枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

葉月、十五夜・大潮

2020年10月01日 | Weblog
 昨夜も雲の多い夜半であり、真夜中を過ぎた時点からは雨となった。で・今朝は抜けるような青い空に、今晩の月見を期待する。おおっ、月見団子を作らねば、と白玉粉を探すが弁当配達後とする。祖母が生前片見月にはしないのがいい、と教えてくれたことを想いだす。連れ合いを亡くし矢立てとなったことが応えていたのだ。田舎は風習が残るから。

 何故差別は無くならないのか?人種も肌の色も同じなのを、何を以って決めるのか。死んだら骨になるし、身体は借り物であるので失せる。あかんべえを読破して、そこに怨霊というか憑りつかれた魂が残れば、人は成仏出来ないとも思われるが、肉体はなくなるものだからだ。神界も仏界も尽きるところは同じで、言い方が異なるだけで変わるのだもの。

 無になればなるほど、そこには何も存在しない。あらゆる命が集まる場所には闇しかない。時々、光が瞬くものの存在事態が無である。森羅万象の混沌とした闇に産まれる命は、実に小さな光でしかない。星も同じ命である。手塚治虫の描くブラフマンとは、万物を司るものであり無でもあるのだ。命の誕生には、月の運行と潮の満干潮は繋がって果てしない。

 福島原発事故での国の責任は重い。核の塵が気の遠くなる年月で、それも誰も見届けられない期間に及ぶ事を重々知っていながら、電力会社に加担したのだ。罪も同じくだ。嘘ばっかり吐いて信じ込ませ、当地に棲むもの全てを破壊した。罪状は逃れられることではなく余りにも遅かった結論でもあるし、延いては今尚広島も長崎にも確実な保証はしていない。

 新内閣での予算が膨大な数字になっている。国民への付が大き過ぎるのは分り切ったことだが、年金を廃止して財政を切り崩して、庶民の生活の何が守れるんだろう。何を於いても国会議員の数を減らすことと、報酬のカットが先決でもある。国民・否庶民が生きて行くことに躊躇する愚策は要らない。底辺で生活できない者が増えて行くばかりを止められぬ。

 枇杷葉の葉の中心に苞が見え出した。リエさんのやサンタさん、暁子さんのにも沢山付いているのに小躍りする。今年は、不安定な天気と気温であったから、どうなのかしら?と思っていたのが多少は晴れた。やれやれと安堵するが、結実迄の期間にも気は抜けない。どんな些細なことにも祈りと感謝を忘れてはいけないと、慢心する驕りを振り払っている。

 枇杷葉茶をわたくしの話した通りにする方と、ぞんざいないい加減であれば、効果は直ぐに現れてくるのも不思議だ。血糖値が400?規則正しい食生活であれば、そんなことにはなりません。枇杷葉茶も飲めばいいのではありません。病気を治したい・良くなりたい想いでの、治してもらえることへの感謝です。それが無かったら無駄なことで愚かしいこと。

 新幹線での上京時に携帯で撮った。10月頃が初冠雪であったり、前後することもあるが雪を戴く姿は、何を於いても美しい。
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