自宅の近所の真っ直ぐの道路。
真っ直ぐなんだけど、凸凹とうねっていますね。
このことについて、以前、「ブラタモリ」で取り上げられていた話を引き合いに出して、軽く疑問を書いていました。
周辺の地図。
青線が写真の道路で、緑の↓の方向に向けて撮っています。
では、赤で囲った範囲は何かと言うと・・・、
赤で囲った範囲は、かつて、発寒の屯田兵村があった範囲です。
青線の道路を中心に、両側に兵村を設けたわけだけど、開拓に辺り、基準となる道路を南北に整備した・・・と考えられますが、良く見ると、真北ではなく、若干西側に傾いています。
これはどうやら、真北ではなく「磁北」、磁石が示す北の方角だったとされていますが、何故磁北を基準にしたのかは定かではないようです。
上の地図の赤枠は、発寒の前年に開村していた琴似屯田兵村の範囲ですが、これは、地図の黒線、当時から幹線道路として位置づけられていた、「旧銭函街道」、現在の道道北1条宮の沢線に対して直角になり、地図の茶色の線である、現在の「琴似本通」を軸にする形で整備されていますが、緑で表示した発寒屯田兵村は、琴似の翌年に整備されたにも関わらず、琴似とは異なる角度で整備されています。
真相は諸説あるようですが、琴似屯田兵村が旧銭函街道を基準にしたような、基準となる道路などが整備されていなかったこともあり、一から南北を基準に整備しようとしたものの、何故か「磁北」ということになってしまったということなのでしょう。
この道路を基準に町づくりを進めた結果、当時の兵村の範囲外である部分にも、高低差にかかわらず真っ直ぐ道が通され、現在のようなうねった形になっていると考えれば、納得がいくような気もします。
六年前に放送された「ブラタモリ」伏見編では、豊臣秀吉が伏見を拠点とした町づくりを進めるに当たり、自然な地形である高低差を気にすることなく、強引なまでに道を真っ直ぐに通すことを貫き、その結果、現在も伏見界隈では、真っ直ぐなんだけど凸凹にうねった道がそこかしこで見られるということが取り上げられていましたが、これと同じ考えだったのかなと、勝手ながら思ってしまいます。
写真は、当時の「発寒屯田兵村」の南西端。
この小さな道路の左側が兵村でした。
再び兵村の中心の道路へ。
しばらく進むと、変則的な角度の交差点に。
写真の右斜めの道路にも、何やら興味深い歴史があるようで、現在調査中です。
写真の左斜めの通りは、JR琴似駅前を通る、「桑園発寒線」という幹線道路。
先に触れた「旧銭函街道」と並行に整備されていますが、このことが、現在の発寒の町割りに、興味深い影響を残しています。
そのことは、もう少し状況を整理したうえで、追って紹介します。
ここで、かくっと右斜めに曲がっています。
JR発寒中央駅側の踏切。
先程の屯田兵村は磁北を基準に整備したとされていますが、この地図を見ると、踏切より北側は、しっかりと真北に向かって道路が延びています。
もう少し行ったら右側に「発寒神社」があることから、通称「稲荷通」と呼ばれる道路ですが、この道路は、↑の地図のとおり、正しい南北の方角となっています。
このエリアは、屯田兵ではなく、安政4年(1857年)に、幕府の与力であった「山岡精次郎」以下10人ほどの武士が入植することで開拓されたものですが、実際には、この道路を基準にした整然とした区画ではなく、近くを流れる現在の「琴似発寒川」に沿う形で集落が形成されていたとのこと。
では、この道路は一体どういう考えで正しい南北を向く形となっているのかということですが、いくら何でも単なる偶然ということはないと思うので、当初はこの道路を基準にした正確な町割りを考えていたのが、何らかの理由でそうはならなくなったと考えるのが自然なのかもしれません。
最後に、再び「発寒屯田兵村」があった場所。
発寒地区は、異なる基準で開拓された小さなエリアの集合体のようになっていて、幹線道路や鉄道を一つ挟んだだけで方角や町割りに大きな違いが生じているという、興味深く謎解きができそうなエリアとなっています。