雨である。待ち望んでいた雨だが、しょぼしょぼと降って止む。草木が潤ってはいるが、少々足りない。枇杷葉の緑が艶めき、葉の中心が膨らんできた。朝夕の温度差に、衣類の調整が必要で、今朝はカーディーガンを羽織った。大潮・朔である。
今朝の某新聞の投稿に、高齢者への食事介助に対する、声かけの疑問が載っていた。高齢者への尊厳、と言うが、内実は子ども扱いが否めない。保育所と間違えるような態度や、言葉かけが、果たして本人にはどう届いているかは不明だろう。
だが、強ち間違っているのでもない。介助する者の、過保護になるのだ。自立を援ける目的が、介助になってしまっている。援助という言葉のあやふやさだ。転倒が多い方には、寄り添いが必要だが、何人も見る現状では、職員同士の協力は必死。
原因がわかれば対策を講じるが、それを全員がやっていかなければ、していないのと同じであろう。上に居る者の苦心惨憺にも思いを馳せ、本人にとって、何が生きる張り合いかを判断しないことには、体力も気力も低下の一途を辿ってしまう。
況して、言葉の持つ魔力には、毒にも薬にもなり得る物が含まれる。幼児言葉を使って、果たして心にすんなり入っていくのだろうか?自分が云われたらどうか。介護福祉士の資格如何に限らず、介護者の有様ではないか。やがては自分も老いる。
自分で、自分のことができるのが理想だが、集団で生活をしていると、意志は無視されたり、行動も制限される。危険が伴うのもわかる。一日を泰安に過ごしてくれれば、勤務の労度も少ない。だがそれでは不満が溜まる。自由とは名ばかりの束縛。
自分の家に居て、自分のしたいようにする手援けがほしい。と切に願う。そういった取り組みがされている所もある。『ホーム・ホスピス』と言うらしい。宮崎市にお住まいの、市原美穂さんが、9年前に始められたことで、不可能なことではなかったのだ。
人は必ず、生きている以上は死んで逝く。これは、誰にも阻止できない。然し、その老いも、病院での延命措置を受ける。遺言書を作っていても、無駄だと知っていながらも昂じる。人の死とは、厳かなものだ。この世との別れは、厳粛なことである。
最後くらいは、皆で看取ってあげたいもの。傍にいてあげられることを、幸せに思える家族でありたい。自分の命を、この世に出してくれたことを感謝し、命を受け継いでいくことの責任を想いたいものだ。自然の摂理とは、万物の生命体なのだから。
立てば芍薬。毎年、必ず優雅に華を咲かせる。年によっては、大倫になることも。どの色も美しい。