http://the-liberty.com/article.php?item_id=9553
中国の中山大学の研究チームが投稿した、ヒト受精卵の遺伝子を操作したとする論文が、このほど中国科学誌「プロテイン&セル」に掲載された。ヒト受精卵の遺伝子改変の報告例は、世界で初めてとなる。
論文によると、近年普及している、酵素を用いて遺伝子を改変させる「ゲノム編集技術」を用いて、遺伝性の血液の病気に関する遺伝子の改変を試みた。目的の遺伝子の改変を確認した一方、目的外の遺伝子を改変してしまったケースも見られ、臨床実験にはさらなる検証が必要と結論づけた。
「ヒト受精卵の遺伝子を操作すると次世代にまで影響が及ぶ」という倫理的な理由から、世界の主な国には、受精卵の遺伝子改変を禁止する法律やガイドラインが存在している。論文はネイチャー誌やサイエンス誌にも投稿されたが、倫理的な理由から掲載を却下されたという。
また、ゲノム編集技術は発展途上の技術であり、目的の遺伝子以外も改変するなど安全面での課題が多い。さらに多くの国では、この新技術を受精卵に対して使うことは禁止されていない。そのため、政府から未承認のまま、ヒト受精卵の遺伝子改変の実験が進められる恐れがある。
遺伝子操作などの問題を考える際に、宗教的な観点は欠かせない。
受精卵の遺伝子の操作実験を進めることは、試験管ベイビーの誕生や、最終的には、クローン人間の創造につながっていくと考えられる。特にクローン人間は、臓 器提供用に使われたり、奴隷階級としてロボット代わりに使われたりする危険性があり、新たな差別問題が生じる可能性がある。
受精卵の遺伝子操作などが進みつつある背景には、人間が唯物論に流れ、信仰心を失くし、「神に成り代ろうとしている」ということがある。
科学技術が進歩し、生活や社会が豊かになるのはよいことだ。だが、現代のように、科学の進歩によって唯物論が蔓延し、人々から「神に創られた存在である」という確信に基づく信仰心が失われるようでは、人間は実は退化していると言わざるを得ない。
科学技術が進歩すればするほど、人間の精神性や信仰心も向上していくような社会を目指すべきだ。(泉)
【関連書籍】
幸福の科学出版 『「人間学概論」講義』 大川隆法著
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幸福の科学出版 『アトランティス文明の真相』 大川隆法著
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=33
【関連記事】
2015年3月27日付本欄 アンジェリーナ・ジョリー がん予防で卵巣摘出 遺伝子では分からないこともある
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2015年3月23日付本欄 「遺伝子がすべてなのか?」 ノーベル賞受賞者らが講演
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遺伝子を操作しクローン人間や、人体改変をするなど普通に考えればタブーなのは当たり前。
しかし、それが解からないのが支那人なのだ。
その当たり前という感覚が信仰心からくるものなのかは、はっきり言って俄かには自分でもわからない。
そこで、考えてみた。
遺伝子を操作する者が“人間”である以上、必ず失敗やケアレスミスはつきものだ、しかし人間の人体を改変や造るという行為に“絶対”に失敗やミスがあってはならないだろうことは理解できる。
しかし、支那人には失敗やミスがあっても“いいだろう”という雰囲気が見て取れるのだ、だから平気でこうした実験を好奇心や野心のままに行えるのだ。
では、なぜ支那人には平気で、私たちは平気ではないのか・・・こう考えると
そうして造られた人間あるいは改変された人間の「人権」を思うことが出来るからでしょう。
支那人には『人権』が理解できない人種なんですね。
成功したとしても、その人はどのような扱いになるのか、どう生きることが出来るのか・・・。ましてや、もし、失敗したら・・・どんな人生になってしまうのか・・・。
不幸な人が増えるだけではないのか、そしてそうした人達へいったい私たちはどれだけ責任を負えるというのか、完全に責任を負うことなどできやしない。という結論が見えてくるのです。
人間は、だれでも、その人特有の、身体的なことや性格的なこと、環境面など、どこかの面で必ず課題を持って生まれてくるものです。
しかし、自然にそのように生まれついた特性は善い方向へと能動的に『心を変えていく』ことで自分で克服していくことが出来ます。そうして自分にとっても自分の周りの人々にとっても善い方向へ行きたいと願うことは人間の本能でもあります。
しかし、愛も無く人為的に造られた人間にそのような『人間の魂』が宿るものなのか
もし、造られた人間が問題行動を起こしたら、造った機関がいちいち責任を負わなければならないことになります。
それとも、奴隷の如く扱うというなら別でしょう・・これこそ言わずもがなです。
こうしたことに考えが至るという事は、私たちは無意識のうちに本能的にともいえる程、実は「信仰心」を持っているのだということに気付かされるのです。
そう気付けるのも、皮肉な事に支那人のような反面教師が存在するからかもしれません。