昨日とは打って変わっての、穏やかな天気に布団を干す。どうにか2時までに、空も曇ることは無く仕舞う。庭の配置換えも済ます。クリスマスローズが開花し、華やぎが増えた。プランターをひっくり返して、土を移す。球根も芽を出してきている。
我が家の梅は、依然として硬い蕾だが、水戸の梅祭りが始まった。奈良の二月堂の御水取りも近い。氷溶け去り、葦は角ぐむ、という歌詞に、春の足音を感じるが、未だ遠く感じる。季節が徐々に廻って、その時々の様子を見せるのが愉しみだ。
霊魂が憑依することを、実際に体験したり、目の当たりにした者には、信じ難い思いもあろう。あの不思議な感触は、言葉では到底表せない。これまでの経験からすれば、自分の体の状態が、事実患っている人に遭うまでは、捗々しくは治らない。
触るか、遭うかのどちらかだが、病気の部位がわかる。以前にも、そういったことがあり、枇杷葉の力を借りて治そうとしたことがある。然し、絶対に開腹しないことを約束していたのだが、如何せん、唯の民間人の云うことには、根拠も証拠もない。
信じることの難しさを、今更のように想うが、こちらは資格もなければ、免許もない。見たり感じたりするだけでは、治せないものと判断される。リエさんには、自分の命と引き換えにする想いがなければ、援けられないとも。ナイチンゲールの心境。
個人的には、無欲でもなければ、金が目当てでもない。また、命を自由にできるとも想ってはいない。然しながら、痛みのない時間を少しでも与え、笑顔の宿る顔にしてあげたい。枇杷葉でそれが可能なら、とも考えてしまう。神への冒瀆になるか。
産まれたら、必ず死に向っている。その覚悟が、何時心に生じ、悟れるかは疑問だ。覚云う自分にも、そういった想いは未だないからだ。だが、何度もあそこまで往ってくると、魂の在り方を問いたくなる。何故、そういった経験をするのかは、答がない。
友人の持って来てくれた、あけび。山女とも通草とも書く。子ども頃には、路の至る所にあって、お八つになっていた。花粉症にも効果が。