monologue
夜明けに向けて
 




わたしがこれまで一番歌がうまいと思った日本人歌手は尾崎紀世彦だった。
それでわたしは米国留学生活時代、尾崎のアルバムの1曲「ジョージア・オン・マイ・マインド」を練習してNBCテレビの「ゴングショー」に出演したのだった。視聴者は日本人がどうしてジョージアの歌を歌うのか変に思っただろう。
カリフォルニアサンシャインagain その20
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、米国NBCテレビの超人気バラエテイ番組「ゴングショー」にわたしが出場したのでクラスメイトのアルゼンチン娘オルガがわたしも出たいというのでサンセット通りのNBCのオーディション会場にオーディションに連れて行った。 名曲We are all aloneを一生懸命稽古してオーディションに臨んだが残念ながら落ちてしまった。南米系の出場者は多いので厳しい。わたしの場合は日本人が英語の歌をテレビのコンテスト番組でソウルミュージックを歌うのは珍しいので面白いからオーデションに受かって出場できたらしい。
fumio

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カリフォルニアサンシャインagain その19
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、米国NBCテレビの超人気バラエテイ番組「ゴングショー」にわたしが出場したのでクラスメイトのアルゼンチン娘オルガがわたしも出たいというのでサンセット通りのNBCのオーディション会場にオーディションに連れて行った。 名曲We are all aloneを一生懸命稽古してオーディションに臨んだが残念ながら落ちてしまった。南米系の出場者は多いので厳しい。わたしの場合は日本人が英語の歌をテレビのコンテスト番組で歌うのは珍しいので面白いからオーデションに受かって出場できたらしい。
fumio

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カリフォルニアサンシャインagainその18
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その頃、米国NBCテレビの超人気バラエテイ番組「ゴングショー」は新人芸能人の登竜門として人気で運のいい出場者はレコードデビューしてビルボードHot100に入ってゴングショー出身歌手として人気になった。歌、ダンス、ジョーク漫談など審査員の前で様々な芸を披露して競う。パフォーマンスが良くないか、あるいは面白くないと途中で判断されるとその時点で合図されてゴングを鳴らされて打ち切られる。その時の出場者の愕然とする反応がなんとも面白くて人気があったのだ。最後までゴングが鳴らされないとジューシー・モーガンなど4人の辛口、軽口の人気審査員たちがおもむろに点数札を上げてその点数の合計でその週の優勝者が決まる。賞金は500ドルでわたしの通ったLA HIGH(ロサンジェルス高校)外国人英語教育プログラムの同級生たちはみんなゴングショーのファンで、フミオも出演しろ、と勧める。この番組に日本人が出演するのは見たことなかったけれど貧乏留学生のわたしにとって500ドルは大金でもし賞金がとれればこの国で何か月か暮らせると思って応募することにした。わたしが応募した日のサンセット通りのNBCのオーディション会場にはスターを夢見る夥しい応募者がやってきて控え室はごった返して殺気だった雰囲気の出場者が真剣に踊りやパフォーマンスの稽古していた。そのオーデイションの空気は神経質でピリピリしていた。集まったシンガー達はスターを目指すだけあってさすがにみんな感心するほど歌がうまかった。順番にパフォーマンスしてゆき、わたしはギターを抱えて師と仰ぐレイ・チャールズのジョージア・オン・マイ・マインドを歌った。第1次選考に通って数日後、第2次選考に喚ばれて行くと今度は人が少なく、歌ってみせるとキーボード奏者が音合わせしてどういうふうにギターを弾くかとかオーケストラのキーの打ち合わせなどをしてOKが出て誓約書を渡された。本番の時、オーディションと同じ服装で出ることなど、こまごまとあってバラエテイなのであまり羽目を外し過ぎてショーをぶちこわさないように誓約させるらしかった。 放送には7秒ルールというのがあってライヴ放送でも7秒間遅らせて放送するのだと学校の先生が言っていた。それで突然の放送禁止用語にも対処できるし電波ジャックにもその7秒で対処するということだった。放送業界は表面上楽しそうでいて、いつも神経をとがらせているのだなあと感心したものだった。
本番で「ジョージア・オン・マイ・マインド」を歌う時「フミオ・フロム・トーキョー」と紹介されて、京都出身なので「キョートなのに」と思った。日本といえばトーキョーと言うのが決まり文句のようだった。
歌っている途中、司会も兼ねていた名プロデューサー、Chuck Barris(チャック・バリス)が女性と踊ってみせて、最後までゴングは鳴らされなかった。点数は審査員全員8点の札を上げてコメントは「ナイスバラード」だった。日本的発音の言葉の訛りで途中で打ち切られなくてホッとした。
fumio



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カリフォルニアサンシャインagainその17
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 経済的にいよいよ逼迫して早くなんとかしなくてはならない。そんなとき、10thアベニューの学生寮のようになった家に転がり込んできた女子学生が夜、日本人街(リトル・トーキョー)の日本食レストランでアルバイトを始めてその店のピアノバーでエンターティナーを探しているという。早速、GTOにギター、譜面その他を積んでその店に向かった。店を探して夜のリトル・トーキョーをグルグル廻っていると不審車両と思われたらしくLAPD(ロサンジェルス警察)のオートバイに停められた。わけを言うとその店の場所を教えてくれた。店のオーナーは女性ピアニストを探していたのだがオーナーにギターの弾き語りをしてみせると仕方ないと思われたのか採用された。夜9時から朝2時まで演奏する。それが米国での初めての仕事だった。オーナーの意向は女性ピアニスト好みだったがわたしの演奏はバーテンダーやスシ職人など従業員には評判が良かった。その店は「栄菊」といって「子連れ狼」で有名な若山富三郎がオーナーのロイさんと仲が良かったのでアメリカにヴァケーション休暇に来ると寄るという話だった。芸能事務所の関係で日本の有名ジャニーズ系男性アイドルグループもやってきた。ある時見かけも態度もかっこいいバーテンダーが立派な特製オーデオ装置を備えたワンボックスワゴンにわたしを連れ込み天国への階段を練習しているのでギターでバックの演奏してくれと迫る。ハードロックのボーカリストになるのが夢のようだった。女性ロックボーカリストになろうとしてシカゴの長い夜を何度も練習しに来る女性もいた。わたしを含めてみんなそれぞれの夢にむかってさまざまにもがきながら進んでいた。その世界で成功するにはよほどの運と実力が必要なのだけどみんな途中であきらめてしまう。ネヴァーギヴアップ
fumio

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カリフォルニ

カリフォルニアサンシャインagainその16
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そろそろ、車を購入しようと思った。この街ロサンジェルスは世界で一番広いことで有名なので仕事をするには車が必要だった。日本語新聞「羅府新報」の売買欄で「中古車売りたし」を見て車に詳しい友達と何カ所か廻った。見かけは良くとも走るうちにハンドルがちょっとずれたりするものは事故車のようでやめて最終的にポンティアックGTOを450ドルで買った。なぜならロニーとディトナスのGTO という曲が好きだったから。それは以前サーフィンミュージックとともに流行したホット・ロッド音楽で、米国のバイク界を席巻したホンデルズのリトル・ホンダ と並ぶ名曲だった。残念ながらリトル・ホンダのほうは社名が入っているのでNHKではあまり流れない。わたしには車の善し悪しは判断できないのでそんなことで決めたのだ。とにかくこれで車が手に入った。スピードは出さずよたよた、あるいはヨロヨロという感じで毎日稽古し慣れるとやっと学校まで走った。
fumio

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「カリフォルニアサンシャイン」againその15
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 やがてアダルトスクールの主要メンバーであったイランからの留学生達はいつのまにか姿を消し気が付くと本国イランでは親米強硬路線パーレビ政権が倒された。イランイスラム革命と呼ばれる革命が勃発したのだ。あの留学生達も新政権樹立に働いたのだろう。残念なのは革命後振り子の反動のようにあまりにもナショナリズムが強くなりすぎたことだった。あの思慮深げな人物のような指導者が中枢になってコントロールすることができなかったのかもしれない。
fumio

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olga  


カリフォルニアサンシャインagainその14
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隣の席のアルゼンチン娘オルガ・ゴメスは可愛くて性格も良くてクラスの人気者だった。
「男のものは日本語でどう言うの」と訊いたり、わたしがギターを抱えてオリジナル曲打ち上げ花火を歌うと気に入って
教えてくれ、というので日本語で教えた。するとすぐに覚えて歌えるようになった。
それでそれからわたしがギターをスリフィンガーピッキングでバック演奏してコーラスした。
打ち上げ花火はしばらく学校中でヒット曲になったのだった。
オルガは今でも歌詞を覚えているだろうか・・。
fumio


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