昨夜。と言っても、午前1時頃のこと。満月前の明るさに、つい誘われて履物を突っかけた。上空を仰ぐと、月が朧にかかっている。その月の周りに、大きな輪が観えた。ああ・雨が降るんだ。祖母に教えてもらった、笠をきている月の姿に、光の下で佇む二つの影を視た。
祖母が明日の天気や、2・3日内輪の雨の具合を知る手がかりは、風呂焚きの煙突からの煙の棚引き方や、風向きだったり、猫の様子だったり、蟻の動き方であった。そのどれもが、偶然ではなく、自然を基本にして営まれていた。祖母のは予言ではなく、的確な判断である。
今日日の天気予報に、一々うろたえる様には、妙に違和感がある。百姓の人生しかなかった祖母には、一生が自然のままであった。尋常高等小学校の二年生くらいしか、通ったことはない。と話していた。自分の名前が書けるくらいで、読めなかったようである。明治生まれ。
祖母がしたことは、家族のために財産を増やすことであった。今、田畑は農薬漬けにされ、荒れ果てて放って置かれている。あれでは土地が痩せてしまう。自然農法での栽培なら、豊かな実りに転じるものを。祖母や、両親が守ってきたものは、一体何であったのか。
祖母が風呂焚きをしながら語ってくれる噺は、所々飛んでいたり、ちぐはぐであったりしたが、羅生門も、高瀬舟も、浦島太郎、金太郎、一寸法師にも、容易く出遭えた。鬼が出てきたり、天狗が現われる様には、心をときめかす愉しみがあった。本が好きになったことを感謝。
高瀬舟は、安寿と厨子王の題でもあった。そこには祖母の、戦争で殺された一人息子への情念があったのかも。年老いていく身に、生きてさえいてくれたらとの願いもあったろう。春の慰霊祭には、出かけていたが、背を向けた姿が哀れに影を作っていた。叔父である。
朝から、音もなく降り始めた雨。雨脚が衰えるかと思っていたが、降り止まず出かけた。Aさん家に水を分けてもらい、頼んでいた卵を受け取る。午後の陰鬱な雲間に、川岸の桜が綻んでいる。2分咲である。我が家のヒヤシンスも花を咲かせた。図書館に返却に行く。
剪定した枇杷葉。花芽がたくさんあったので、花瓶に挿したら、咲き始めた。ちょっと得した気分です。