市電「十字街」電停から、「谷地頭」方面に向かって少し歩いた所にある大きな像。
これはなかなかの規模ですよ。一体誰でしょう?
これは、函館の歴史に大きな足跡を残した、淡路島出身の商人、高田屋嘉兵衛の像です。
1769年に淡路島で6人兄弟の長男として生まれた嘉兵衛は、1796年に、「辰悦丸」という船で初めて箱館に来航してきました。
当時、箱館は人口約3,000人程度の小さな村で、現在の道南地方では、近江商人が幅を利かせていた松前・江差が栄えていましたが、嘉兵衛が箱館にやってきた理由としては、後に、黒船で知られるペリー提督が「綱知らずの港」と激賞した箱館港の安全性を重視したとか、度々江戸に出入りし、幕府が蝦夷地を直轄地にして箱館に奉行所を置くという情報を幕府から事前入手していて、そんな箱館の将来性に賭けたとか、様々な説があります。
この像は、嘉兵衛の没後130年の節目の年に当たる1956年に建立の機運が盛り上がり、1958年、函館開港100年を記念して、函館出身の彫刻家である梁川剛一氏の手で製作され、かつて嘉兵衛の屋敷があったとされる場所に近い、「護国神社坂」の下に建立されました。
「護国神社坂」の全景。先にあるのが「函館護国神社」です。
銅像の近くに、もう一つ碑が建立されています。
「日露友好の碑」。
高田屋嘉兵衛の大きな功績として外せないことに、ロシアの海軍少佐・ゴロヴニンが幕府の役人に捕縛された「ゴロヴニン事件」において、ロシア側の報復として国後島で捕えられ、一旦はカムチャツカ半島へ連行されるも、帰国後に奉行を説き伏せて、ゴロヴニンの釈放に尽力したということがあります。
先程の銅像は、幕府の代理人としてロシア軍艦へ乗り込んだ際の、正装の仙台平の袴、白足袋、麻裏草履を履き、帯刀した姿とされ、右手には松前奉行からの論書(さとしがき)、左手には艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣類を持っている姿が再現されています。
この碑は、1999年、ロシアよりゴロヴニンと、ロシア軍艦の艦長であったリコルドの子孫が来日し、高田屋嘉兵衛七代目を交える形で、その深い友情と邂逅を記念して、日露友好の永遠のシンボルとして建立されています。
銅像から少し離れた一角。現在はグリーンベルトになっています。
ここは、高田屋の屋敷の跡地。
嘉兵衛の跡を継いだ弟・金兵衛が、幕府の許可を得て5万坪(東京ドームの約3倍)もの土地を借用し、その一角に大邸宅を建てたとされています。
屋敷跡前の道路。
別な記事で紹介しますが、ここは、屋敷に船で乗り入れるための掘割を埋め立てて整備されています。
ゴロヴニン事件解決後、嘉兵衛は1818年に淡路島に戻り、その後再び箱館を訪れることなく、1826年に亡くなりました。
嘉兵衛は、二弟の嘉蔵を兵庫支店において関西地方のマーケットを把握させたほか、三弟の金兵衛には、箱館で、江戸や松前藩との交渉を行わせ、やがて日本の三大豪商と呼ばれるまでに経営手腕を発揮していましたが、幕府と強いパイプを持つ嘉兵衛の影響力によって、それまで道南で幅を利かせていた近江商人たちは多くの利権を奪われる形となり、奪回の機会を狙っていました。
そんな中、高田屋の雇船がロシア船と友好のために実施した「旗合わせ」が密貿易と疑われ、金兵衛は江戸で厳しい取り調べを受けた後、1833年には、箱館本店ほか三つの支店の財産を没収されてしまいました。
その没収された財産総額は、当時の国家予算の実に25%に相当するとされ、それが一夜にして没収されたということで、箱館は、それまでの繁栄から一転、町から火が消えたような状態になってしまったそうです。
そんな高田屋一族の歴史が刻まれたこの場所、観光ではなかなか訪れる機会のない場所かもしれませんが、現在に至る函館の発展の基礎を築いた人物にゆかりの場所として、訪れてみる価値はある場所だと思います。