monologue
夜明けに向けて
 




  西暦650年を過ぎた頃、額田王は、斉明天皇が舒明天皇の皇后として成した中大兄皇子、間人皇女、大海人皇子、という皇族兄弟のうちの弟君である大海人皇子と恋仲になり結ばれ、十市皇女(とおちのひめみこ)を出産してかわいがっていた。その額田王に兄君、中大兄皇子が思いを寄せたことから史上最も有名な三角関係が始まったのである。

  西暦658年に謀殺された有間皇子のレクイエムを「♪莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本♪」と当時のアイドルシンガーソングライター額田王(ぬかたのおおきみ)が詠み歌った後しばらくして661年には斉明天皇が崩御し、中大兄皇子は663年、白村江の戦いに敗れ、667年には近江京に遷都し、668年についに天智として即位したのであった。

  大海人皇子は次々に政敵を倒してゆく兄の手法を目の当たりにして一家の安全を図り娘である十市皇女(とおちのひめみこ)を兄、中大兄皇子の子、大友皇子と娶(めあわ)せた。そして兄が思いを寄せる妻額田王と別れてしまう。それで額田王は側室兼側近歌人として宮廷に入ったのである。

 天智天皇は蒲生野(近江八幡市東部・蒲生郡安土町・八日市市西部にわたる野)行幸と称して天智七年(668)五月五日、大海人皇子、中臣鎌足ほか諸王群臣すべてを率いて薬狩りを催した。それは時の権力者といえど手の届かぬ人妻であり高嶺の花であったアイドルシンガーソングライター額田王の移籍発表のお披露目の宴であった。

天智天皇の求めに応じて額田王は以下のような歌をシンガーソングライターとして詠み歌い振りを付けて舞った。

皇の蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまへる時、額田王の作る歌

♪あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る♪(万1-20)

標(しめ)を張った野は占有を示し、野の番人(天智)が見るではございませんか、あなたが袖を振って合図しているのをと前夫、大海人皇子に歌いかけた。それは政治的意図で娘ばかりではなく愛妻までも差しだした元夫への怨み節であったのである。

 それに対して大海人皇子は ♪紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも♪

と歌い兄のもとにいる元妻に対して人妻となってしまってもっと恋情が募ると伝えて許しを乞うしかなかったのであった。この時の大海人皇子のひめた心が後の「壬申の乱」の種となったのである。三角関係恐るべし。
fumio

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