介護の仕事をしていて、哀しくなるのは意志の疎通ができなくなること。相手は病気だと知ってはいても、通じない想いになす術もない。どんな人にも、これまで生きてきた年月がある。それらの全てを理解することは不可能。許容範囲の豊かさにも繋がろう。
先ずは、自分のされたくないことはしない。そうは言っても個々に異なるから、自分を基準にはできないが、土足で踏み込むのは避けたいもの。当たり前のことが、自然にできるのが、最適ではある。さりげなく、という謙虚さが必要でもあり、培っていきたいもの。
風呂に入れる、ということの意味には、決してシャワー浴でない、湯舟に浸かる動作がある。最終的には、リフト浴があるが、平行移動しての方法も、可能な限りは行える。出来た時の喜びは無論、本人の笑顔に、どんなにか救われる。足の爪も切れるのだ。
以前、気難しい方が居て、物言いや動作で機嫌を損ねる。かといって、無理矢理もできない。入浴当番の時に、最後になるかもしれない想いが湧き、お風呂に誘ったら、にこっとして頷き、入ってくれた。それから程なくして亡くなられた。忘れもしない出来事だ。
あんたとなら入ろうか。ええ按配じゃ、気持ちがええわぁ。その言葉の全てに、感謝をした。こちらこそ、入ってくれてありがとう。その人の湯加減を見て、足元に細心の注意をして、満足してくれる心を添わせる。人としての当たり前の行為でもある。教えられる。
母や父にも、してあげたかったことだ。実際には何一つ、満足のいくことはできていなかった、とも思う。仕事であるからしたとも言えるが。それでも、ありがとうを言われた時には、返す言葉が見つからなくて、胸が詰まった。父母の墓掃除とお参りは欠かさない。
ありがとう存じます。お礼を言うのはこちらです。多くのことを学ばせてもらい、教えてもらったことも数知れず、それらを生かして、仕事に励みたく思います。うれしいことよりも、辛かったり挫けそうなことの方が多い。何時も目の前のハードルは高くそびえている。
リエさんから、父へのお悔やみに頂いた。たくさんの中で、この種類が今以って元気です。