枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

春の嵐に・・・

2013年03月25日 | Weblog

 寒いではないか。外は、嵐である。枇杷葉が折れそうなくらいに、木をしな垂れている。体にしっかり着込んで、外に出たが、吹き飛ばされそうだ。伸び過ぎた蔦を切る。注意をしていたのに、芍薬の新芽を踏んづけた。足をそっと上げる。だいじょうぶかな。

 紫陽花の枯れた茎を除ける。墨田の花火が綺麗なので買ったものだが、手入れをしないので花が少ない。場所は、北向きになり、地面にはドクダミが広がる。南天もあって、野鳥が啄ばんだ種から、小さな苗が育っている。ここにある枇杷苗は、発育が悪い。

 3月も終わろうとしている。殆んどの学校の卒業式は済み、終了式を待つのみだ。その後は春休み。子供心にも、宿題のないこの休みは、楽しいものだ。如何せん、子ども頃の思い出は、遠くの山まで焚き物作りに駆り出される、遊べない休みでもあった。

 さて、大人の足で歩いて、1時間強かかる場所まで、肩掛け荷車を押して行く。朝は早く、明けたばかりの宇宙の下を、ひたすら歩く。山奥に行くのだから、四季の旬はたっぷりで、蕨がたくさん採れた。毎日、これが食卓に上がるのは、半ばうんざりであった。

 母が、暗いうちから起きて炊いたご飯は、麦飯の混ざったもので、梅干があれば上等。添え物は、味噌漬けにした瓜や沢庵であった。お茶は、清水を汲んで沸かした。笹の葉が入っていた。箸がないと言うと、祖母が躑躅の枝を切って作ってくれた。

 父や母は、結びを食べるのも惜しんで、焚き物に静を出した。祖母の周りにくっついていて、鎌を借りてするが、切り傷をこしらえるのが落ちだった。家に居たいのだが、昼飯がない。厭が応にも着いて来るしかなかった。留守番は、犬と猫であった。

 山際に陽が掛かると、急いで帰り支度をする。肩掛け荷車に、粗方積んでいた焚き物に、乗せられるだけの荷を置く。当然のことだが、帰路も歩く。遊び疲れているのと、ひもじさに目が回り、歩きながら眠っていた。従って、窪みに足が囚われ転ぶ。

 孫たちを連れて、春休みには花見に行くことを思いついた。手始めは県内からで、年毎に距離を延ばして行った。昨年は、姫路まで。今年は、京都に行って来る予定。孫等と出掛けられる幸せを思い、自分の小さかった頃を懐古してしまう。

 満月の月も、何時の月も美しい。その日、その日で輝きや観え方が違う。神話を思う日と、御伽噺を想像する日とだ。

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