龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

大きな災害はすぐには全容が掴めない

2011年03月16日 22時21分17秒 | 大震災の中で
3月11日のこと。(その2)
しかしながら、最初は正直なところ他人事の不安だった。
家が海沿いにあるわけではないので、「大津波警報」と聞いても実感は湧かない。
早くみんな逃げてくれればいいけど、と漠然と思うだけのことだ。

被災地の中にいる、と実感しはじめたのは夕方になってからのことだった。

家族で付き添いのシフトをしているのだが、夕方の当番になっている長男と連絡が取れない。
まず携帯が繋がらない、というのが最初の障害だった。

夕方からの当直の看護師の人に
「海側から二本目までの橋は通行止めになっているみたいだよ」
と教えられ、昨日走った橋が落ちたのか、と思うと急に怖くなった。

家族同士でなんとか連絡を取り、長男は学校帰りに大渋滞に巻き込まれていることを知り、もう一晩そのまま病室に泊まることにする。

しかしこの時点ではまだ、一過性のよくある出来事としか考えていなかった。

父親の病状は一週間過ぎたあたりから小康状態となり、家に帰りたいと言い始めていた。
年寄りの長期入院は体力的にも認知の面からも、それ自体が高リスクである。
しかし、高齢者の気胸(咳き込んだときなど、肺に小さな穴があく病気)はなかなか塞がらないのだという。
病気と体力低下、相反するリスクをマネージメントしながらの治療は、なかなか簡単ではない。

病室の外のことは世間の人に任せておこう。

夜になってもまだそんな風に思っていた。

3月11日(金)のこと<宮城県沖地震の記憶と「大津波警報」>

2011年03月16日 22時02分29秒 | 大震災の中で
3月11日(金)のこと 
2月末に父が緊急入院。それからしばらく厳しい容態が続く。
 そのため家族全員の生活が父親の付き添いを中心に回っていた。
 だから、当日3月11日(金)の午後も仕事を休んで父親の付き添いをしていた。

 看護婦さんが病室にきて点滴を替える。世間話をしているうちに、ぐらっときた。最初はそれほど大きな揺れとは思わなかった。去年新築したばかりの病棟は、地震が起きても不安はない。
 だから最初は何も心配せず、他の患者さんの様子を見に行くという看護師さんの代わりにベッドの脇に立ち、点滴が倒れないように押さえていた。

 だが、揺れがいつまで経っても収まらない。
 これは大きい地震だな、と思うまもなく、連続的に大きな横揺れが襲ってきた。

 視線を上げて窓の外を見ると、3Fの病室から眺めた駐車場では、クルマが前後にステップを踏むように「踊って」いた。

 とっさに30年前の記憶が蘇る。宮城県沖地震の時は丁度大学の二年生だった。あのときは、貯水池の水が「踊り出し」て、溜め池の隣の敷地に水が全部飛び出してしまい、底が見えていたっけ。

 いそいでTVをつけると、震源地は宮城県沖だという。けれどそのときは、津波の警報が出ているなあ、とぼんやり思っただけで、病室の日常に意識は戻っていった。

 どうも様子がおかしいと感じ始めたのはそれからしばらく経ってからのことである。考えてみると「大津波警報」というのが聞き慣れない。三陸沖とかはリアス式海岸だから津波の高さが湾の奥で高くなる、とは聞き知っていたが、報道を聞いているうちに、次第に不安が大きくなってくる。

 

京大携帯カンニングのこと

2011年03月04日 00時19分15秒 | 教育
不謹慎かもしれないけれど書いておく。
今回の京大携帯カンニング問題は、結局のところ、犯罪性は稀薄で、むしろ無逆上自爆でしかないのでは?

違うかなあ。

だって、使ったのは自前携帯でしょ?
そりゃ調べたら一発だべさ。

京大受験するなら、そこでまず考えようよ。小説にもならない。
ってかそこまで無知?

いずれにしても一面トップの価値はないよねえ。せいぜい埋め草記事でしょう。

なんか偏った追いつめ方したんじゃないかなあ、自分で。

もっと小さい扱いが妥当だね、いくにんかのひとがいっているけど。

一般にカンニングは、犯罪者的利益欲求の発露であるよりは、追いつめられた人がおかしな方向に熱意を持った結果であることが多く、犯罪というよりは「間違った方向」的要素の強い事象かと。
乏しい経験からの推測に過ぎませんが。

適当に試験を乗り切ろう的なノリじゃないものね、これは。

繰り返していたのだから、もしかして味をしめた?
だったらお灸は据えた方がいいが、ますますたいした話じゃないと思うね。



今夜友人に送ったメール

2011年03月01日 00時24分22秒 | インポート
今夜友人に送ったメール。

救急搬送されてそのまま入院した91歳になる父親の付き添いをして、今夜はそのまま病院に泊まり込んでいる。

するとついさっき、親父が、

「あんたが(っておれのこと)こんなに優しいとは気づかなかったよ、ありがとう」

と言い出した。

オレの中の皮肉屋は、
「へえ、じゃあ今まではどんな息子だと思ってたのさ」
とまぜっかえしたいところだし、

「そんなに優しくねえよ」
と、クソガキとしてはいってやりたい。

格好つけの照れ屋としては
「早くケンカできるぐらい回復してみろよ」

と憎まれ口の一つも叩きたいところだ。

けれど、もうそんな息子の子供っぽいわがままを受け止める「父親」はここにはいない。

そう思うと、複雑なものがこみあげてくる。

しかし一方、管だらけで寝たきりの父親が、それでも生活の本能からかトイレに行きたいと起き上がろうとするのを、辛うじて目覚めた私が抱きとめ、彼の生活の本能を受け止めてこの両手の手のひらの中で緩く溶かして鎮めていく行為は、もはや単に夜中の見張り番というアラーム センサー=道具としての役割ではなくて、彼が死ぬまで生きる限りを尽くしているその場所に、辛うじて共に立ち会うことができる子供としての幸福そのものなのかもしれない、とも思えてくる。

だとするならば、今夜あなたにこんなメールを送れることは、きっと俺にとってはそれが「今夜」を生きることそれ自体、ということになるのだろう。

ありがとう。

おやすみなさい。