
昨日の続き。
最上義光という武将の名は、私も山形に興味を持つまで知らなかったので、ここで今一度調べてみた。

最上義光は、現在の山形県である出羽国の戦国大名、最上氏の第11代当主にして、出羽山形藩初代藩主である人物。
かの伊達政宗の伯父にあたる人物でもあり、関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大名に成長させて全盛期を築き上げた。
名前の「義」の字は、時の室町幕府第14代将軍「足利義輝」より賜ったもので、これは、「偏諱(へんき)」と言って、貴人から臣下への恩恵の付与、鎌倉時代から江戸時代にかけて多く見られたとのこと。
その足跡としては、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原の役に参陣したことや、天正20年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵に備えて肥前名護屋に滞陣したことなどが挙げられているが、中でも特筆すべきは、1600年の、「慶長出羽合戦(「長谷堂城の戦い」)」。
これは、徳川家康が、会津の上杉景勝の軍備増強を征伐せんとした際、義光ら奥羽の諸将は東軍(徳川方)に味方したとされるのが発端であるが、途中、上杉氏と懇意であった石田三成らが、反家康を名目にして上方で挙兵すると、家康は会津攻撃を中止し、最上家は完全に孤立した状態で、上杉家と対峙することとなった。
その後、上杉景勝は、かの直江兼続に2万~2万4千余の軍勢を預け、最上領侵攻を開始したが、上杉軍に対して最上義光は、2,000挺もの鉄砲を駆使して抗戦し、最後は見事に城を守り抜いたとされている。
大きな功績は他にも沢山あるようだけど、さしあたり、昨今の歴史ブームで脚光を浴びている部分について書いてみました。
こうした、歴史の表舞台とは言い難い部分で活躍した人物の足跡に触れるのも、私にとっては、旅の大きな楽しみの一つです。

これは、霞城公園の側にある「最上義光歴史館」
平成元年の開館で、入館料は無料。最上家と山形藩に纏わる資料が多数展示されています。