霞がかかっているような空に、午前中に友人が訪れ、珈琲1杯で退散。何でも、孫連れであるためだそう。その後、図書館に寄り、返却と貸し出しをする。佐渡伝説と日蓮伝説を借りる。カレーの用意をし煮込み、蛤に塩を入れてストーブにかけておく。焼塩。
佐渡伝説・・・を紐解き読み出し、冒頭の内容に戦慄を覚える。そうだ。この話を知っている。でも、誰に聴いたのかは、判然と思い出せない。賽の河原に居たことはなかったか・・・あの不思議な光景の向うに居るのは祖母?来てはいけない、手の平で示す。
そこで眼が覚める。時計を見ると、真夜中。草木も眠る丑三つ時のことが多い。金縛りで体が動けなく、形容し難い物が、其処にいるのがわかる。余りの恐怖に声も出ない。変わりに冷や汗がびっしょり出ている。そういう体験をすること自体が不可解である。
孫が、音読をすると言うので聴く。初雪の降る日・安房直子に、えっと声が出る。全集にあっただろうか?彼女の作品は、単品と全集で持っているが、はて?孫は気を利かせて全部読んでくれた。あっちとこっちの世界を描かせれば、右に出る者のいない作家。
井上靖のしろばんばを思わせるような、幻想的な話にしている。彼女の得意とするところだ。亡くなって随分と経つが、惜しい作家だった。下手に言葉を飾り過ぎず、不思議な世界を創り出せる、数少ない児童作家。ねこじゃらしの野原、天の鹿、きつねの窓。
最近の読み物には、過剰な書き方が多く、読んでいてげんなりする。花におをつけ、やたらと子どもに、あげるを連発する。お花にお水を上げるなど、絶句以外の何物でもない。然し、それを新聞を初めとして、良識のある大人、文学作家がしていて呆れる。
花に水を遣る。或いは、子どもには物を与えるが正しい。酷いのは、猫や犬にあげる表現に、二の句が告げれない。これで、挨拶がきちんとでき、秩序や法を守っているなら納得。何様なの?の馬鹿莫迦しいタレントも多い。従って、どのチャンネルも観ない。
四季咲きの銀木犀。買った当時は、確かに季節の初めには咲いていたが、そこはやはり秋口しか咲かない。