monologue
夜明けに向けて
 




カリフォルニアサンシャインagainその31
*********************************************************************
 そんなある日、中島茂男は宮下フミオのバンドのライヴでギターを弾くから見に来てくれという。そのバンドはベースがロシア系白人でキーボードが黒人の混成バンドだった。その黒人はのちに喜多嶋舞の父、喜多嶋修のライヴでもキーボードを弾いていた。固定メンバーではなくその時その時でセッションメンバーとして集めるようだった。宮下は空手の形などを取り入れた東洋的な動作をして歌っていた。集中力がすごくて観客を惹きつける妖しい魅力を発していた。それは普通のロックバンドの範疇に入らない音だった。一緒に出るバンドはアメリカらしいハードロックやポップロックが多く宮下のバンドは異彩を放っていた。それはアメリカツアーの一環だったらしい。のちにバンド仲間となったわたしもそのバンドにベースプレイヤーとして参加することになったのである。
 そうこうするうちに宮下にどこかの町のコンヴェンションセンターでのライヴの話しが入った。
そのライヴで使用するアンプの話しになった時、「島ちゃんがヤマハの初期のギターアンプをもっているから喚ぶ」と宮下が言った。島ちゃんとは本名、島健 で、ミッキーカーチスのバンドで渡米してそのままアメリカに滞在し、チック・コリアやジャズトランペッター、アル・ヴィズッティーのバンドに参加しているピアノ及び、キーボードプレィヤーだった。やってきた島は「昔、ギタープレィヤーだったからそのギターアンプを持っているんだ」と言っていた。それがその後、日本でプロデューサーとして活躍してレコード大賞曲ツナミのストリングスアレンジなども行うことになる島の若き日の姿だった。
そのようにして「宮下フミオのシンセとヴォーカル、中島のギター、島のキーボード、わたし山下のベース、」という布陣のツアーバンドが始動したのだった。金儲けではないので出演料はなくパフォーマンスを行うこと自体が目的だった。ライヴ会場のコンヴェンションセンターに入ると次々にパフォーマンスが始まる。やはりアメリカはカントリーミュージックの国で、土地柄か他のバンドはほとんどカントリーバンドだった。その中で宮下文夫のバンドの演奏はかなり異質だっただろう。受けたのかどうかよくわからなかったけれど夜のクラブや酒場ではないアメリカの一般民衆の息吹に触れる経験ができて面白かった。アメリカツアーは各地のカントリークラブ、宗教施設、大学、アーケード、人の集まる所なら呼ばれるとどこででも演奏したが出演料を要求することはない。宗教の形ではなく人々と音楽で一体化してスピリチュアルな時間と空間を共有することが目的だった。日々の生活に要する費用は夜のクラブや結婚式その他のパーテイなどのイベントの演奏で捻出した。
そんなある日、宮下文夫が「今度、30才になるから改名する」と言い出した。日本にいる母親が、これまでは文夫で良かったけれど30才からは字画がもっと多いほうがいい、と言ってきたという。それで姓名判断で「富実夫」に決まったのであった。こうしてわたしたちの名前はずいぶん似た字面になった。だれがfumio miyashitaとfumio yamashita、 宮下富実夫と山下富美雄、こんな同じような名前をもつふたりを中島茂男という中の島を介して同じ時期に同じ場所に招き、同じ仕事をさせる計画を立てたのだろう。そしてのちにわたしの誕生日(2月6日)が宮下富実夫の肺疾患での命日(2月6日)となることもすべて経綸(しくみ)であったのだろうか…。それはただの思い過ごしだろうか。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




カリフォルニアサンシャインagainその30

***************************************************************
中島茂男とふたりで仕事を始めた数軒のクラブでわたしと中島がアコースティックとエレクトリックのギターで一緒に演奏していると、ギターでオカズを入れたりする時、互いのフレーズがかぶることがよくあった。それで中島がわたしにアコースティックギターのかわりにベースを弾いたらどうか、と提案した。わたしはなるほどと思って次の日、楽器は古いほうが木の質が良いので中古楽器を探して日本の雑誌でもオールドギターの聖地として紹介されているサンセット通りの質、古道具店(ポーンショップpawn shop)をまわった。さすが世界のロックの中心地、何軒かまわるうちに目当てのロックベースの定番、 フェンダー・プレシジョン・ベースの状態がいいものがあったのですぐ購入して帰って一日中、教則本と首っ引きで基本的な弾きかたを覚えてその夜の仕事に使った。言い出しっぺの中島は演奏するそれぞれの曲のコードフィーリングが強まり曲想が深くなることに驚いていた。しっかりしたベースの上に構築する音楽は生きてくる。やはり何事も支えが大切であることを思い知った。突然クラブ「エンカウンター(邂逅)」で無理矢理のように邂逅させられて組み合わされて始めたバンドがやっとプロらしい本物の音を出し始めたのであった。ベースの重要性はよほど感性が優れているか実際に使用してみないとわからないものである。ベースは基音を弾くので弾きながら歌を歌うと声が安定するのだ。そんなわけでわたしは以来ビートルズのポール・マッカートニーのようにベース弾きボーカリストになったのである。
先日、シゲさんがわたしの家に寄った時、セッションをしたのだがわたしがメロデイを歌っていてここでオカズを入れてほしいと思うとロサンジェルス時代と同じように以心伝心で入れてくれた。何年たっても音楽的感覚は継続していてうれしかった。
fumio



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




カリフォルニアサンシャインagainその29
****************************************************************************************************
中島茂男は淡谷のり子が審査委員長を務めたロサンジェルスでの「海外のど自慢大会」でフォークの歌を歌って優勝したこともあったがそれでもLA(ロサンジェルス)の音楽関係ではなかなかいい仕事がなく、外に立っていると銃を構えた男たちが射ってきて頭の上のガラスに弾丸の穴があくようなリッカーストア(酒屋)の店員をしたりしていた。あまりいい環境とはいえない地区である。それで大型クラブ「エンカウンター」のエンターテイナー募集のオーデションを受けたのであった。
昔、60年代後半から70年代初頭にかけてヤング720(ヤングセブンツウーオウ)という若者向け番組があった。今記憶している司会者は「関口宏、松山英太郎、竹脇無我、由美かおる、小川知子、大原麗子、吉沢京子、岡崎友紀 、黒澤久雄、目黒祐樹」 といった当時売り出しの若者たちだった。ヤング朝食会というトークコーナーには横尾忠則など当時を代表する新進気鋭の芸術家たちがでていた。グループサウンズブームのはしりのころで多くの若手バンドが出演していた。今も憶えているのはゴールデンカップス と改名する前の横浜のバンド「グループ アンド アイ」の演奏で日本のバンドと思えないリズム・アンド・ブルース・フィーリングをもっていて素晴らしかった。当時、若者であったわたしたちはこの番組によって時代の息吹を感じたものだ。
SFの相棒となる、中島茂男は日本時代、この番組に出演したりするミュージシャンだった。渡米後、ミュージシャン仲間だった泉谷しげるや井上陽水、山本コータロー、モップスの星勝 らが訪ねてゆくようになる。
鈴木ヒロミツが役者に転進して出身バンド「モップス」をおろそかにするようになってギターの星勝は「月光仮面の歌」を自分で歌ったりしたがアレンジを本格的に勉強して井上陽水のアレンジを担当することになって自分のアコースティックギターを中島茂男に貸しておいてロサンジェルスで仕事をする時、そのギターを使ってアレンジするようになったのである。それでわたしはホテルにそのギターを運んだものだった。
fumio


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )