monologue
夜明けに向けて
 



わたしは高校卒業後、京都市内の紙関係の商事会社に就職し半年ほどして大阪高槻の松下電子工業に転職した。それはテレビのブラウン管を製造する仕事で毎日ただひたすら決められた数のブラウン管を作るだけであった。昼休みにはみんな広場でソフトボールやバトミントンなどさまざまに過ごした。そのうちに将棋をやっている人達がいてわたしも指してもらうとコロリと負けた。それでそのモクさんという人に毎日指してもらった。実力が違うので駒を落としてもらったが歯が立たなかった。毎日毎日ずーっと負け続けた。どうしたら勝てるのかわからなかった。それで将棋の本を買って夜家で駒落ち将棋の勉強をして会社で昼休みに指すと初めて飛車落ちで勝てた。それからやっと対等である平手で指してもらうことになった。わたしは平手の定跡も覚え仕事場に詰め将棋の本を持ってきてブラウン管を抱えながら頭の中で詰め将棋を解いていた。そしてわたしはモクさんに平手でも勝ち始め、それからモクさんはわたしを敬遠して指してくれなくなった。わたしの職場で指してくれる相手がいなくなった頃、他の部署から将棋を指そうと中尾という人がやって来た、指してみると強くて負けた。かれに会社の将棋部に入れと誘われて金曜の夜に将棋部に顔を出した。するとそこに顧問のプロ棋士中井捨吉七段がやって来て二枚(飛車角)落ちで指してくださった。そして「あんたは一級ぐらいでんな」と実力を判定された。中尾さんも一級なので同じぐらいの実力のようだった。

  昭和49年10月20日(日)第9回京都滋賀職域団体将棋大会が開催され松下電子工業からもAとBのチームが初出場した。Aは段位者を集めBは級位者を集めたのだ。どういうわけかわたしを含めた級位者を集めたBチームが決勝に進み大日本印刷Aを破り優勝してしまったのだ。どのチームも三段四段クラスを揃えて強豪なのに優勝してしまってなにかおかしかった。素人が何段といってもべつにあまり関係ないらしかった。

  中井捨吉七段は生前、将棋連盟に「八段を贈ります」といわれるたびに「わてはそんなもん。いりまへん。」と断り続けた。自分の七段という段位に誇りをもち自分の弟子の弟子のような人たちに八段を贈られることを良しとはしなかったのだろう。現在将棋連盟は亡くなった中井捨吉先生に八段を追贈して中井捨吉八段としているがはたして先生自身はどのように思っておられるだろうか。合掌。
fumio

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