あじさいの もう一花の 雨模様
中村 梅士 Baishi
今日の一仕事が終わった。
空は今にも雨になりそうな曇り空である。
もう、六月も終わり、あじさいも最盛期を過ぎた。
しかし、もう一雨来れば、もう一花の輝きが見られる
かもしれない。
七月に入ると、博多の花は博多祇園山笠になる。
30日までに山笠の人形が小屋入りし、15日間の花が開
くのである。
祭りこそは希薄化する地域コミュニティー最期の砦で
あり、日本の地域スポーツと言うべきであろうが、神社
が経済的に貧困化し、地域コミュニティの核だった氏子
も高齢化して過疎化する傾向にある。
お寺や神社を護ってきたのは、皇室や大名あるいは豪
族や商人たちの信仰だったが、今はそうした信仰が失わ
れてしまった。
本物の伝統的祭りも失われてゆくのだろう。
即ち、日本が希薄化してフェイドアウトするというこ
とである。
皇室の存在は、神社体系の上に成り立っている。
神社神道は、国作りの神々を祀っている。
その神々の神意をおもんぱかって政治を行うのが日本
の政治原理である。
それを、国家神道として独裁権力となり、戦争に駆り
立て、みじめな敗戦となったのだというのが戦後教育で
あり、政教分離の理由とされ、左翼の反日思想の理屈で
ある。
しかし、大東亜戦争を侵略戦争だというのは連合国の
言い分にすぎない。
日本が戦ったのは欧米列強の植民地主義支配を阻止す
るためだったと言える。
それが、日本防衛問題でもあった。
国家神道とは、日本の軍神が総決起して日本の活路を
開こうとした神意であった。
アジアでの植民地主義を許すわけには行かなかったで
あろう。
それが、国家神道としての軍神の結束だったといえる。
フランクリン・ルーズベルトの戦略にまんまと引っか
かったのだが、戦争を回避することは、難しかったであ
ろう。
しかし、軍神たちの死闘の結果として敗戦したことが、
エル・カンターレの降臨を可能にしたのだという。
しかし、「国家神道」悪者論は、政教分離という神も
仏もない唯物論、共産主義の正当化論というべきであろ
う。
皇室を存続させると言うなら、皇室と神社を一体とし
て日本伝統の象徴とすべきである。
皇室にその統括を委ねるべきである。
それでこそ、祭りも神聖な神事となり、地域コミュニ
ティーの基盤として復活できるのではないか。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
New Asia Happiness Party