龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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3月18日(金)<被災地の全体像はテレビの中に。そして被災者は「断片化」する>

2011年03月19日 10時31分45秒 | 大震災の中で
鉄道も高速道路も止まり(緊急の物流は回復しつつあるようだが)、物流も滞り、お店も止まり、情報も不十分な状態では、逆に何もできることがなくなってしまう。

部屋に籠ってTVを見、ブログを更新するほかすることもない。


現実それ自体がファンタジックな漫画・小説・映画みたいで普段読んでいるエンタテインメントは読む気がしない。
ただし、病人の付き添いの時には、時代小説を手にすることができる。
不思議なものである。

こうしてブログを書いていても、被災地の中にいて、被災地の状況などという全体像はむしろつかめない。
自分の置かれた現実を、全体像の中の芥子粒のような「断片」としてにぎしりめることができるだけだ。

父親の意識のときに触れた「断片」と「全体像」の関係が、被災してさまざまなネットワークから離脱した「断片」と化している今の自分と外部世界との間にも当てはまるような気がしてくる。

もちろん、災害にあえばいずれ復興はしていくのだろう。現に今こうして孤立した中にいても、いずれは原発からの飛散放射能レベルも落ち着き、物流も回復し、インフラ整備もなされ、家も修理して、日常の生活が戻ってくる、ということを想像しなくはないし、それを望む自分もある。

だが、その一方で、もう失われて戻らないもの、不可逆的に「死」ー「喪失」をはらむもの、の存在もそこに感じる。

それを非日常がもたらす高揚感や抑鬱感に根ざした「死」のイメージ、と捉えてみることもできるのかもしれないが、そうではない形で考えたいのだ。
また同時に、本来あるべきものが失われたのだから、ひとつひとつ取り戻すことによって統一を回復していくのだ、という形でもなく、考えを進めてみたいのである。


断片化されたこの状態は、現代においては「死」と隣り合わせであり、予測不能な危機であり、まずもって乗り越えや回避を目指すべきものとして考えられるべきだろう。
災害が起こったのに、それを「神の御心のままに」とだけいって災害救助がなされなければ、それは一市民として暴れるだろうし、ただ従順な無力感とともに呆然としている被災者心理が自らの中に現れれば、この「羊どもめ」と自分自身を叱咤してみたくなるかもしれない。

さてしかし、とりあえず私たちが今自分の力でできることは何か、と考えれば、生活物資やガソリンが輸送されるのを、輸血や投薬を待つ患者のように、ひたすら家の中に閉じこもって「待つ」よりほかにない。
そのために必要な外部からの鉄道や道路整備もまた、外部に頼って「待つ」以外にない。

地震や津波に対してできることも多くはないし、まして原発からの飛散放射能に対しては、どこまで逃げるか(ガソリンもないので逃げられないんですけれど)、あるいは屋内でじっとしているか、の選択しかないわけだ。

そんな「断片」化され、能動的あるいは統一的なイメージを持ち得ない側から、なおも「思考」を続けようとすると、どうなるだろう。

パニックを起こし、否認をし、絶望し、もがき、そして受容する

なんて「死」の受容的心のケアストーリーはたぶん不要だ。
かといって、今日よりも明日は少しでもよくなる、なんて「希望」のストーリーも御免蒙りたい。

とりあえず今の自分に必要なのは、この日常的統合を失って「断片化」した(時系列的には確かに「断片化」したわけだが)、この場所でどう思考するか、だ、と思う。

健康になってしまえば忘れてしまう不具合、日常が回復してしまえば忌避できる悲惨な記憶。
そういう形で断片を整理し、現在に適応していくことが一方では人間の脳みその働きとしての自然であるとしても、この断片の小舟に乗ってもなお何をどう思考するのか、を問い続けることもまた、人間の不可欠な営みのひとつでもあると思うから。

さてだがしかし、具体的な行動としては、雨露しのぐ家を保持し、水場を確保して食料を蓄え、火(電気やガスが主だが)を手にすることがいちばんだ。
生きていくためにはそれが必要であり、それらに対するこだわりなしには「生」そのものが成立・継続していかない。

だからライフラインが必要、ということになって、話は循環していきそうなのだが(笑)、短期的にはそこの復旧を求めることが必要だろう。
けれど、震災前と震災後とでは、単なる復旧することによって日常に復するだけでは収まらない変形・変質がそこには不可逆的に起こる。

その不可逆的な「傷」の存在、「変質」の様子の詳細については、断片からの思考を続けていかなければ、それが見えなくなるのではないか、というのがとりあえず提起したい1点目、となるだろうか。

誤解のないように急いで言っておくと、PTSDとかトラウマとか、心理的な話をしたいのではない。
インフラの建て直しが急務だということに反対するのでもない。
心理的なケアは必要だし、社会的なインフラや保障によって救援・復旧の網で被災地を一刻も早く覆ってほしいとも思う。

けれど、見えない自然の驚異によって不可逆な変質を余儀なくされ、単純な統合復旧がままならない場所に立ちつつ、人はなお世界とどう向き合うか、という課題がそこには確実に存在する、ということがいいたいのだ。


さて、そんなことを考えていたら、なんと3月18日(金)の午後2時過ぎ、水道の水が流れ出した。

「ををっ、水が出る~、水が出るぞおおおぉっ!」

試験的な送水で、すぐまた止まるのではないかとおびえつつ、お風呂に水を張る。

待つこと数十分。満々とたたえられた浴槽の水を温め、一週間ぶりにお風呂に入った。
あれほど労力をかけてバケツや衣装ケース、ビニール袋に給水してもらった「貴重な水」が、瞬間にただのいつ捨てるのか、という重い荷物に変貌した瞬間でもあった。

おそるべしインフラストラクチャーの力(笑)。

物心ついたばかりの今から45年前、断水も停電も当たり前で、毎日風呂を(文字通り薪で)焚く生活だったあの時空から、一足飛びに現代の文明的生活にワープしてきたような気分になる。
しかし、1週間前の記憶と、45年前の記憶と、どちらがリアルなのか。時系列の蓄積とは、私の記憶の中以外に、どこにあるのか。

原発の放射能飛散の不安と、いまだに続く余震の揺れは、私の中での「断片化」されたリアルこそが、リアルなのだ、と蜂の羽音のように、ささやきつづけている。








3月17日(木)<父の意識の断片化と『マッド・マックス』的ガソリン需給状況>

2011年03月18日 22時06分59秒 | 大震災の中で
ガソリンが市内に届いた、との噂が朝からささやかれて、またぞろガソリンスタンドには行列が出来ている。
実際、一部の独立系GSでは給油ができた、ということもあって、噂は繰り返し立ち現れる。
実際に給油できたのかどうか、朝並んでいた列は、夕方には消えていて、しかも給油している現場を見たことがないのでなんともいえないのだが。

これはまるで、ガソリンを求めてサバイバルゲームを続けるオーストラリアロケの映画『マッドマックス』を彷彿とさせる。
むろんただ行儀良く並んで、いつ来るとも分からない油を待つっていうのは、映画とは比べようもないほど「牧歌的」ではあるのだが。

さて、また屋根のシートと重しがずれたので、それを屋根に上がって直す。
屋根の上は、地面と比べると驚くほど風が強い。ビニールシートは容易に「風に舞い上がるビニールシート」になってしまう。
これを押さえる重しは土嚢が最適だと最初は分からなかったから、瓦のがれきを重しにした後で土嚢をくくりつけるという二度手間になっている。
素人の仕事とはそういうものなのだろう。

手本のないサバイバルはみな、自分で失敗して落とし前をつけ、その上でやり直すか別のことをやりはじめるかも自ら選択しなければならない。
こういうこと一つとっても、手仕事は面白いものだ。

そして、土いじり(土嚢)と水仕事(給水)を交互に毎日やっていると指先がかさかさに荒れてくる。

日を追うごとにひどくなり、生まれてこの方冬場でもハンドクリームなど付けたことがない脂性の私が、日に何度か手にクリームを塗るようになった。

同僚に教えてもらった消防分団の水道は、給水所と違って人が並ばない。
車も蛇口に横付けできるから、給水し放題である。
良質の水場を見つけた動物は、こんな気持ちになるものだろうか。

一つ一つの行動が「生」と結びつく実感がある。
むきだしの「自然」が露呈する惨事に見合った形で、それと向き合いつつなおも「生」を全うしようとするときにこちら側の内面から立ち上がってくるものこそが「生」なのだろう。

それ自体は断片的な衝動のようなものなのかもしれないが、自然の脅威を「意味あるもの」としてつなげ、それに見合った自己を一貫した行動として効率よく立ち上げていく働きこそが、人間の営みの根本にあるような気がしてくる。

非日常で気分が高ぶっているがゆえの「想像」に過ぎないのかもしれないが。

入院してからこのかた、父親の意識が、より「断片化」してきているような気がする。
遠いところから、病気の負担で思うようにならない身体をなんとか制御しようと苦労している父親の存在を、その断片化された行動の端々から感じると、彼の精神は崩壊しつつあるのではない、という実感が湧いてくる。

これもまた、身内の存在を永続的なものとして捉えたい願望がそういう認識を招き寄せる、と言われてしまうだろうか。

だが、これは正直な実感なのだ。

私が見るところ、精神の「断片化」と「崩壊」とは断固違う。

精神が「崩壊」(ひらたくいうとボケ、ですね)する、という考え方には、元来精神とは「理性的統一」が前提となっており、それを自らも自明の前提とした働きであると、無前提に前提している「匂い」がつきまとう。

私達の脳みそには、実のところ現象を認識すると思考を経由せずにオートマティックに反応する部分がたくさんあって、それらもともと断片にすぎない反応を、後から、あたかも先取りした統一体があるかのように「思う」のがいわゆる「精神活動」なのではないか。。

基本的な脳の活動は必ずしも長期的に一貫性を持っているのではなく、断片化した反応を後から統合して一貫性を跡づけている、といってもいい側面があるだろう。

父を見ていると、その後から先取りして自分を保つという手品のような身振りを「精神」というなら、そのカバー、フォローは必ずしも十分ではなくなりつつあるようにも思える。

認識・思考・記憶・反射・本能・意思・行動などさまざまな枠組みで考えることのできる精神の活動は、みかけほど全てを覆い尽くしている人間身体にとっての神様みたいな存在ではなく、つねに「断片」として存在する様々な働きを、辛うじて取捨選択することで一貫性を見いだしているように思われる。

そのバランス調整が少し崩れると、新たなバランスを求めてぎくしゃくした動きになる。
あるいは体調がいよいよ不良になったり、体力が低下して一貫性が保持できなくなってくると、身体レベルの「断片」がそのまま浮上してくるだけのことだ。

まあ、意識レベルが低下してくる、という意味では崩壊も断片化も同じようなもの、といえばいえる。

しかし、元来統一されているべきもの、という前提で崩壊した、と見なす場合と、もともとけっこうバラバラだったものをなんとかやりくりして統合してきたが、しだいに身体が追いつかなくなって、意識そのものの上に断片がそのまま浮上してくる瞬間が多くなってくる、と見なす場合では、人間観が根本的に変わってくる。

被災者の方が、「普通の生活に戻りたい」「普通でいいんです」と声高でなく、ささやくようにインタビューに答えていたのが印象にのこった。
その「普通の生活」とは、断片的で多方向を指す無数の風見鶏のような現実の事象を、なんとか生活の中で馴致しながら、動的バランスを保つことであり、断じて
「単に蛇口をひねれば水が出るのが当たり前だ」
ということを「普通」というのではあるまい。

もしかすると、発話者の表層的意識としては、電気と水と家があって放射能がないこと、というだけの意味なのかもしれない
「普通の生活」
はしかし、そういう底の話では収まらないような気がする。

特に、この震災をくぐり抜けてしまった今では。

話が少々ずれた。

17日は屋根を補修し、水をまた汲みに行ったあと、おにぎりとゆで卵をつくり、夕刻付き添いの家族に届けに行った。

父は大声で「帰る」「水」「おしっこ」「ご飯」を繰り返している。

なんのことはない、大震災という大事象の中で私達が右往左往しつつ求めている、「水と食事と住居とかえるべき日常」と全く同じことではないか。

壊れかけた肉体の中で父が求めていることと、壊れかけた福島県の南の端で私が求めていることは、意外なほどシンクロしている。

震災の中で無力な自己でしかない私と、壊れかけた身体の中に閉じ込められて、「家(普通の生活の中)でお茶を飲み、こたつでごろ寝がしたい」と願う父は、いったいどこが異なるというのか。

小事象と大事象が二重写しになった「終末」を同時に抱えながら、その中間領域としての仕事とか社会とか、地域とか、国家とかをどう捉え直すか。

ようやく1週間の時を経て、自分なりの課題が見えてきたような気がするのもまた、極限状況における思考の固着化とか、逃避的妄念の一種に過ぎないのだろうか。



3月16日(水)その3<ゴーストタウンのような街並もしくは映画的リアル>

2011年03月18日 19時03分08秒 | 大震災の中で
私の住んでいるところは丘の上で、そこから南に下って病院にいく途中、津波が押し寄せた海沿いの街中を通るのだが、街中のお店というお店が閉まっている。

銀行も、飲食店も、コンビニも、携帯ショップも、喫茶店も、塾も、一軒たりとも開いていない。そして、津波が残した土砂は、道路を薄く覆うだけでは収まらず、さらに両脇に吹き溜まって、風に煽られるたびに白い砂埃を立ち上げている。

昔『ブラック・レイン』という外国の監督映画があって、ざらついた感触のフィルムで撮られた日本の街並が、まるでどこか別の世界のように見えて驚いたことがあった。

津波の後の街は、それに似た違和感がある。

画面の色調はブラック・レインではなく、白っぽい砂埃の立つ西部劇なのだが。

ふと、ここでサバイバル映画のロケをすれば面白い、と空想してしまう自分を止められない。
普段から不謹慎な妄想はよくする方だが、この大震災からこちら、忘れていた不条理な笑いを取り戻しつつある自分を自覚する。

近代が積み上げてきたその突端にあるこの「生活」のリアリティではない、別の「リアル」が間違いなくここには顔を出している。

醜悪だとか、爆笑ものだとか、単純な恐怖だとか、むしろ美しいとか、そういった表象のカテゴリーには収まりきれない、「あられもない」「モノ自体」の感触。

一生に一度しかない、貴重な体験ではあるのだろう。



3月16日(水)その2<閉鎖されたガソリンスタンドに並ぶ車>

2011年03月18日 18時51分59秒 | 大震災の中で
昨日(15日)あたりから、ガソリンスタンドに並ぶ車の列が目立ち始めた。
警察の人が「デマだよ、デマ」といって道路で並ぶ車に声をかける。
実際、独立系のGSのごく少数が給油を行っているが、大手の看板を立てたところで給油しているお店は見当たらない。

病院に向かう途中、2軒のガソリンスタンドが長蛇の列になっていた。当然ながらスタンドは閉じたまま、である。微妙に他のガソリンスタンドもあるのだが、そこのコスモとエネオスだけに人が並んでいるのだ。

コスモは昨日も今日も連日の行列である。そしてスタンドの店員はいない。
車の速度を下げて待っている人に声をかけると
「わかんないけどとりあえず並んでみてるんだ」
とのこと。

たしかに田舎に行けば行くほど、車は生活を支える不可欠の道具になる。
買い物も通勤も病院も、はては断水時の給水でさえ、遠くまで車で水を汲みに行かなければならない。

千葉に避難した息子も6時間待ちで2000円分しか給油できなかった、とメールを寄越す。

どこでも同じ、といえば同じなのだろう。

が、待てば買える場所がまだましだ、とうらやましく思ってしまう自分は、立派に「被災者の僻み」を内面化してしまっているのだろうか(苦笑)。

しかし、被災すると人は慎み深く、優しくなるのも確かだ。それが生きる意欲の喪失や抑鬱ではなく、ある種の振る舞いとして成立していると思えるのは、こんなときでなければできない発見でもあった。

水を汲むにも年寄りのタンクを優先したり車まで運んだり、運べない人にはワゴン車で配達してくれたり。
私の地区は電気が通じているので困るのは水ぐらいのものだが、水場の前では整然と並び、譲り合いながら給水している姿が普通に見られる。
声をかけると、むしろ普段よりも明るく気さくに会話がはずむ。

こんなことを言えばまた不謹慎のそしりをまぬがれないのかもしれないが、命のやりとりをしている瞬間、生活の基盤が切り崩され、不安を形にすることさえかなわない状況の中では、あるとき人はむしろ、豊かな守りの状況よりも優しくなってしまう、ということがあるのではないか。

弱さを肌身に感じて分かるからこその倫理。

自分を安全な場所に置いたきれいごと、としての「優しさ」や「思いやり」ではなく、極限的な場に立つからこそ立ち現れる「不可能」を前提とした連携。

大きな災害という物語が連帯を生むという大事象のメカニズムだけでもなく、
地域や知人友人のネットワークや、職場・社会の相互扶助という中事象のメカニズムだけでもなく、
個人がぎりぎりの極限状況に置かれることによってある瞬間得られる静謐のようなもの、という小事象のメカニズムだけでもなく。

このあたり、さらにもう少し経ってから考えてみたい、と思い、メモしておくことにする。

しかし、いずれにしても多くの人は、ガソリンを入手できなかったようだ。






3月16日(水)<病院閉鎖の危機>

2011年03月18日 18時02分25秒 | 大震災の中で
そろそろ事象は出揃った、と思うのは、つくづく小人の賢しらなのだと分かるのが「災害」というか「事故」というか「自然」の凄いところだ。
ガソリンのあるうちに出勤しておこうと思って準備をしていると、病院に詰めている家族からメール。
「主治医から重大な話がある」
とのことで、仕事を休んで病院へ行くことにする。

原発による避難指令というような巨大な災害の話から、また小さな生と死の現実に引き戻される。
どちらもぎりぎりの話なのだが、事象の「柄」の大小に差がありすぎ、自分の中でうまく一方から他方に身を翻すことができない。

職場では出勤できる人が仕事を続けているのだろうと思うと気がとがめるが、家族の危篤がその「アリバイ」となってほっとする。そして次にはそのほっとする自分を居心地悪くも思う。
若い頃なら、こういうことでグルグル大魔神を召喚して自分を見失うのだろうな、と懐かしく想像する。
50歳を過ぎると、無限遡行やメタベタのグルグルに巻き込まれることが少なくなってくる。

そうなると、むしろ視界は「晴れ渡る」のだ。
思考や視点の生成と消失を繰り返しているうちは、どんな素敵なアイディアがあっても、「モノにする」ことはできない。
素早いステップできりきり舞いをしながらでなければ見えないこと・感じられないこと・考えられないこと・表現できないことも確かにあるのだろう。

しかし、今はもう、そういう「グルグル魔神」に身を委ねることはなくなった。
年を取ってフットワークが失われた、のだろうか。
ぼけてきて知性の反射神経が鈍った、のだろうか。
そうかもしれない。そうでないかもしれない。
巨大すぎて全部を自分では決して認識も受容も対応もできないような事象を目の前にして、何をどう考えるのか。

根本的なものを見つめさせられる非日常の倫理を、日常の倫理と鈍感に取り違える愚は犯したくないが、このポイントも、じっくり考える良い機会である。

病院に行くと、既に家族が主治医から階の移動を告げられていた。
医療スタッフもガソリン不足で通勤が不可能になり、患者さんに退院してもらうかフロアをまとめて戦線を縮小するしかない、のだそうだ。
今の父が退院して自宅で静養するのは、本人にとっては家に帰れるから望むところなのだろうが、病気の治療という面からはかなり厳しい。かといって、物流がいつ戻るか分からない状況では、スタッフの不足も医薬品の底付きもすぐそこに見えているだろう。

加えて原発事故による放射線量の増大が続けば、最悪の場合病院閉鎖も考慮に入れておかなければならない。

もはやそんなことは自分の思考や判断を超えている。
病室を移って、面倒を見てもらえるうちは見てもらう、ということでとりあえず今日は一段落。

ふと、我に返ると、こりゃあ凄い状況だなあ、と改めて思い、なんだか少し可笑しくなって、クスリと笑ってしまう。

人はぎりぎり(どんな種類のぎりぎりかにもよるのだろうが)になると、けっこう笑うものかもしれない。

父は自分でトイレに行きたい、自分で食事をしたい、自分で家に帰ってこたつでうたた寝をしたい、という普通の生活なら「望む」ことさえできないような当たり前のことを望み続けている。
そして、その当たり前ができない状態だからこそ病院に入院し、管をつけられて寝たきりになっている。老齢の身に寝たきりはいろいろと辛い事態をもたらす。

意識は断片化し、しかし付き添っていると、ふと、ごくごく普通の記憶と判断・思考が蘇る瞬間もあるのだ。

小事象としての父の看護

大事象としての原発・津波・大地震、

間の事象としての断水や職場の災害復旧、周囲の人の被災状況、そして友人知人とのやりとり。

どれもが極限形として立ち現れるというのは、人生の中でそうはあるまい。

ようやくこうしたことを考えられるようになってきた、ということでもあるだろうか。

この日(16日水曜)の夜から、このブログの「大震災のなかで」を書き始めることになった。

3月15日(火)その2<楳図かずお『漂流教室』と退避勧告>

2011年03月18日 17時38分59秒 | 大震災の中で
地震が起こってから4日。
大災害が、ようやくその容貌の全容を露わにしてきた、という印象がある。

正直、03/11(金)の時は何も分からなかった。
12日(土)の夕方になっても水が出ず、お店が次々と閉店していくのを目の当たりにして、これはちょっと、と思い始め、
13日(日)に屋根の修理をして、その力の大きさを身体で感じ、
14日(月)、通勤して道路や建物の崩壊度合いをつきつけられ、
15日(火)は原発が1機だけでなく次々に深刻な事態に陥るのを見て、ことの重大さを実感した。

あまりにも巨大な事象は、その時には見えてこない。
これを書いている18日(金)現在も、原発の危険はまだ続いたままだ。これからさきさらに深刻な事態が生じるのか、このまま軟着陸が可能なのか。

夜になって強風が吹いた。
素人のかぶせたシートは無残な状態になり、かつシートの錘として使った針金付きの瓦は、風に煽られて無事な屋根瓦と打ち合わさり、まるで忍者が仕掛けた「鳴子」のように近所中に「カラン、カラン」と鳴り響き続ける。

仕方がないから夜中に懐中電灯と土嚢を持って再度屋根に登る。

本当に、楳図かずおの『漂流教室』か、さいとうたかおの『サバイバル』か、はたまた小松左京の『日本沈没』・『復活の日』か。

あられもない不気味な「自然」の露呈、という観念が、たとえば屋根瓦が落ちてしまった自宅屋根や、橋の欄干にひっかかった車、地割れで通行不能になった道路といった形で「現実化」している。

それを「神」の「表象」として何かを「読み取る」というのとはちょっと違う。
「人知尽力を超えたものを見たときに人間が覚える畏れ」が「神」の「あらわれ」としてその理不尽が現実を受け止めてしまうのだろう」
と言われるかもしれない。まあ、そういうことだ、と言ってしまってもとりあえずはかなり近いのだが、ちょっと違う。

なぜなら、それはそんな「神」概念よりも「リアル」だからだ。その「リアル」をもたらすのも所詮「理性の誤謬」だというのは簡単だが、そういう無限遡及の話には今は付き合わない。

分かる人には分かる、なんていったら怒られるかな。
それは、災害の悲惨さは体験したものでなければ分からない、というのではない。
むしろその逆だ。
「分かる体験」「理解する体験」のその先にこそリアルがある、という風に捉えたい。

言語ゲームや理性の限界という話でもなくて。

だから「自然」即「神」って話が身に沁みるのね。
この身に沁みる感覚は、狂気や非日常にむしろふさわしいのかもしれない、とも思わないではない。
この項も、後日ゆっくり考えるべき事柄の一つ。
今はとりあえずメモだけしておく。




3月15日(火)<水汲み、という仕事>

2011年03月18日 16時43分33秒 | 大震災の中で
 昨日職場で、水道復旧した地区の消防分団前の外水道が自由に給水可能だ、との情報をいただき、朝からそこに水を汲みに行く。
 給水専用の容器がないので、大きな盥や衣装ケースにビニール袋30リットル(市のゴミ出し規格)を二重にして入れ、そこに水を注いで袋の口をゴムで縛る形で水をもらってくる。
 ビニール袋はぐにゃぐにゃして持てないし、衣装ケースは一杯にすると一人では持てない。
 微妙な量で止めて車に積むのだが、これを寒い屋外で毎日のように繰り返していると、指先が油を失ってかさつき、ひび割れしてくる。

 外国の水道がない地域では、水くみは女の大事な仕事だ、なんてテレビの秘境番組めいたものでよく観ていたが、自分がその仕事を毎日やるようになるとは思っていなかった。
 むろん私のそれは車で水道の蛇口までいってポリ袋に水を汲んで車でまた運んでくるだけの
「なんちゃって水汲み」
に過ぎないのだが。

改めて、井戸水と炭が中心で、風呂は薪で沸かし、ガスレンジも灯油ストーブもなく、停電もしょっちゅうだった昭和30年代を思い出す。

仕事以外に生活の多くの部分が、多くの手間によって成立していた。

ボタン一つで風呂にお湯が張れる今とは、どう考えても比較にならない、と思う。

この新鮮な再発見も、のど元過ぎれば熱さを忘れてしまう、のだろうか?
しかし、この大災害(そして原発の災害は現在進行形であり、後年まで大きな傷跡を残すに違いない)は、私達の「上手な忘却」を押しとどめる「神の手」の役割を果たすのではないか。

このことについても、ゆっくり考えてみたいと思う。

メールや電話で、他地域にいる知人友人からの安否確認が届き出す。
今までは電話もほとんど通じなかったが、今日あたりからだいぶ通じやすくなってきたようだ。

インフラ、インフラ、というけれど、大災害の前ではひとたまりもない。
しかし、同時に、高度に発達した環境と技術は、電話の復旧も素早かった。
同様に、原発の放射能漏れも深刻だが、なんとか高い技術で次善の策を徹底して講じてほしいと切に願う。

土地が汚染され、全てを捨てていつ戻れるか分からない状態で「避難民」になるかもしれない、という想像が、空想ではなく自分の現実に近づいてくるこの「不思議さ」を、どう表現したらいいのか、まだよく分からない。

適切な表現が見つかるまでには、時間がかかりそうだ。

そうそう、この日11時に菅総理から、福島第一原発20キロ圏内の住民に待避指令が出たことは、書いておかねばなるまい。
2号機3号機付近で400ミリシーベルト/hの放射線量計測結果がでる。
ミリシーベルトやらマイクロシーベルトやら、人体への影響やら、これもとりあえずは、全くもってただびっくりするほかない。

「とりあえずびっくり」

の後、ではそれをどう受け止め、咀嚼し、考え、行動するか。
一日、二日で答えの出る課題でないことは確かだ。

3月14日(月)その2 <スーパーで\18,000の買い物・息子たちの避難>

2011年03月18日 16時29分45秒 | 大震災の中で
3月14日(月)のこと(その2)
職場を出た帰り道、地元のチェーン店スーパー「マルト」が営業しているのを見かけ、車を停めて店に入る。
日曜日はほとんどの店が閉店だったので、これはいかん、と迷わず買いだめに走る。

豚の肩肉300㌘3パック、豚の挽肉300㌘3パック、キャベツ2玉、冷凍エビ2袋。鰯の丸干し2連8尾×3、ぶなしめじ3つ、アスパラ3束、レタス2玉、トマト8個、キュウリ15本、デコポン4個。タラコ2パック。わかめ8袋、ノリ10枚入り×4、寝たきりの父用介護オムツと尿パッド各2、わけもわからず1万8千円ほど買い物をする。

明らかに衝動買いだめの典型だ。
愚かしいが、あといつこのスーパーが開店するか分からない、と思うと、この行動を抑制するのはかなり難しい。
キュウリ15本って、どういう根拠があって買ったのか不明(笑)。

卵、牛乳、納豆などある程度保存のきくものや、レトルト食品・缶詰・パスタ・カレールーなどの保存食料、除菌ウェットティッシュなどほぼほしいものは品切れである。
それでも肉は冷凍が利くのでとりあえず買いだめ。

それにしても、野菜類ははどう考えても衝動買いでした(反省)。

しかし、そのときはかなり高揚した気分で「やったぜ」状態だったような記憶がある。
実際役に立ったのは、病人用パッドとオムツぐらいだったが。

午後、部屋に戻ってみると、とりあえずすることがなくなっていることに気づく。
茶の間で漫然とTVを観る。津波の映像中心から、しだいに避難所と原発の映像に変わっていく。

どれも自分の現実とは違うのだが、それらがトータルとして「災害不安」となってこちらの背中に書き込まれていくのが分かる。
自分の所はとりあえず屋根もあり、電気も通じ、ガソリンは買えないにしてもまだしばらくは車も動く。

現実にこの災害を内面化して不安になったり気分を高揚させたりすることなく、冷静に自分の現実を見つめ、必要なことと今後を的確に考えていくのは思いの外に難しい。


小さな閉じた「自分たち」の現実



地域・職場・自治体の現状、口コミの情報・ネットメディアの情報、マスメディアがもたらす物語など

との間で錯綜した「情報災害」の実際は、素早く行動することと、じっくり冷静・的確に考察・判断することとの兼ね合いが非常に難しい。

これも後日考えなければ。

ぼんやりと部屋で夕方まで過ごす。夕食はゲットした鰯の丸干し焼きとサラダにおにぎり。

報道は福島原発の切迫した状況を次々に映し出す。
13日の3号機爆発に続き、14日夕方には2号機の燃料棒露出の報道。
昨日はまだ、と考えていたが、夜になって、ミリシーベルト単位の放射能漏れが報道される。

家族の他県避難を考える時期か。

聞けば、周囲の家でも、子どもを中心に避難の動きがあるという。

幸い車1台には半分以上ガソリンが残っている。動くなら今のうち、ということで子ども二人の県外避難を決断。
子どもたちは渋っていたが、とりあえずということで一応の納得。
午後11時に千葉の親戚を頼って出発。

にしても、合間合間に余震が続く。

原発の報道も切迫してくる。
深夜までテレビをみながら茶の間で寝る。

3月14日(月)のこと<職場の建屋が立ち入り禁止!>

2011年03月18日 16時00分20秒 | インポート
月曜日は朝から出勤しようと、職場に出かけた。
途中、道路は波打ったり亀裂が入ったりして、スピードを出すことが躊躇われる。
道がきちんと目的地まで繋がっているのか、がふと不安になった。

こんな気分は、20年以上前の豪雨洪水以来のことだ。
山道を曲がったとたん橋が落ちていて、濁流が目の前を横切っている直前で急ブレーキを踏んだことがあった。

無事職場の下までたどり着き、左折して取り付け道路を登りだそうとして驚いた。

ちょうどチョココーティングされた棒アイスのチョコがぱりぱりと剥がれるように、地面からアスファルトが鋭角に割れて剥がれ、ぎざぎざの断面を空中に付きだしている。
この取り付け道路が一番ひどい状態だった。

仮補修された道路の左端をそろそろと登っていくと、道路とグラウンドとの間に段差が出来ている。
道路が大分沈んだらしい。橋渡されている板に乗ってグラウンドに車を入れると、校庭には車が一杯に駐車してあった。

降りてきた方に尋ねると、一端津波から待避して避難所に入ったけれど、原発の関係で避難所が変更になり、再度避難してきたのだという。
職場の体育館は原発の南の津波被災地の方々の二次避難所になっていたのだ。

職場の建屋にたどり着くと、職員室は崩落のキケンがあり、立ち入り禁止になっている、というので、とりあえず別棟に集合。
今日の仕事は、余震が来たらいつ崩れるか分からない職員室に突入して、書類を持ち出す作業とのアナウンス。
「無理にとは言えないのですが、十分注意して」
と管理職。まあ、しょうがない。

とりあえず、必要な書類は持ち出さないと行けないので、必要最低限のものを取りに、斜めになった部屋に入る。
壁はヒビが入り、床は傾いているのが分かる。

もっとも、考えてみれば公簿類以外、教育という仕事に本当に必要な書類、は必ずしも多くはない。

仕事の本質は、必要なテキストと、教える人間、教わる人間、できれば教室と黒板があればなんとかなるものだ。

うむ。
しかし逆に学校という建屋を膨大な予算で建て直すのであれば、コンピュータでヴァーチャルな「教室」や「教材」を立ち上げ直す方が安上がりで効率的で、平等だ、という考え方もあるだろう。

これほどの大災害は、人間に根本的なところを問い直させる力がやはりある。
後でこれも考えてみなければ。

「やばい書類やしたくない仕事はここに入れてしまえばあとは立ち入り禁止だからね」
などと軽口を叩いて仕事を始めるが、ほとんどのものが床にぶちまけられていて、無理に何かを隠す必要もない。
公簿類やどうしても必要なものを取り出していると、10時過ぎに余震があった。
地震が縦揺れではないのに、床が縦にふわふわ揺れているような感じがある。
「出ろ~っ!」
とのかけ声で、皆が安全な棟への出口に殺到する。
本当に大きな地震が来たらここで死ぬのだな、と思うと、おしりのあたりがすーっと寒くなった。

建設年度の新しい、建て増した1F事務室と玄関、2F職員室、3F図書館の建て屋が一番危ない、というのはどうにも解せない。こんな設計がよく通った、と思うほど柱なしの広いフロアである。

つまりは、南側の部屋は通常の柱があるのだが、北側本来部屋の壁と廊下があるはずなのに、廊下までが一つの部屋として拡張されている。

昔の学校では、廊下のどんづまりの部屋が廊下分大きかったり、音楽室になっていたり、ということが確かにあった。
昔の基準では大丈夫だったものか。

ともあれ、この部屋に入るのももう今日限り、ということで、PCと公簿類、そして個人情報を持ち出し、午前中で危険な作業は終了。

このとき、付き添いをしている家族から、
「福島第一原発3号機の爆発に伴い、窓を絶対に開けないように」
と病院から指示があった、とのメール。

前日から原発のニュースは見ていたが、そのメールで急に地震と津波だけではない災害があるのだ、と改めて実感し、地震以上に嫌な予感がした。


この日の午後はとりあえず解散。明日からは、ガソリンや自宅被災の状況に応じて、休む者は連絡、とのこと。
ガソリンも足りないし、病人の付き添いもあり、水も出ない。とりあえず15日(火)休む旨上司に伝えて職場を出た。


3月13日(日)のこと(その2)<津波の恐ろしさ。>

2011年03月17日 13時53分58秒 | 大震災の中で
3月13日(日)のこと(その2)

 1,小さな病室で父親と向き合い、生死の境界を見つめる営み

 2,不足した物資を求めて買いだめに走る心の中の不安=衝動

 3,道路の断裂による交通渋滞や断水、地震による家の損壊など、具体的な被害

 4,地震そのもののもたらす甚大な被害の報道

これらが次々に襲いかかってくると、受け入れられる自分自身の精神の容量を超えてしまうのだろうか、なにかある種の「高揚感」が短期的には起こってくるようだ。
不足した水を求めて給水場所を探し、生活物資を探してお店を巡り、壊れた瓦を集め、屋根にシートをかけていた2日目から3日目にかけては、そんな「陽気さ」が心を占めていたような気がする。

そんなこんなでバタバタした土日を終える。この頃はまだ曜日の感覚が残っていたようだ。

屋根のシートをかけ終えて屋内に戻り、夕食を取りながらTVを観る。
視聴者が目の前で撮影した映像が放送されている。津波が圧倒的に全てを飲み込んでいく様が、まざまざと映っている。

恐ろしい。

一瞬で全てがさらわれていく恐怖。あまりにあっけないその巨大な力に、ただ畏れを抱かされる。
海辺の町ではおそらく、過去の経験に加えて研究の成果も踏まえ、以前から津波への対応や警戒がなされていたことだろう。

しかし、今回の大津波は、自然に対抗する人間の営みの全てを圧倒的な力で押し倒した。

自分自身はその津波の直接的被害は受けていないけれど、それでもひたすら己の無力を感じさせられる。
できることといえば、父の痰を取り、給水所にいって水を汲んだり、買い物をしたりするぐらいだ。

この日の夜、ようやく自分の置かれた立場と周囲の損害、そして震災の全体像が一つに繋がってきたように思えた。
翌朝にはさらに次のステージが用意されていると知ることになるのだが。





自分も被災者なのだと気づくのは、割と遅い。

2011年03月17日 01時11分32秒 | 大震災の中で
3月13日(日)のこと
 12日(土)の夕方、家に戻ると瓦が大量に落ちていた。

 屋根は合掌するように、二つの斜面が真ん中で合わさっている。そしてその一番高い合わせ目には両端に鬼瓦、その間に丸い瓦が並んでいる。その屋根の「稜線」に当たる丸瓦が全て外れ、その大半が地面に叩きつけられていた。

 おそらく、屋根の斜面は、瓦が繋がっていて、一つの面として構成されていて、その二つの面が大きく揺すられた結果、その力が真ん中の丸瓦に集中し、耐えられなくなって飛ばされたのだろう。

 さっそく12日のうちに家族が瓦屋さんに電話をしたが、屋根が損傷した家が多すぎて、今日は見に来られない、との返事。
13日(日)の朝、もう一度留守をするのでいつ頃現場を見に来てもらえるか、と電話で尋ねると、ガソリンが不足してこれないのだという。

ここでようやく、自分が罹災していることを実感する。そうか、ガソリンも売っていないんだ。

とりあえず応急措置をしておいた方がいい、と瓦屋さんに言われ、ビニールシートを買いにホームセンターに行くが、どこも閉店している。仕方がないので家で使っているシートを引きはがしてかき集め、屋根に上って漆喰が露わになっているところをとにかく覆うことにする。

だが、子どもの頃、母の実家のトタン屋根の塗装など、気軽にひょいと屋根に上って手伝ったこともあるはずなのに、瓦にかけられた脚立の高さが怖い。

あのころの3倍以上の体重と、比較も愚かなほど衰えた運動能力とバランス感覚。
できれば誰かに代わって貰いたいと思った。
しかしもちろん、給水所と病院と買い物とに分かれて動いている家族の中で、屋根を直すのは私しかいない。

分かってはいるが、なかなか足が上がらない。
意を決してはしご段を昇る。脚立から屋根に乗り換えるのに大層難儀した。

だが、いったん屋根に上ってしまうと、はしご段の急な角度とは違ってむしろ緩やかな傾斜である。
子どもの頃のようにぴょんぴょん飛び跳ねて自在に動く度胸はないが、なんとか這いつくばっては動ける。
幸い無風に近かったので、シートを開いてはその端に錘を縛り付けていく。

その重しには落ちた瓦を使い、なんとか瓦の取れた屋根部分の8割程度をカバーした。
その周りや隙間から雨漏りするのはやむを得ないとしよう。

2週間か1ヶ月か、いずれにしても、プロの瓦屋さんが直してくれるまでの辛抱だ。

この日は屋根に上って3時間ほど悪戦苦闘したものの、まだまだ楽観的にそう思っていた。

 それにしても、重病人の泊まりの付き添いとか、屋根に上って応急措置をするとか、今までやったこともない役割が次々に降りかかってくる。

こういう時、人は「人間」についてより、自然とか神について考えたくなるものだ、と思う。
ただし、真っ只中ではなく、少し「ずれ」たところで。

 ともあれ、病人の食事と水、身の回りの世話と、罹災者としての自分たちの食事や水、家のメンテ。
二つの渦の中を行ったり来たり往復運動しながら、とりあえず最初の二日を夢中で乗り切ろうとしていた。

病室での小さな一つの生死と、テレビの中の万単位の生死。

2011年03月17日 00時47分34秒 | 大震災の中で
3月12日のこと(その4)
 病院から家に帰り、食事をしたりお茶を飲んだりしながらTVの報道を見ていると、病室で病人の付き添いをしていた時とは違ったリアリティが生じてくる。

 未曾有の災害が、自分たちの身の上に降りかかっているのだ、ということが次第に「理解」できるようになってくるのだ。

 このあたり、その時には混乱していて何がなにやら分からないというのが実情だったのだけれど、

明らかに病室での実感と茶の間での実感は違っていた。

 これは時系列上、翌日(12日)になって災害の実情の詳細が報道されはじめたという面もあるのかもしれない。
 帰り道に、自分の瞳で災害を目の当たりにしたということもあるのだろうか。

 肉親一人の、死と闘う姿に寄り添うことは、それはそれで濃密なリアリティがある。
 他方、何千人、行方不明の人も含めれば一万人以上とも言われ、避難した人々を含めれば数十万人となる大災害では、人はなによりも「数」として扱われる。しかしそれは簡単に数え切れないほどの量をもった「数」である。

 黒田三郎だったか、亡くなった方の報道の人数に違和感を覚える死があったように記憶している。

 「だがそれは数のことなのか」

 そんな詩句だったか。

たった一人の肉親の生死と、万単位の命、そして数十万人にも及ぶ生活者の基盤の喪失。テレビで繰り返される大津波のスペクタクル、増え続ける死者、行方不明者、避難民の数。

 もとより比較できるものではないし、比較しても意味はない。

 同時に小さな渦と大きな渦と、両方に飲み込まれている、ということなのだろう。

 しかし、まだ自分の中では、その二つのリアリティを、バランスよく手に持つことができずにいる。







モノが消えた!(震災の翌日3/12)

2011年03月16日 23時49分41秒 | 大震災の中で
3月12日(土)のこと(その3)
今、当時のメールのやりとりをたどりながら数日前のことを思い出しつつこのブログを書いている。

それにしても、翌日からこれほど早く商品が棚から消えるということには改めて驚かされる。
あ、思い出した。確かに、11日(金)の夕方、断水の話を聞いたとき、私は病院を出てちかくの酒屋さんに走り、ペットボトルの水2リットル×6本を購入してクルマに積んだのだった。

それは間違いなく地震当日のことである。買い占め心理は、翌日のスーパーで他人の様子を見て起こってきた衝動ではなく、不足や不便がすなわちそれを代替するべきモノの購買欲求に直結しているのだ、ということが改めて確認できる。

16日(水)の時点で、政府から燃料の買い占めを首都圏で行わないでほしい、というアナウンスがなされているのを聞いたが、そういうもの、なのですね、人間は。どう考えても不足するわけはないものであっても、「不安」になるとつい備蓄に走るのは、実際の「需要」とは決定的に異なる行動に違いない。

ただし。
首都圏の知人に水を送ってもらおうと連絡をしたら、既にペットボトルの水が市場から消えていた。
災害援助の側から物流にコントロールが入って、被災地優先にブツが確保されている、という動きも大きくはあるのかもしれない。

ガソリンの不足については、それほど日々の物流に油の供給は頼っていたのか、とびっくりさせられる。これも物流をコントロールする意図が働いているのかもしれないが、その割には被災地にも届いていない。

このあたり、素人かつ被災地の住人には見えない。実感として分かるのは不安にかられた衝動買い、の欲望ばかりである。

結局無事ドッグフードと日本人のソウルフードを携えてドラッグストアを後にすることができた。

この時点では、てっきり「あとは水の心配だけだ」と思っていた。





病室から外へ。メディア→現実へ(信じられない惨状)

2011年03月16日 23時36分40秒 | 大震災の中で
3月12日(土)のこと(その2)

昼前、付き添いを交代して家に帰る。
道路はさほど混んではいない。こっちの道路を行った方がいい、と教えてもらったおかげだ。
通行止めになっていた橋は、津波を警戒してのことだったらしい。今日は何事もなく通ることができた。

しかし、帰り道に海沿いの街並を通ると、はじめて津波のすごさを自分の眼で見ることになった。
川の橋桁にクルマが引っかかって宙づりになっていたり、壁際にクルマが3台、まるで崩れかけたハンバーガーのように積み重なっていたり、警察署の交差点の角に、軽乗用車が突き刺さっていたり……。

こだわるようだが、

「TVの映像で繰り返された惨劇を自分の瞳で再認し、大きな災害の中に再配置していく作業を、そのとき行っていた」

のではないかと、今この16日(水)夜の時点では考えてしまう。

一端家に帰るが、犬の餌が不足していると母が気にしていたので、犬の餌を買いに走るが、どこにも売っていない。
というか、店は開いていても、商品が決定的に不足気味になってきている。

これも不思議と言えば不思議なことだ。
地震の翌日にはスーパーやドラッグストアからモノが消え始める。実際の物不足の前に、災害情報によって不足のイメージが先取りされ、私達の行動がそれを追認していく作業になっているような気がする。
私は最初犬の餌を探していたのだが、これもまた付和雷同というか、他の物資も押さえておいた方がいいのではないか、と、「欠如のイメージ」を共有=内面化していってしまうことになる。

6軒目だったか7軒目に通りかかったドラッグストアの灯りが付いていたので、ダメもとでクルマを停め、店に入る。
照明は半ば消え、閉店間際の様相だ。
既にドラッグストアの隅にある生鮮食料品と飲み物のコーナーは完全に売り切れている。

目的のペットフードコーナーに行くと、まだドッグフードは平積みになっていた。
だが、高齢者(犬)用のものは最後の一袋。
「やった!」
とそれを抱えてレジに向かおうとするが、
「ちょっとまてよ、今水が止まってるけれど、こんな風に商品の棚が空になるのだから、米ぐらいは買っておいた方がいいかも」
と内面化された「欠如のイメージ」がけしかけ、米10キロとドッグフードを抱えてレジに並ぶ。

ところが、気がつくと現金がない!
それまでに、病人用グッズをいろいろと買い足していて、ATMに寄る暇が無かったのだ。
カードで買えばいいや、と思ったが、携帯も通じない状況ではクレジットの照合通信も怪しいかも知れないと思い、レジの人に尋ねると、案の定カード決済は停止中、とのこと。
文明的生活から一つ一つ薄皮をはがすように原始に帰っていく感覚がここで最初に生まれた。

お店から出てもう一度来る頃には閉店になってしまうし、米も高齢者用ドッグフードも最後の1袋。
誰かに買われてしまうかもしれない。
家族に電話をするがなかなか通じない。これで最後と思ってかけた電話が繋がり、現金をお店まで持ってきてもらうことにする。

たくさんの人があるだけの商品を山のように買っていくのをレジ脇で眺めながら、果たしてこの状態から脱して日常に戻るのはいつになるのだろう、とぼんやり考えていた。



父の看病をする閉じられた病室の中、「大震災」はTVからやってきた。

2011年03月16日 22時43分56秒 | 大震災の中で
3月12日(土)のこと

病室の中で眠ったり起きたりの父親と対話する小さな世界から引きずり出されたのは、翌日(3月12日土曜)になってからのことだった。

 港の方は津波で大変なことになっているらしい

 いや、南の方でも堤防を越えて街中まで津波がきたようだ

 中学校と高校が避難場所になったよ

 昨夜からの断水がまだ続いているんだ

 道路も寸断されてるから、渋滞で身動きがとれない

 10日ほど付き添い生活で世間から離れていた暮らしに、突然最大級の衝撃波が襲いかかってきたように思われた。
 切れてしまったTVカード(入院時、病室のテレビはテレカの様な病院専用のカードで冷蔵庫とテレビを度数管理している)を購入してテレビのニュースを追い始めると、朝から地震と津波のニュースしかやっていない。

しかも全局共通だ。

 正直いえば、ほんの数日前までツイッターでマスメディアの報道均一化は記者クラブが諸悪の根源だ、みたいな論調をよく見聞きし、
「ふーん、そういうものか。でも国民国家を情報として支えたのが市民が朝読む新聞であった、という大澤真幸の分析からすれば、いまさら新聞やTVの報道が『均質的』だって指摘するのはどうなの?むしろそういう風に機能することがマスコミの大きな役割だったんじゃないの?」

ぐらいに「新聞(&TV)の読めなさ」を認識していた。つまりは、記者クラブ=マスコミはその均質化の欲望の「鏡」として覗くものだろう、程度に考えていたわけだ。

ところが、この圧倒的な均質報道を目の当たりにして、私は正直、この災害の巨大さを思い知らされていくのである。

それは大事件・大災害だから当然だ。針小棒大に小沢某の政治資金規正法違反をあげつらうのとは訳が違う……といって見ることはできる。

ここはとても難しいところで、間違っても現代文明批判とか、マスコミ批判とかの「文脈」で考えてほしくないし、まして昔は良かった懐古主義とは無縁の話なのだが、40数年前、楢の薪を家の裏に一冬分購入し、それで風呂を沸かし、七輪に練炭を入れて火をおこして煮炊きし、井戸水を汲んでいた頃、そして電話が町内に1軒しか引いていなかった頃は、現在、寸断されると生命の危機さえ覚えるような「ライフライン」なるものは、現代と比べるとその重要性は極端に低かった。
たしかに水道も来ていたし、電気も通じていた。

しかし、年長の人は思い出せば分かることだが、当時は停電があるのは当たり前だったし、断水だってしょっちゅうだった。
そんな風に生活していたのだ。高度経済成長前夜のことである。

ところが、今回、災害はまずメディアからやってきた。
いや、上記の「昔」と比較すると「ライフライン」もまた、ある種の虚構的ネットワークの一種なのではないか、という疑念が、1週間経った「私」の立場からすると頭をもたげてくる。

だが、一足飛びに結論を探すのは控えよう。
とにかく、3月12日土曜日の時点から連続的にTVの報道に釘付けになった私は、閉じられた病室の中で、そこでは病院ということもあり、ライフラインは完全に確保されているにもかかわらず、そして被災地のただ中にいるにもかかわらず、メディアによってはじめてその中に置かれることになったのである。