monologue
夜明けに向けて
 

again8  




「カリフォルニアサンシャイン」againその8
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 前日、筆記試験に受かった仲間で試験場にやってきた。
まず日本で運転免許を持っている生徒が実地試験を受けた。日本でも運転経験があるからきっと大丈夫と幸先良い報せを期待して待つ。試験場から街路に出て行くのをみんなで見守っていると途端に停まった。どうしたのかと思っていると、それでテストは終わりらしかった。みんなのところへ帰ってきて落ちた、という。反対車線に入ってしまったのだ。日本で運転に慣れていたのが徒(あだ)になった。車は右側通行なのに左に入ると対向車と正面衝突してしまう。その時点でテストはうち切られるのだ。どうなることかと思う。次の生徒は無事に進行していった。帰ってくるまでどきどきして待つ。しばらくして帰ってくると試験場の横に静かに停まった。採点表をもらって見せてくれた。手書きでfと書かれ落ちていた。安全確認でかなり減点されていた。わたし以外はそれぞれ運転経験がある男達だったのにと不安が大きくなる。もう一人がテストを受けているときわたしの番がきた。昨日稽古した車で待っていると横に試験官が乗り込んできた。東洋系のアメリカ人だった。タイかな、と思った。日本人に対して好感情をもっているようで態度が丁寧だった。とにかくこれから初めて街に出るのだ。おそるおそる進行して行くと当たり前だけど他の車が走っていた。なにも知らないということは強いもので試験官は平気でわたしに指図する。わたしはとにかく安全確認の動作をこれでもかと大きくアピールした。なににもぶつからず試験官のいうままに進んでいると大きな信号にやってきた。多くの車が停車している。汗が吹き出る。命知らずの試験官は「ターーン・レフト」と命ずる。ここを大きく廻って車の流れに入るのだ。わかっていてもあせった。小さく廻りすぎて後ろのトラックにあおられてびびったけれど試験官は「オーケー・オーケー、ゴー・ストレイト」とあまり気にしてないようで機嫌よさそうだった。縦列駐車もなんとかこなし試験場にたどり着くと試験官はその場で採点してくれる。「76点、あまりうまくないけれど、ぎりぎり合格。事故を起こさないように運転してね。わたし日本大好き、Have a nice day!」。
おかげで車に乗れることになった。たった数ドルの費用で運転免許証が手に入ったのだ。
fumio

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again7  



「カリフォルニアサンシャイン」againその7

ダウンタウンの試験場は近いけれど人が多いのでハリウッドに行くことになった。車好きの先輩が手はずを教える。試験場で筆記テスト用紙をもらったらこの車まで来い。この問題集の答えを写せ、でも全問正解せずに二三問間違えておけ。最後に口頭でも試験があるから英語がよくわかるフリすること、すこしぐらい間違えても大丈夫。通すことが試験の目的だから。通ったら実地の運転試験は即日ではなく練習して別の日にすることにしろ、と指示されてみんな試験場に入る。おまえも行けと言われて迷う。なんだか置き去りになったようで決心してみんなのあとについてゆくとやはり全員筆記テストに通った。「これから試験用の車をレンタルしに行こう。試験は慣れている自分の車でも試験場の車でもOKなんだ、オートマチック車だったらゴーカートみたいなものだから借りに行こう…。」という。その頃はシフト車とオート車の違いも知らず なにがなんだかわからなかったけれど近くのレンタカー会社で筆記試験に受かった仲間同士でオートマチック車を借りた。

 昼間は危ないので夜になるのを待って稽古を始めた。人の少ないビバリーヒルズあたりの駐車場で教官然とした先輩の横で初めて自動車のハンドルを握った。生まれて初めてなのでまっすぐ走れない。慣れてくると右折(
ターンライト)左折(ターンレフト)と英語で言ってもらって指示通りに進む。とにかく安全確認、目だけではなく首を大きく動かして試験官に確認していることをアピールすること。教えられるとおりに必死で運転した。「最後のほうで試験場に帰ってくる頃、縦列駐車ができるかどうかみられるから練習しよう」という。たしかに初心者にはむづかしい。コツを教えてもらってもなかなか満足に停車できなかったが信号での左折が課題 として残っているので路上に出ることになった。アメリカは車は右側通行なので左折が問題なのだ。真夜中でまったく車影はない。安全だけど駐車場から出たのがこわかった。大きくまわって車の流れに入れといわれても一台も車はこないので流れに入るという感覚がつかめなかった。とはいえ明日はいよいよ路上運転試験、ハリウッドの町を横に試験官を乗せて走るのだ。
生まれて初めてハンドルを握った次の日に…。
fumio

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again6  


「カリフォルニアサンシャイン」againその6

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わたしは初めての授業が終わるとまずステレオを買いに行った。そして安物ギターをサンセット通りの古道具屋で買った。それだけはどうしても必要だった。
そして夜、眠りに就くと強烈な金縛りにあった。まったく動けない。日本で経験した金縛りと性質が違った。この部屋にはなにか憑いているのかと不安になった。新たな住人への挨拶かも知れない。昨夜は大丈夫だったのにと不思議だった、。やっぱり早めに引っ越そうと思いながら薄目を開けてまわりを見ているうちに眠りに落ちていった。

 授業はもちろん英語だけだったけれどその環境にいるとなぜか意味が通じた。わたしはまったくのハクチというわけではないようだった。アパートで、その頃のヒット曲を日本からトランクに入れてきたカセットテープレコーダーに録音してその歌詞を聴き取って歌う練習をした。わからない部分は学校で休み時間に先生に聞き取ってもらったりした。わたしのわからない部分は先生も聞き取れないことがあった。そんな時は音楽店で売っている新曲の楽譜を見てノートに書き写した。1曲2ドル50セントなのでおいそれとは買えなかったのだ。すると他のクラスの生徒が噂を聞きつけてやってくる。「このごろ、八戒、八戒、八戒、八戒、と繰り返す歌が流行っているけどあの歌、何の歌…」べつにそれは西遊記の八戒の歌ではなかった。それはシルバーズの最新ヒット「ホットライン」 だった。日本人にはそれが八戒と聞こえてしまうのだった。そしてやっと授業に慣れてきた頃、先輩のひとりが「アメリカで暮らすには運転免許がいるぞ、身分証明書としても酒を買うときに必要だし、明日みんなで取りに行こう」と言い出した。わたしは車に興味がなかったので日本で運転したこともなかった。「この国は広いのでどうしても車がいる。ロサンジェルスは地下鉄もないし、仕事もできないぞ、フミオも一緒に来いよ」と強く勧めるので見学するつもりでついてゆくことにした。
fumio

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again5  



「カリフォルニアサンシャイン」againその5
 日本人女性スーパーバイザーは「それでは、クラス決めのテストをしますから副校長の部屋に行ってください」という。
副校長室に入ると黒髪でラテン系の威厳のある中年女性が口頭試験を始めた。当然とはいえ質問もすべて英語だったのでなにもわからない。答えようがなかった。なるべくゆっくり発音してくれているのだが聞き取れない、ハクチと思われたかもしれないと思いながら副校長に付き添われて事務室に帰った。副校長はスーパーバイザーに結果を告げて、バイ、と出て行く。「あなたはABCのクラスの段階のCクラスです。じっくり勉強してがんばって上がっていってください」スーパーバイザーはそういって微笑みかけた。もっと下のクラスがあればそのクラスに振り分けられたことだろう。とにかくクラスが決まった。「アパートを一緒に探してくれる卒業生を喚んでありますから決まったら30ドルあげてください」と卒業生に紹介してくれた。そんなバイトをしているかれの車でバスで通学できる範囲のアパートをしらみつぶしに当たって探す。青空にパームツリー並木が似合う町並み。11月というのに30度を超す暑さで驚いた。相場を知らないので家賃(レント)は高かったけれどどうせしばらくして慣れたら引っ越すつもりで学校の近くに決めた。トランクその他を運び込んでやっとひと心地ついた。
夜、アパートの屋上に登って驚いた。空が広いのだ。日本で見慣れた夜空と違う。なぜかわからない。ずーっと見上げて飽きなかった。前途にやっと光が差し込むように感じた。
 翌朝、Cのクラスに出席して驚いたのは先生が若くて可愛かったことだ。
クラスメイトはほとんど日本人だった。日本で英語の先生をやっていて本場の英語を習いに来たとかアメリカの大学に入るために必要な英語力を身につけるためとか学会でスピーチするためとかそれぞれに動機は違う。年代も19才から50才ぐらいまでまちまち。その生徒たちが美人先生が点呼するたびに日本式に「ハイ」と返事する。すると先生もすかさず「ハイ」と返す。アメリカ人にはそれが習性になっているのだ。挨拶は「ハロー「より「ハイ」の方が親しみ深くてハイといわれると必ず返す。上のクラスならアメリカ式に名前を呼ばれたら「ヒア」とか「イエス」と手を挙げる。Cクラスはみんな新入生でそんなことは知らない。20人ほどのクラス全員が順番に「ハイ」というたびに律儀に「ハイ」と先生も挨拶を返すのがなんともいえずおかしかった。
fumio

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again4  


「カリフォルニアサンシャイン」againその4

アメリカでの記念すべき第一夜はこうして想わぬ形で睡魔との戦いのうちに明けた。やがて従業員以外の人々の動きがでてくる。わたしは相変わらず従業員がこちらを見ると知った人の顔を探すフリして伸びしたり首を廻したりして視線を外す。すると黒人のグループが笑いながら二階から降りてきて「ヒア・ウイ・ゴー」と言ってホテルを出発していった。それがその国の人々が話す会話を初めて聞き取ったことばになった。そうなんだ、さあ、行こう、は「ヒア・ウイ・ゴー」と言うんだ、となんだか感動した・今でもそのことばの響きは耳の奥に残っている、きっと死ぬまで残るのだろう。三々五々ロビーに人が集まり会話が聞こえる。ホテルの朝が始まった。わたしもその中に交じって泊まり客であったかのようにふるまう。トランクを提げてトイレに行ったり身仕舞いをして学校の事務所に人が来そうな時間まで過ごした。公衆電話はたくさんあったけれどオペレーターが出てくるとこわいのでフロントで学校の電話番号を見せて電話してもらった。すると日本語が通じる人がいて近いのですぐに車で迎えにきた。
学校アソシエイテッドテクニカルカレッジは7thストリートにあって歩いても行ける距離だった。
その学校のスーパーバイザーは日本人女性で、昨日空港に迎えに行ったらだれも待っていなかったから仕方なく帰ってきたの、と無駄足を踏んだことの恨み言を口にして怒っていた。わたしはなにか申し訳ない気持で聞いていた。なにはともあれやっとこの双六の上がりである学校にたどり着くことができたのだ。行く手は擦った揉んだの末にやっと真っ暗闇ではなくなった。
fumio

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again3  


「カリフォルニアサンシャイン」againその3
真夜中の空港で重いトランクをさげてあちこちうろうろとしていると車が何台かやってきて人を乗降させてゆく。そのうちにタクシーらしき車が見えたのでそこで待つことにした。つぎにやってきたタクシーに乗り込むと黒人運転手が行き先を訊く。学校の名前を言っても当然ながら知らないらしい。タクシー運転手が知っていそうな目印の場所としてなんとか記憶をたぐって: 535 S Grand Ave, Los Angeles, CA 90071 アメリカ合衆国ヒルトンホテルの近
くということを思い出した、とにかくヒルトンホテルまで行けば探しながら歩いてでも行けるだろうと思った。
それで「ヒルトンホテル」と答えた。すると「ビバリー・オア・ダウンタウン」とまだ尋ねてくる。ヒルトンホテルがふたつあるとは知らない。どっちなのか。クイズの司会者でもない運転手が二者択一を迫る。間違うと知らない所に置き去りにされる。どうしても当てなければこのスゴロクは上がれない。運転手が困っているわたしを振り向いてふたたび「ビバリー・オア・ダウンタウン」と決心を迫る。
追いつめられたわたしは「ええい、」とばかりに「ダウンタウン」と答えた。
 タクシーはすべるように真夜中を走りだした。フリーウエイ、文字通りのフリーで只なので料金所も信号もなく何車線もあるだだっ広い道をまっしぐらに走る。初めて見るアメリカの町の夜景を横目に時計をみるとまだ朝の1時前、こんな時間にホテルに着いてから知らない町をトランクを提げて学校を探して歩くのは不可能のように思えた。どうしたらいいのだろう。あれこれ考えるうちにHarbor フリーウエイからスピードを落としてダウンタウンに入る。運転手にとっては来慣れた場所らしくGrand Ave.(グランドアヴェニュー)上で5th と6th st. の間に位置するホテルの前に停車した。それがヒルトンホテルだった。べつに泊まるわけではないからフロントに行っても仕方ない。スーツにネクタイ姿で良かった。ホームレスと思われたら追い出される。従業員たちの視線に身を固くして入り口付近の待ち合わせロビーに人待ち顔を装って座る。とにかくここで夜が明けるのを待とうと決めた。しかし、しばらくすると疲れが出てうとうとして姿勢が崩れる。そこで寝るな、部屋をとって眠れ,と言われるのがこわかった。何度も姿勢を戻して元気そうにあたりを見回して長い長い夜を過ごした。それがそれから十年暮らすことになるこの国でのホテルで泊まったといえる唯一の経験となった。その後ホテルには泊まったことがないのだから。あれでも泊まったといえるのなら…。
umio

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again2  



「カリフォルニアサンシャイン」againその2
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どのぐらい時間が経ったのか。なにか動きがあったらしい。航空会社同士で話しがついたようだった。あちらの飛行機に乗り込めと指示が出た。乗客をハワイに置き去りにするわけにはゆかないのでノース・ウエスト航空がロサンジェルスまでの航行の肩代わりすることになったのだ。あわてて乗り込む人々のあとについてこれまでと違う会社の飛行機に乗り換えた。無事ロサンジェルスに着くことを祈って…。
 前のスクリーンの映画に集中できるわけもなくこれからどうなるのかと思った。やがて飛行機はアメリカ本土上空にさしかかる。初めて見る希望の地が眼下にあったが飛行機が違うから予定している留学先の英語学校の迎えはきっと来ないだろうと感じて不安だった。連絡をとる方法も知らない。そうこうするうちに
ロサンジェルス空港(LAX)に到着してトランクを受け取り迎えを待ったがやはりだれも迎えに来ない。到着時間も大幅に変わりまだ夜中で空港のまわりは真っ暗。公衆電話を見つけて小銭を入れて学校に電話しょうとしたがオペレーターが出てきてことばが通じない。何度も何度も試した。空港の外に出るとバスが何台か停まっている。日本と同じ方式で乗れるのか、尋ねるにしても運転手はいない。どれに乗ればいいのだろうと行き先の表示を繰り返し見て迷いに迷って逡巡した。なんとかロサンジェルスに着いたもののやっぱり前途にはまだ闇が拡がっていた。
fumio

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このところ、わたしの自伝「カリフォルニアサンシャイン」に光が当たってアクセスが増加しているので
againとして再開します。このわたしの歌をバックに流したカリフォルニアサンシャインヴィデオはカリフォルニアのフリーウエイをダウンタウンからサンタモニカ海岸まで走行する車中から映したものだがこのあと、嵐が来てサンタモニカのピアは風にもぎ取られたので現在はこの桟橋は存在しない。
サンタモニカ海岸にピアがあったことは残念ながら今では歴史になってしまったのである。


カリフォルニアサンシャインagain その1
わたしは幼い頃から音楽が好きでおどけものだった。小学校のクラスのお別れ会で三船浩の歌う連続テレビ映画「月光仮面」の挿入主題歌「月光仮面の歌」を英語版といって「ムーンのライトをバックに受けて」と踊りながら歌ったりした。長じてはリズムアンドブルースやイギリスのバンドに傾倒しアメリカで音楽をやると吹聴した。毎朝犬をひっぱって走り人気のない校庭や畑で大声を張り上げ声を鍛えロック歌手としての基本訓練をした。そして七年間働いて貯金が留学に必要とされる額にやっと達したのでついに計画を実行に移すに至った。わたしは高校卒業後、京都市内の紙関係の商事会社に就職し半年ほどして大阪高槻の松下電子工業に転職した。それはテレビのブラウン管を製造する仕事で毎日ただひたすら決められた数のブラウン管を作るだけであった。昼休みにはみんな広場でソフトボールやバトミントンなどさまざまに過ごした。その工場の隣の班に横堀という同僚がいた。
休み時間に顔を合わせて話すと不思議なことにかれもアメリカへ行くということだった。
1976年11月、早起きして京都の家を出た。胸躍る新たなる門出。
空港でタイ エア・サイアム航空のロサンジェジェルス便に搭乗しいざ出発した。
途中ハワイで給油中、食堂で食事しているとまわりが慌ただしくなった。英語がわからないのでわかりそうな日本女性のそばで話しを聞いた、今まで乗ってきたこの飛行機はロサンジェルスには行かないという。会社がつぶれたらしい。1965年に発足した格安料金航空会社が格安の看板に負けてこの日突然終焉を迎えたのだ。ギャグではなかった。なにもわたしの門出の日を狙ってつぶれなくとも、もう一日でも長く持ちこたえてくれれば良かった。みんな必死で電話したり対策を立てている。どうしていいかわからない。英語もわからないし公衆電話のかけ方も知らないしただおろおろして人の行き来を見守り途方に暮れて前途に拡がる虚空を見つめた。
fumio

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