年末NHKのニュースで2010年書籍のベストテンを放送していた。第一位は「もしドラ」の流行語に
もなったビジネス書で、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」
という長いタイトルの本である。私はその時、女性キャスターが紹介していた本で「ニーチェの言葉」
というのが気になった。確かニーチェは昔の哲学者、そんな人の本がベスト10に入るのだろうかと。
先日本屋に立ち寄った時、そのことを思いだし手に取ってみた。短文で読みやすい訳になっている。
さて有名な哲学者はどんなことを言うのだろうか?そんなことに興味を持って読んでみることにした。
「ニーチェ」、ドイツの哲学者である。本のまえがきにこんなことが書いてあった。
現在は価値の相対化によって絶対価値が無い状態だから虚無的な時代とも言える。しかし実際には
現代人の価値は金銭と利潤である。人はどこかに絶対的な価値を見いださないと、不安で耐えられ
ないのだ。19世紀までの西欧の絶対価値はキリスト教道徳だった。しかしニーチェはキリスト教道徳
はありもしない価値を信じ込ませる宗教だと解釈した。その道徳は本物ではない、生きている人間の
ためではない、と考えた。では、近代の金銭や利潤は現代の新しい絶対価値だろうか?ニーチェは、
これを神の代替物としてだけの価値だとした。つまり虚無主義から逃げるための新しい虚無主義だと
批判したのである。ニーチェは反宗教的というべきであろう。宗教というものが、彼岸に神とかあの世
とか無制限に道徳尺度を求める態度を押しつけようとすることが、受け入れなかったのであろう。
そうではなく、もっとこの世に生きている人間の道徳が必要だと考えていたようである。
彼はこの世における真理、善、道徳こそ大切だと強く唱えた。つまり今生きている人間のための哲学
を打ち出したかったのだ。それにより、ニーチェの思想は「生の哲学」と呼ばれるようになった。
ニーチェの名が今なお世界的に知られているのは、彼の洞察力が鋭いからである。急所を突くような
鋭い視点、強い生気、不屈の魂、高みを目指す意思が新しい名文句といえる短文で発せられるから
多くの人の耳と心にのこるのであろう。その特徴は主に短い警句と断章に発揮されている。本書では
それらの中から現代人のためになるものを選別して編纂した。要約するとそんな風に書いてある。
ある新聞社の調査で、「日本人」で何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が
72%に上るということである。私自身「宗教」ということに対していい加減で、多種多様な宗教儀式を
無抵抗で受け入れている。例えば初詣、お盆、クリスマス、といったふうに、しかし気持ちの中は神の
存在など信じていないし、恐れすらもっていない。反対に特定の宗教に深く帰依している人を見ると、
自らの自律を失い、マインドコントロールされているように思うのである。私の感覚がそのようなもの
だから、多分72%の人も五十歩百歩なのであろうと思う。昔親から叱られる時「罰があたるから・・」と
叱られた記憶があるが、私は今まで、子供をしかる時に「罰があたる」とは言った記憶がない。それは
自分の中に宗教的な絶対的な価値観がなかったからであろう。そんなふうに宗教心もなく、未成熟な
私も含め、一般の人達にも真理、善、道徳といった精神的な規範や価値は必要な要素のように思う。
「信じるものがない」そんな世の中だからこそ、この本が読まれるのだろうと思ってみた。
本には短文で232編が載っている。その中で「確かにそうだ」と思うものを幾つか書き出してみた。
《自分を遠くから見てみる》
おおかたの人間は、自分に甘く、他人に厳しい。
どうしてそうなるのかというと、自分を見るときにはあまりに近くの距離から
自分を見ているからだ。そして、他人を見るときには、あまりにも遠くの距離から
輪郭をぼんやり見ているからなのだ。
この距離の取り方を反対にしてじっくりと観察すようにすれば、
他人はそれほど非難すべき存在ではないし、自分はそれほど甘く許容すべき
存在ではないということがわかってくるはずだ。
《「~のために」行うことをやめる》
どれほど良いことにみえても、「~のために」行うことは、いやしく貧欲なことだ。
誰々のためであろうとも、何々のためであろうとも、
それが失敗したと思えるときには相手、もしくは事情や何かのせいにする心が生まれるし、
うまくいったと思えるときには、自分の手柄だとする慢心が生まれるからだ。
つまり、本当は自分のためにだけ行っているのだ。
けれど、純粋に能動的な愛から行われるときには、
「~のために」という言葉も考えも出てくることはない。
《精神の自由をつかむためには》
本当に自由になりたければ、自分の感情をなんとか縛り付けて
勝手に動かないようにしておく必要がある。
感情を野放しにしておくと、そのつどの感情が自分を振り回し、
あるいは感情的な一方向にのみ顔と頭を向けさせ、
結局は自分を不自由にしてしまうからだ。
精神的に自由であり、自在に考えることができる人はみな、
このことをよく知って実践している。
《友情の才能が、良い結婚を呼ぶ》
子供というものは、人間関係を商売や利害関係や恋愛から始めたりなんかしない。
まずは友達関係からだ。楽しく遊んだり、喧嘩したり、慰め合ったり、お互いを案じたり、
いろいろなことが二人の間に友情というものをつくる。そして互いに友達になる。
離れていても、友達でなくなることはない。
良い友達関係を築いて続けていくことは、とってもたいせつだ。
というのも、友達関係や友情は、他の人との関係の基礎になるからだ。
こうして良い友達関係は、よい結婚を続けていく基礎にもなる。
なぜならば結婚生活は、男女の特別な人間関係でありながらも、
その土台には友情を育てるという才能がどうしても必要になるからだ。
したがって、良い結婚になるかどうかを環境や相手のせいにしたりするのは、
自分の責任を忘れた、まったくの勘違いということになる。
《ニセ教師の教えること》
この世には、いかにもまともそうに見えるニセ教師がたくさんいる。
彼らが教えることは、世渡りに役立ちそうなことばかりだ。これこれをすると得になる。
こういう判断をすると損をしない。人づきあいはこういうふうにしろ。
人間関係はこうやって広げろ。こういう事柄はああだこうだ。
よく考えてみよう。ニセ教師の教えることは、全て価値判断だ。
人間と事物についての本質の見方など、これっぽっちも教えてくれはしない。
こうして人生の本質すらわからずに生きて行っていいのか。
《自分しか証人のいない試練》
自分を試練にかけよう。人知れず、自分しか証人のいない試練に。
たとえば、誰の目のないところでも正直に生きる。たとえば、独りの場合でも行儀よくふるまう。
たとえば、自分自身に対してさえ、一片の嘘もつかない。
そして多くの試練に打ち勝ったとき、自分を見直し、自分が気高い存在であることがわかったとき、
人は本物の自尊心を持つことができる。
このことは、強力な自信を与えてくれる。それが自分への褒美となるのだ。
今まで私には自分の子供たちに対して、充分な道徳観を植え付けてこなかった、という反省がある。
今年、2人の娘達の誕生日プレゼントはこの本を贈ることにした。
もなったビジネス書で、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」
という長いタイトルの本である。私はその時、女性キャスターが紹介していた本で「ニーチェの言葉」
というのが気になった。確かニーチェは昔の哲学者、そんな人の本がベスト10に入るのだろうかと。
先日本屋に立ち寄った時、そのことを思いだし手に取ってみた。短文で読みやすい訳になっている。
さて有名な哲学者はどんなことを言うのだろうか?そんなことに興味を持って読んでみることにした。
「ニーチェ」、ドイツの哲学者である。本のまえがきにこんなことが書いてあった。
現在は価値の相対化によって絶対価値が無い状態だから虚無的な時代とも言える。しかし実際には
現代人の価値は金銭と利潤である。人はどこかに絶対的な価値を見いださないと、不安で耐えられ
ないのだ。19世紀までの西欧の絶対価値はキリスト教道徳だった。しかしニーチェはキリスト教道徳
はありもしない価値を信じ込ませる宗教だと解釈した。その道徳は本物ではない、生きている人間の
ためではない、と考えた。では、近代の金銭や利潤は現代の新しい絶対価値だろうか?ニーチェは、
これを神の代替物としてだけの価値だとした。つまり虚無主義から逃げるための新しい虚無主義だと
批判したのである。ニーチェは反宗教的というべきであろう。宗教というものが、彼岸に神とかあの世
とか無制限に道徳尺度を求める態度を押しつけようとすることが、受け入れなかったのであろう。
そうではなく、もっとこの世に生きている人間の道徳が必要だと考えていたようである。
彼はこの世における真理、善、道徳こそ大切だと強く唱えた。つまり今生きている人間のための哲学
を打ち出したかったのだ。それにより、ニーチェの思想は「生の哲学」と呼ばれるようになった。
ニーチェの名が今なお世界的に知られているのは、彼の洞察力が鋭いからである。急所を突くような
鋭い視点、強い生気、不屈の魂、高みを目指す意思が新しい名文句といえる短文で発せられるから
多くの人の耳と心にのこるのであろう。その特徴は主に短い警句と断章に発揮されている。本書では
それらの中から現代人のためになるものを選別して編纂した。要約するとそんな風に書いてある。
ある新聞社の調査で、「日本人」で何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が
72%に上るということである。私自身「宗教」ということに対していい加減で、多種多様な宗教儀式を
無抵抗で受け入れている。例えば初詣、お盆、クリスマス、といったふうに、しかし気持ちの中は神の
存在など信じていないし、恐れすらもっていない。反対に特定の宗教に深く帰依している人を見ると、
自らの自律を失い、マインドコントロールされているように思うのである。私の感覚がそのようなもの
だから、多分72%の人も五十歩百歩なのであろうと思う。昔親から叱られる時「罰があたるから・・」と
叱られた記憶があるが、私は今まで、子供をしかる時に「罰があたる」とは言った記憶がない。それは
自分の中に宗教的な絶対的な価値観がなかったからであろう。そんなふうに宗教心もなく、未成熟な
私も含め、一般の人達にも真理、善、道徳といった精神的な規範や価値は必要な要素のように思う。
「信じるものがない」そんな世の中だからこそ、この本が読まれるのだろうと思ってみた。
本には短文で232編が載っている。その中で「確かにそうだ」と思うものを幾つか書き出してみた。
《自分を遠くから見てみる》
おおかたの人間は、自分に甘く、他人に厳しい。
どうしてそうなるのかというと、自分を見るときにはあまりに近くの距離から
自分を見ているからだ。そして、他人を見るときには、あまりにも遠くの距離から
輪郭をぼんやり見ているからなのだ。
この距離の取り方を反対にしてじっくりと観察すようにすれば、
他人はそれほど非難すべき存在ではないし、自分はそれほど甘く許容すべき
存在ではないということがわかってくるはずだ。
《「~のために」行うことをやめる》
どれほど良いことにみえても、「~のために」行うことは、いやしく貧欲なことだ。
誰々のためであろうとも、何々のためであろうとも、
それが失敗したと思えるときには相手、もしくは事情や何かのせいにする心が生まれるし、
うまくいったと思えるときには、自分の手柄だとする慢心が生まれるからだ。
つまり、本当は自分のためにだけ行っているのだ。
けれど、純粋に能動的な愛から行われるときには、
「~のために」という言葉も考えも出てくることはない。
《精神の自由をつかむためには》
本当に自由になりたければ、自分の感情をなんとか縛り付けて
勝手に動かないようにしておく必要がある。
感情を野放しにしておくと、そのつどの感情が自分を振り回し、
あるいは感情的な一方向にのみ顔と頭を向けさせ、
結局は自分を不自由にしてしまうからだ。
精神的に自由であり、自在に考えることができる人はみな、
このことをよく知って実践している。
《友情の才能が、良い結婚を呼ぶ》
子供というものは、人間関係を商売や利害関係や恋愛から始めたりなんかしない。
まずは友達関係からだ。楽しく遊んだり、喧嘩したり、慰め合ったり、お互いを案じたり、
いろいろなことが二人の間に友情というものをつくる。そして互いに友達になる。
離れていても、友達でなくなることはない。
良い友達関係を築いて続けていくことは、とってもたいせつだ。
というのも、友達関係や友情は、他の人との関係の基礎になるからだ。
こうして良い友達関係は、よい結婚を続けていく基礎にもなる。
なぜならば結婚生活は、男女の特別な人間関係でありながらも、
その土台には友情を育てるという才能がどうしても必要になるからだ。
したがって、良い結婚になるかどうかを環境や相手のせいにしたりするのは、
自分の責任を忘れた、まったくの勘違いということになる。
《ニセ教師の教えること》
この世には、いかにもまともそうに見えるニセ教師がたくさんいる。
彼らが教えることは、世渡りに役立ちそうなことばかりだ。これこれをすると得になる。
こういう判断をすると損をしない。人づきあいはこういうふうにしろ。
人間関係はこうやって広げろ。こういう事柄はああだこうだ。
よく考えてみよう。ニセ教師の教えることは、全て価値判断だ。
人間と事物についての本質の見方など、これっぽっちも教えてくれはしない。
こうして人生の本質すらわからずに生きて行っていいのか。
《自分しか証人のいない試練》
自分を試練にかけよう。人知れず、自分しか証人のいない試練に。
たとえば、誰の目のないところでも正直に生きる。たとえば、独りの場合でも行儀よくふるまう。
たとえば、自分自身に対してさえ、一片の嘘もつかない。
そして多くの試練に打ち勝ったとき、自分を見直し、自分が気高い存在であることがわかったとき、
人は本物の自尊心を持つことができる。
このことは、強力な自信を与えてくれる。それが自分への褒美となるのだ。
今まで私には自分の子供たちに対して、充分な道徳観を植え付けてこなかった、という反省がある。
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