生きることは、命があるからだろうか。それとも下界で、何等かの使命を終えるまで、滞在しているのだろうか・・・産まれたては、生きていること事態が素晴しい。だがそれは、成長するに従い、考え方が変わってくる。当たり前のことだが。
年を重ねる毎に、無意味な日々に厭きてくる。然しながら、自分で命を断つには、現世への思いが強過ぎる。様々な要因が妨げる。生き方とはどういうことか。誰かのために、何かができたり、自分のしたいことを叶えるため。どっちなんだろう。
自分の想いでありながら、神からの意志のままに生かされている。とも思えるが、理不尽に殺されたり、事故に遭ったり、僅かな命しか与えられなかったりする。これら全て、神の意思であるのか。人間とは覚も、ひ弱な肉体で生きる物であることか。
命が消えていくのもまた、止められない。病気で、事故で、寿命で死に到る。その決まっているであろう運命にも、逆らえない。どんなに時間を巻き戻しても、手段こそ違うが同じ結果になる。タイムパラドックスだ。延々と違った展開が続いていく。
田舎の店は、午後7時には閉店する。コンビにはない。あまり行かないので、必要はないが、極偶に用事のある時は困る。郵便局は午後6時が終了。町内に住んで居て、市内に出かけるのは半年間隔では、様子が一変するのも無理はない。
唯一の楽しみの、本屋巡りができないのが辛い。以前は、駅の地下や周辺に、本屋はあった。児童書はむろんのこと、大人の本も売れないのだろうか。本は、活字で読みたいもの。火星年代記ではないが、紙に触って読みたいのだ。
レ・ミゼラブルは、映画でしか知らないとか、演劇でしょ?等言うのにもたまげる。ビクトル・ユゴーが生まれて150年経つそうだ。戦後16年後くらいに訳が出た。今、完訳されたのを読める幸せを感謝する。生きて入ればこそだ。
庭の西側にある鉢で、育っている枇杷葉。薄緑の葉をしていて、花芽はつくが咲かない。白茂木かな?