初めて函館市民になった2008年の5月~6月に、観光エリアとして人気の「ベイエリア」を散策する記事を書いていました。
あれから16年、先日まで紹介してきた「王道コース」に続き、「ベイエリア」もガイドコースに含まれているので、学習を兼ねて一回りしてきました。
何回かに分けて紹介します。
「ベイエリア」の明確な定義は難しいと思うけれど、個人的には、大体↓の辺りかなという気がします。
中でも、一番人気が高いのは、やはり「金森赤レンガ倉庫」でしょうね。
さて、ここで問題です。
ズバリ問いますが、「金森」と書いて何と読むでしょう?
え、「かなもり」ですか・・・。そうなんですよね、観光客だけじゃなく、函館市民も大多数の人がそう読んじゃうんですよね。
でもですね、だったらわざわざ問題にしませんよ。そこはお察しくださいませ。
こちらの外壁に掲げられている文字を見て下さい。森の上に、鍵カッコのような記号がついていますね。
これは、曲尺(かねじゃく)という記号に由来する、「かね」と読む記号で、昔の屋号に用いられたものです。
そう、観光客はもとより、函館市民も「かなもり」だと信じて疑わないこの場所は、「かねもり」が正解なのです。
このことは、ガイドでも絶対強調したいと思いますので、ご覧いただいている皆様も、ぜひ記憶に留めていただき、周りの方々にも教えてあげていただければと思います。
「金森赤レンガ倉庫」の創立者は、「函館四天王」の一人である「渡邉熊四郎」で、「商売に駆け引きは不要」と考えを持っていて、この曲尺には、「律義でまっすぐ」という意味があることから、そうした信条に相応しい屋号であると言われています。
そしてもう一つ、「金森」の「森」とはどういう意味があるかということですが、これは、現在の大分県出身である渡邊熊四郎が函館に渡ってくる以前、長崎で勤めていた薬屋「森屋」から名付けられたとされています。
24歳の時に長崎から函館にやってきた渡邉熊四郎は、1869年、現在の函館市大町(現在の赤レンガ倉庫の場所ではない)に「金森洋物店」を開業し、屋号を「金森森屋」としました。
この洋物店は現在の赤レンガ倉庫に繋がるものではなく、1879年の大火により建物が焼失し、翌1880年に新たな建物として開業。現在、その建物は「市立函館博物館郷土資料館」となっています。
では、現在の倉庫街の歴史はというと、1887年、外国人居留地や官設造船所などがあった場所を渡邉熊四郎が購入し、跡地に倉庫を建設したのが最初とされています。
後に、1895年には、21棟1,656坪に及ぶ倉庫を所有して断然同業他社を引き離すこととなり、日露戦争後、1907年に締結された「日露漁業協約」により、ロシア領での漁業が最盛期を迎えたことで、営業倉庫も拡大の一途を辿ることとなりました。
その後昭和後期になって、輸送形態が飛行機主流になったことや、北洋漁業の縮小などの影響で、倉庫業は徐々にその規模を縮小せざるを得なくなりましたが、倉庫の建物は「伝統的建造物」に指定されて、商業施設、多目的ホールなどに業種転換され、現在に至っています。
函館が幾度もの大火に見舞われていたことはこれまでも何度か触れてきましたが、この鉄製の扉も、耐火目的で設置されたものです。
これは何だと思いますか?
東日本大震災が発生した2011年3月11日、函館も、ベイエリアやJR函館駅周辺が津波に見舞われ、一人の方が亡くなられているのですが、これは、そのときの津波の高さを示すパネルです。
倉庫とは直接関係がありませんが、こちらの解説板をご覧ください。
「日本最初の気候測量所跡」とあります。
後日、別な記事でまた触れますが、「福士成豊」という人物が、明治5年(1872)年に設立した、日本最初の官立気象台「函館気候測量所」がここにありました。
よくテレビの天気予報で「○○気象台」なんていうワードが聞かれることがありますが、日本初の官立、つまり国が設立した気象台というのは、東京でも大阪でもなく、実は函館だったのです。
「金森赤レンガ倉庫」のレンガの外壁。
この形を良く見ておいていただければと思います。
ということで、次回へ続きます。