今年の夏には、蜂が巣作りをするのに、壁の風当たりのない面に向って、せっせとしていた。其処に風が当たらないのを、不思議に思って立ってみた。クーラーの人工的なものも、自然の物も同じに、そこだけ通り抜けていく。死角である。
蜂にとっては、本能であろう。人間の知恵の及びつかない場所を、知っていることにはっとした。蜂には、一夏の場所であり、子孫を増やしたら、冬場は枯葉や木の洞で越冬する。人間は、終生同じ所に住む。然し、屋移りに家は運べない。
夕方の暮れなずむ時間、ちょうど5時頃になると、鹿の鳴き声が山から響く。音程の狂った笛のような鳴き声で、雄が雌を呼んでいる。自然の中に暮らしていることのありがたさを想うが、知っている者は少ない。季節の行事さえ無関心。
十三夜を、後の月・栗名月・芋名月・豆名月とも言うが、この時期に収穫する野菜に感謝して、お供えをするものだ。行事には、皆謂れがある。古来、その節目毎に、神仏に祈り、感謝して、その恵みを分けて頂いていた。異変も察知した。
村長さんは、村民を守るために、自分の足で隈なく見て周り、修繕の段取りをしたり、防備に備えた。今は、余りにも情報だけに頼り過ぎだ。大地の異変に気づくのは、其処に住まう人々の筈。自然からの警告を、心して傾け、聴かなければ。
台風が発生して近づきつつある。福島の汚染水を垂れ流しのまま、地球全体に周っている。その事実に真摯に耳を傾け、その対策に本気で取り組まなければ、オリンピック開催など、あり得ない。そもそもおもてなしの初歩ができないでは。
福島を置き去りにして、オリンピックで騒ぐとは、本末転倒である。仮設住宅での生活にも、耐えられる限度。哀しみの癒える時間も、各自に異なっているだろう。皆、同じでないから、十把一絡げにしないでほしい。何か、違和感が残る。
初夏の、薫風に揺れる薔薇。庭のあちこちで、可憐な色が咲き競う。アブラ虫退治にも、油断がならない。