歯の痛みを、ずっと堪えていたが、明日が日曜日なので、勤務を終えて飛び込む。埋めていた箇所を取って、処置してもらう。痛みが軽くなる。そこで思ったのが、もう2ケ月あまり、痛みを堪えていたことに気づく。然も、Drに鈍痛を訴えていた歯だ。
保険が利くからとはいえ、詰めている物を外し、新たに処置するのだが、無料ではない。ぶったくりじゃない?勤務先であるので、近いのがいいだけで、何だか腑に落ちない治療である。自分でできないので、こればっかりは仕方ないが、釈然とせぬ。
然し、枇杷葉の焼酎漬けを湿布にして、勤務をしていたが、辛抱と言うか、我慢強いと言えるのか自問する。三日の痛みの我慢に、やはり限度はある。直ぐに、医者に行かないのも、何とか治まるようにと、塩を摺りこんでもいた。菌の進入であった。
痛み止めも、以前出ていたのより、やさしいのにしてもらう。効き過ぎると、はりきってしまうので、更なる疲労に陥るからだ。実感として、若くないことを思う。無理はできないことも、身を持って知ることになる。でも、他の人が動かないと、どうしても・・・。
苦しくても、哀しくても、ひたすら堪えていると、人格に変化が出たり、行動も怪しくなる。精神的に追い詰めらて、気が狂う感じなのだろうか?とも。人間は、何で行動を逸し、殺人に走るのだろう?自分以外の者を傷つけて、心のバランスを崩してしまう。
罪は罪だし、それに依って罰を受けねばならない。殺された者には、無念の想いがあろう。殺されて好い者など存在しない。然し、そういった形なら、裁きを下すことはできるが、戦争という国の争いにも、同じ事が云えはしないか。殺人には変わりない。
地球人としての自覚と、人類としての使命は、各々異なっているかもしれないが、何等罪咎のない者を殺すのは、絶対にしてはならない。民を労わり、同じ目線に落りていかねば、真の指導者とは云えない筈だ。個人と、公人の違いはあるだろうが。
秋の気配を感じる頃、庭に下り立った。風も心なしか涼しいし、枇杷葉の苞が愉しみな思いだ。