が最盛期と言う花がユリだった。
「花粉をつけないように注意してくださいね。洗って
もとれませんから」と入園切符を渡された。
香りを嗅ごうと鼻を近づけると、鼻先に花粉が付く。
香りのないユリも多いが、かすかにも香ると高貴な気
分になる。
なかなか豪華なユリ苑だった。
苑内のフランス料理レストランを楽しみにしていたが、
結婚式に独占されていた。
野外のオープンテラスのメニューは和風ハンバーグ丼
と野菜カレーしかなく、高貴な気分はそこで終わったの
だった。
これで花の季節は終わりである。
百合が終わると、花の少ない夏になる。
萩、桔梗、蝉の声が夏の花である。
さて、民主主義とは何か。
アメリカの指導原理であり、金科玉条の政治原理のよ
うに言われるが、現象的には老化が著しい。
リンカーンの演説にあるように、「国民の、国民によ
る、国民のための政治」という考え方である。
即ち、政治権力の根拠は国民に由来し、国民の意思を
尊重し、国民の幸福のために行うべき政治である。
民主主義の目的は、権力者の野心から国民の尊厳を護
ることにある。
人権尊重主義の政治原理が民主主義なのである。
しかし、そこには弱点がある。
国民の意思に仮託して悪魔が入り込む余地があること
である。
その典型が、マスコミである。
マスコミは自分たちの偏向した考えを、国民の意思と
して「報道」する。
沖縄の基地問題に対しても、基地賛成運動と反対運動
が展開されたが、報道されたのは「市民団体」による反
対運動だけだった。
それを世論だと言うのである。
トランプ大統領批判報道も同じ手法が用いられている。
もう一つの偽装は選挙である。
選挙は候補者の所属政党または、候補者の印象を選択
するに過ぎない。
選ばれたから、国民の意思としてなんでも全託されて
いると言うわけではない。
マスコミはその印象操作で選挙結果を支配する。
これは、本来の民主主義ではない。
なぜ、こうした弱点が生まれるのか。
民主主義の前提に信仰心があることを忘れているから
である。
古代ギリシャにおいても、英国においても、神の下に
人がいるということが前提だった。
権力の正義の根拠は王をはじめとする権力者にあるの
でも労働者にあるのでもない。
仏神にあるのだ。
人による支配ではなく、仏神の愛に正義の根拠はある
のである。
リーダーとは、「愛が分らなければ我を見よ」と言っ
たキリストのごとき無私の人を言うのである。
信仰が確立していない社会に民主主義は成り立たない
ことを知るべきである。
その信仰とは、信心とは異なる。
信仰とは、神の教えを理解する教養であり、正義の判
断力である。
唯物論がはびこる日本の民主主義に、正統性の根拠は
薄弱である。
政教分離とは、政治権力の根拠から仏神を排除する悪
魔的思想であって、民主主義の死を意味していると言う
ことを知らなければならない。
現政権にも、議会にも、それを支配するマスコミにも、
民主主義としての正統性はないと言うことである。
まず、政治と分離するべきは、マスコミ権力である。
そこに民主的性格はないにもかかわらず、政治を支配
していることは許しがたいことである。
次に、天皇制の正統性根拠としての伝統と神の正義を
認めない政党の政党資格を認めてはならない。
愛国心なき国民は、すでに国民たる資格がないからで
ある。
天皇制が揺らいでいるのは、皇室から伝統精神と信仰
が失われつつあるからではないのか。
議員は、仏神に従うことを誓うべきである。
特定宗教である必要はない。
天意に対する誠実こそは、政治家の倫理であろう。
共産党は民主主義の理念としても許されない。
スターリンや毛沢東や習近平の支配を正当化する政党
を許してはならない。
天変地異があるごとに、仏神を畏れ、自らの不誠実を
反省するべきである。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
New Asia Happiness Party