まずお知らせ。
全部で22ある当ブログのカテゴリの内、最も記事数の多い「日々のもろもろ」は、今日で400を数えることになりました。
途中、カテゴリの再編を何回かやっているので、厳密に言えば違うことになるんだけど、いつの間にかこんな数になってしまったのには、自分でも驚きでした。
でもって今日は、昨日に続いて、「どうなんだろう?」というネタ。
あるニュースサイトを読んでいたら、エンタメニュースの欄に、こんな見出しを見つけた。
「○○○○、脇役に降格」
何でも、これまで数々のドラマで主役を張ってきた、某人気男性芸能人が、次の改編期のドラマでは、脇役にあたる登場人物を演じるということなんだそうだけど、この「降格」という表現が、読んでいて凄く気になった。
確かに、ドラマや映画というものは、まず、物語の中心たる主役がいて、それをガッチリと支える脇役がいて、さらに、そこに華を添えるゲストがいて・・・って構図になっているのが普通だけれど、それは果たして上下関係なんだろうか?
私は違うと思う。
以前、ある雑誌で、ある若い役者さんがインタビューでこんなことを話していた。
その役者さんは、当時、ある人気ドラマで、脇役にあたる登場人物を演じておられたのだけど、インタビューの中で、主役を演じておられたベテランの役者さんについて、
「『一度カメラが回り始めたら、主役も脇役もない』と言葉をかけていただき、すごく気持ちが楽になった」
ということを話していた。
察するに、そのベテランの役者さんは、主役も脇役も関係なく、皆が気持ちを1つにして取り組むことが大事なのだということを言いたかったのではないかと思う。
そうだとすれば、私はその考えに賛成。
そりゃ、脇役の役目の1つに、主役をきっちりと立てるということがあるのはそのとおりだと思うけど、主役の方も、それを当たり前などと思わず、逆に自分も、周囲に対する様々な配慮を欠かさないこと、つまり、上下関係ではなく、互いを尊重しあい、対等な気持ちで取り組むこと。
あえてドラマ名は出さないけど、長く根強い人気を誇っているドラマに出演されている役者さんのインタビューを読むと、やはりその辺がきちんとされているのが窺えることが多い。
もう1つ。これはすごく厳しい話だけど、あるベテランの役者さんが、ある番組で脇役に当たる登場人物を演じることになった時のこと。
撮影初日に、主役を演じる若い役者さんが挨拶に来たそうなのだが、その若い役者さんが、
「今度主役をやります、○○○○です!」
と言ったのを聞いて、そのベテランの役者さんは、
「人間教育からスタートせねばいけない」と思ったのだという。
その若い役者さんも、決して悪気や高慢な気持ちはなかったのだろうけど、これは、私も正直考えさせられました。
最後に、「降格」がおかしいとすると、ではどんな表現が正しいと思うのか?
先だって、「相棒」のスピンオフ映画、「鑑識・米沢守の事件簿」の製作発表のニュースで、こんな表現が使われていた。
「この映画では『脇役に回る』水谷豊と寺脇康文は・・・」
「脇役に回る」。つまり、立ち位置が変わるだけで、主役の六角精児さんをはじめとする大勢の出演者の方達と一緒になって作品を作っていくことに変わりはない。
これは決して「言葉のあや」なんかではないと、私は思います。
全部で22ある当ブログのカテゴリの内、最も記事数の多い「日々のもろもろ」は、今日で400を数えることになりました。
途中、カテゴリの再編を何回かやっているので、厳密に言えば違うことになるんだけど、いつの間にかこんな数になってしまったのには、自分でも驚きでした。
でもって今日は、昨日に続いて、「どうなんだろう?」というネタ。
あるニュースサイトを読んでいたら、エンタメニュースの欄に、こんな見出しを見つけた。
「○○○○、脇役に降格」
何でも、これまで数々のドラマで主役を張ってきた、某人気男性芸能人が、次の改編期のドラマでは、脇役にあたる登場人物を演じるということなんだそうだけど、この「降格」という表現が、読んでいて凄く気になった。
確かに、ドラマや映画というものは、まず、物語の中心たる主役がいて、それをガッチリと支える脇役がいて、さらに、そこに華を添えるゲストがいて・・・って構図になっているのが普通だけれど、それは果たして上下関係なんだろうか?
私は違うと思う。
以前、ある雑誌で、ある若い役者さんがインタビューでこんなことを話していた。
その役者さんは、当時、ある人気ドラマで、脇役にあたる登場人物を演じておられたのだけど、インタビューの中で、主役を演じておられたベテランの役者さんについて、
「『一度カメラが回り始めたら、主役も脇役もない』と言葉をかけていただき、すごく気持ちが楽になった」
ということを話していた。
察するに、そのベテランの役者さんは、主役も脇役も関係なく、皆が気持ちを1つにして取り組むことが大事なのだということを言いたかったのではないかと思う。
そうだとすれば、私はその考えに賛成。
そりゃ、脇役の役目の1つに、主役をきっちりと立てるということがあるのはそのとおりだと思うけど、主役の方も、それを当たり前などと思わず、逆に自分も、周囲に対する様々な配慮を欠かさないこと、つまり、上下関係ではなく、互いを尊重しあい、対等な気持ちで取り組むこと。
あえてドラマ名は出さないけど、長く根強い人気を誇っているドラマに出演されている役者さんのインタビューを読むと、やはりその辺がきちんとされているのが窺えることが多い。
もう1つ。これはすごく厳しい話だけど、あるベテランの役者さんが、ある番組で脇役に当たる登場人物を演じることになった時のこと。
撮影初日に、主役を演じる若い役者さんが挨拶に来たそうなのだが、その若い役者さんが、
「今度主役をやります、○○○○です!」
と言ったのを聞いて、そのベテランの役者さんは、
「人間教育からスタートせねばいけない」と思ったのだという。
その若い役者さんも、決して悪気や高慢な気持ちはなかったのだろうけど、これは、私も正直考えさせられました。
最後に、「降格」がおかしいとすると、ではどんな表現が正しいと思うのか?
先だって、「相棒」のスピンオフ映画、「鑑識・米沢守の事件簿」の製作発表のニュースで、こんな表現が使われていた。
「この映画では『脇役に回る』水谷豊と寺脇康文は・・・」
「脇役に回る」。つまり、立ち位置が変わるだけで、主役の六角精児さんをはじめとする大勢の出演者の方達と一緒になって作品を作っていくことに変わりはない。
これは決して「言葉のあや」なんかではないと、私は思います。