枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

物思う・・・

2014年02月01日 | Weblog

 人間の生死とは、如何なることで左右される物だろうか。生まれた以上は、必ず死を迎えるのだが、あるいはまた、その長さにも依るのかもしれない。長生きする者も、短き生きざまもあろう。然しそれらのどちらがいいかは、誰にも決め手がないもの。

 それでも、どんな理由があるにせよ、わが子を親を殺せるものなのか。躾と言うのは、親である自分が、思慮分別のできる人間であること。何が正しいかを見極められること。他人の忠告を聴くことも大切なこと。紆余屈折がなくては、大人にはならぬ。

 ソロモンの偽証、やっと読み終える。この話は、あちこちであるかもしれないし、ないかもしれない。中学生の裁判など、誰も認めてくれないことだろう。果敢な勇気を誉めたいもの。他人に殺される人間は理不尽極まりないが、自分で命を断つのはどうか?

 孤独な心が、闇で揺れ彷徨う。止まることを知らずにか、また停止して動けないのか。生きている時には、傲慢であり豪語する者も、魂が離れれば宇宙に還る。其処では性別も、形も、心もない。あるとすれば、質量だけかもしれない。それもないかもだ。

 宇宙が混沌としていた頃、人類の形は無く、微生物の浮遊する世界では、どれが偉い等はなかった。目的も、意思もなかった。では、何かがあったのか?自分と言う、存在自体がわからなければ、或いは存在も定かではなくなるだろう。意志と体と機能。

 人間の体っていうのは、実によく出来ている。と思うのだ。その働きがどう作用するかで、幾通りもの人間模様ができるのだ。百人居れば百色の模様。織り上げる錦は違っていても、この世に存在することは同じ。星の輝きも似て、奏でる旋律も異なるのだ。

 そろそろキリ番が近い。明日は、孫の誕生日会で、恒例の集まりをする。春、真っ盛りには中学生になる。この孫等が大人になる頃には、原発や暮らしはどうなっているのだろう。福島第一原発の5.6号は廃炉に決定。平和である世の中を、切に願うのみ。

 パソコンの部屋に置いてある、観葉植物だが、居心地がいいのか、どんどん育っていく。あんまり構わないのがいい?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする