monologue
夜明けに向けて
 



 「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本」

 この超難解歌を詠まなければならなかった稀代の天才歌人、額田王(ぬかたのおおきみ)の心中にその時去来していたものは何であったのか。「莫囂圓」と文字を並べるだけで紀の湯に行幸中のその場にいた斉明天皇とまわりの人々にはすぐにその意味がわかり心情を共有できた。「囂」は中世までは「かしかまし」と発音された、騒がしいやかましいの意の文字である。どんなことが起きて騒がしかったのか。それは斉明天皇の弟である有間皇子(ありまのみこ)謀殺事件である。その事件が一行の紀の国滞在中に起こり一番の関心事だったのである。
  

  当時、斉明天皇の弟の子でありながら政権から離れていた有間皇子は、氣の病を装って紀州、牟婁(むろ)の湯に療養に行き、自分の病気が完治したと斉明天皇に伝えたので、斉明天皇は紀の湯に行幸することになったのであった。

  その頃、飛鳥で斉明天皇のかたわらで政治の実権を握っていたこの女帝の息子、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は西暦645年の大化改新以来常に政敵を倒して政権を維持していた。かれは蘇我赤兄(そがのあかえ)をスパイとして有間皇子に近付かせ斉明天皇と中大兄皇子の打倒計画を立てさせた。そして赤兄はそれを密告して有間皇子は守大石・坂合部薬達とともに捕らえられた。斉明天皇一行の紀の国滞在中、斉明天皇4年11月9日(658年12月9日)に中大兄皇子に尋問されたが、有間皇子は「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」と答えた。しかしながら有間皇子は、その翌々日に藤白坂で絞首刑に処せられた。

  この事件を知った額田王は斉明天皇とその取り巻きにはわかるが一般にはわからない暗号として「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」という上句を組み立てたのであった。謀殺とはまともにはいえない辛い苦心のほどが偲ばれる。
fumio

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