monologue
夜明けに向けて
 



カリフォルニアサンシャインagainその28
クラブ「エンカウンター」の支配人ジョージ氏は、プロデュース能力に恵まれて様々なイベントを企画してその開催したエンターテイナーオーデションはさながら天下一ミュージシャン選考会の様相を呈して日頃顔を合わせることのない他のエンターテイナーと知り合ったりしてコンテスト独特のある種の高揚感に包まれて楽しかった。その様子をラジオ局のサテライトスタジオと化したクラブからリモート生中継したりしてアナウンサーが番組の中でわたしになにか歌えと所望するのでわたしはその日の担当のピアニストにバック伴奏を頼んで「また逢う日まで」をライブで歌ったものだった。ギタリストは大型高級クラブ「エンカウンター」のエンターテイナー選考の選択肢にあまり入ってなかったようでほとんどのギター奏者がふるい落とされた結果そのオーデションに奇跡的にたったふたりだけ受かったギター奏者は、エレキギターの中島茂男とアコースティックギターのわたしだけだったが大繁盛していた当の「エンカウンター」が経営不振で突然つぶれるとすぐにふたりで働ける店を探してハリウッドのクラブ「蝶」やLAPD(ロス市警)の隣の店「燈り」やダウンタウンのリトルトーキョーの白龍飯店(インペリアルドラゴン)に一緒に出ることにした。それである日、中島の長屋でビートルズの「No where man」など数曲練習していると、ヨーロッパツアーを終えてアメリカツアーにやって来たファーイーストファミリーバンドの宮下フミオが生まれたばかりの子供(ジョデイー天空)を抱いてやってきた。それが宮の下と山の下のフミオと中を取持つ中の島で構成されるバンドSFの始まりだった。
fumio

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カリフォルニアサンシャインagainその27
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その「SF」というプロジェクトの相棒中島茂男、シゲさんはわたしが日本へ帰ると、ロサンジェルス、リトル東京の旅行店キャラバンサライを手伝って、社長が店を閉めるというからフロリダに移ってキャラバンセライオーランド旅行社をやりだしたのだった。そしてギターバンドWajindenを作って音楽活動も続けて
米国フロリダ州オーランドのEolaドライヴにある公園にやってくる動物たちの生態を捉えて音楽化したり2014年2月に奥さんのAkikoさんが喉頭癌で亡くなってからRecollection (在りし日)という曲を作ってコンサートで演奏している。
そして、昨年師走10日の朝、Wajinden music performance - Orlando Japan Festival 2023日本公演に来たシゲさんから突然、行ってもいいかと電話がかかってきた。
OKすると午後2時にタクシーでシゲさんがひとりで来て、シゲさんはコーヒーを飲みながらわたしのギブソン• アコースティック• ギター• ハミング• バードを弾き色々ロサンジェルス時代のレパートリー思い出のグリーングラスマイウエイホテルカリフォルニアカントリーロードプラウドメアリーなどをセッションした。シゲさんに伴奏してもらうのは本当に久しぶりで楽しいライヴだった。終わるとこれから中目黒に行くというので驚いた。音楽活動は忙しくて大変らしかった。
fumio

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agan26  


カリフォルニアサンシャインagainその26
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「未知との遭遇(Close Encounters of the Third Kind)」 という映画が1977年11月に公開された。翌年、その題名にちなんだような「エンカウンター(Encounter)」という日系の大型クラブがロサンジェルスのダウンタウンに開店するのでエンターティナーのオーディションがあるという噂が流れた。行くと多くのミュージシャンが集まっていた。
ロサンジジェルスのエンターティナーといっても色々でピアニスト、ギター奏者、ハープ奏者、ジャズバンド、マリアッチ、ロックバンドなどなど店や地区、人種によって様々である。当時エンターテイナーとして活躍していたロサンジェルス中のピアニスト、ギタリストが集まって覇を競った。さながら天下一ミュージシャンコンテストのようだった。ピアニストが多くギターではレコード大賞を獲得した「シクラメンのかほり」を弾き語りする人が多かった。順番にパフォーマンスをしてゆき、わたしも順番が来ると「シクラメンのかほり」をギターで弾き語りした。支配人は一週間分のエンターティナーを選考してそれぞれに曜日をあてがった。選ばれたのはやはりほとんどがピアニストだった。日本でレコードを出している歌手もいた。結局、ギターで選ばれたのはアコースティックギターのわたしとヒゲが印象的なエレクトリックギターの中島茂男だけだった。マネージャー、ジョージ氏は最後に、君たちはふたりでやってくれという。エンターティナーが二人でやるというのは聞いたことがない変な話しだったけれどバンドの入っている雰囲気がして店が華やぎ演奏が豪華になる。開店してしばらく店は大盛況だった。客が帰ったあと多くのホステスたちがチップの取り分争いでつかみ合いするのを目のあたりにして驚いたりしたものだった。
けれどしばらくすると客足は遠のきなぜかあっけなくそのクラブはつぶれてしまったのである。それでヒゲの男、中島茂男(シゲさん)とふたり一緒に仕事を探すことにした。ふたりで仕事する方が楽しかったから。何軒もまわり広めの店に二人でひとり分のペイで数軒の店に入った。それでなんとか食ってゆけることになった。あの「エンカウンター」、つまり「邂逅」という名前のクラブはわたしたちを巡り合わせるために一瞬だけ存在した店であった。あの支配人が一緒にやれなどと奇矯なことを言わなければ「SF」というプロジェクトは生まれなかったのである。
fumio

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カリフォルニアサンシャインagain その25

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 わたしの妻となることになったこの女性は日本で教習所に通って自動車運転免許証を取得していた。運転免許はこの国では身分証明書として頻繁に必要になるから、わたしごときが人に教えるのはおこがましいけれど米国の運転免許取得のためにと、日本とのルールの違いの認識や安全確認の重要性を力説してしばらく稽古につき合った。すると78点で合格した。運転もうまいといわれたという。良かったことは良かったけれどなんだか気が抜けた。当たり前だけどわたしの場合ほど心配することはなかったらしい。
 わたしたちは結婚式場を探した。どこがいいかさっぱりわからなかった。日本人の牧師さんがやっている教会に頼んでみようかと相談してセントメアリーという教会を訪ねた。しかし信徒さんでなければだめです、と期待は虚しくあっさり断られた。それでイエローページを調べて日本の芸能人がよく結婚しにやってくるという ガラスの教会を見つけた。そこは寄付金(ドーネーション)を納めれば良いということだった。電話すると土日の寄付金が一番高くて金曜日が割安だったので1978年2月17日(金)に決めた。結婚記念日はそんな経済的理由で決まった。
 そのランチョー・パロス・ヴァーデス地区にある太平洋に面した丘の上のスエーデンボルグ系の教会、Wayfarer’s(徒歩旅行者)Chapelは帝国ホテルの建築家、フランク・ロイド・ライト(1869-1959) がなんと日光東照宮大猷院(たいゆういん)を模して設計したものだった。
1978年2月17日(金)にロサンジェルス・ランチョー・パロス・ヴァーデス地区にある太平洋に面した丘の上のスエーデンボルグ系の教会、Wayfarer’s(徒歩旅行者)Chapel(ガラスの教会)で英語学校で出会ったふたりが式を挙げた。
そこは帝国ホテルの建築家、フランク・ロイド・ライト(1869-1959) が日光東照宮大猷院(たいゆういん)を模して設計した教会だったのでサイモンとガーファンクルのソー・ロング・フランク・ロイド・ライト」を聴くと思い出す。
fumio


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