日々のあれこれ

現在は仕事に関わること以外の日々の「あれこれ」を綴っております♪
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十字軍物語 1⃣ 塩野七生 

2021-08-08 18:31:21 | 読書

 

聖戦への呼びかけ

 キリスト教徒にとっては魔法の言葉、「神がそれを望んでおられる」

1095年、フランス クレルモンで開かれた公会議の段階では、3つのことのみ、決定した。

❶ キリスト教同士は、「神の休戦」にただちに入ること。

❷ 聖なる戦いに参加する者たちは、赤い布で作った十字の印をつけること。

❸ 出発は、翌年 1096年聖母マリアの昇天祭8月15日とする。

 

法王ウルバンの考えが、他の何よりも先に、ヨーロッパの君主間で行われていた戦争を止めさせること、すなわち 「神の休戦」の成立ににあったのだろう。しかし、戦争は、「やめさせてくれ!」と神に唱えただけでは止まない。あの時代、西でぶつかるパワーを別の方角、東へ向けさせるしかない。東方へ向かうならば、同じ休戦でも「神の」とつけることが可能となり、「イェルサレムの解放」という、当時のキリスト教徒にとって、これ以上のものはない、「大儀」「名分」をもてた。

法王は大勝負に打って出た。そして、法王のもくろみは成功する。西欧全域のキリスト教徒の胸を熱くし、また熱くまでならずとも、反対はしにくい、ということで。

 

 人は熱しやすくて冷めやすいことを見込んでか、法王は直ちに以下のことを発表する。

❶ 十字軍に参加すれば、完全免罪符が与えられる。

人間は生まれながらに原罪である、というのがキリスト教カトリックの教理の基本だが、これに日々の生活で犯す小さな罪も加われば、よほど悪いことをせずとも、死後の天国行きは危うくなる。また、完全免罪とは、殺人などを犯した者も許されるということ。

 

❷ 病気などで参加困難なものは、衣類などを寄付すること。

❸ 発つものが残していく財産は、ローマ法王が保証人となり...以下、略。

❹ 十字軍参加に必要な費用捻出のため、資産を売る必要がある場合、それが正当な価格でなされるよう、法王が保証、監視する。

…と❻まである。

これらをみると、ある程度の資産があり、相当な程度に組織された軍事力を東方へ送るつもりでいたようだが、”計算違い”は起こる。

(22~28ページまとめ)

 

隠者ピエールと貧民十字軍

このフランス人修道僧は、ロバに乗って村々を回る巡回修道僧の一人だった。中世の下層民にとっては、日々の生活がすでに苛酷だったのだから、ピエールの説く説教と十字軍参加は、厳しい日々からの解放だった。失うものがない彼らは、すぐに発つことも出来た。こうして法王の意図とはかけ離れた 「貧民十字軍」が結成されつつあった。

法王ウルバンのアピールは、本当は軍事力を持つ君主たち(皇帝や王)に向けられていたのだが...。

 

貧民十字軍の運命

 

 所変わって、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)。

古代ローマ帝国時代と比較すると、東側の殆どの領土を失い、更には古代ローマ時代と違って自軍を持たない皇帝は、傭兵を使うのに慣れていた。これまでも再三に渡り、援軍派遣を法王に要請してきた皇帝アレクシオスだったが、それらはことごとく無視されてきた。そこへきて、十字軍遠征である。しかも、十字軍はひとまず、ビザンチン帝国の首都、コンスタンティノープルを目指すという!

皇帝アレクシオスが十字軍遠征を自らの領土奪還に(とはいえ何百年も前に失った領土だが💦)或は自国の防衛に利用しようと考えたのも、無理はない。

当時、トルコの脅威から首都を守っていた兵は、イギリスから逃れてきたサクソン人が多かった。それ故、十字軍も即戦力でなくては困る。

ところが皇帝が見たものは、武器らしい武器も持たず、ヨーロッパからハンガリーを横切り、バルカン半島を南下してくる間に消耗し、数は出発当時の半分近くには減っていたとはいえ、乞食の大群が押し寄せてきたかのようにしか見えない。中には女子供もいる。こうした数万の群衆が、衣食住を要求してきたのである。首都近郊の住民からも不満が沸き起こった。ビザンチン帝国領であるバルカン地方で貧民十字軍が行った強奪、狼藉は弁護の余地もない蛮行ではあった。(絵で見る十字軍、参照下さい)

 

皇帝は、貧民軍の都市入場を禁じ、ピエールにだけは入場を認めた。皇帝から貧民十字軍へは、とりあえず衣食が与えられ、ボスフォロス海峡を渡り、小アジアへ上陸するための船まで用意された。

ただ、これは、貧民十字軍をイスラム兵士達が待ち受ける、小アジアへ放り出したということだ。ひとことで言えば、”厄介払い”だった。

迎え撃ったトルコ軍との対戦により、イスラム側の記録によると、2万の死者が出たらしい。一部の貧民とピエールはコンスタンティノープルにいて助かったが、多くは小アジアへ足を踏み入れた途端、消滅したのだった…。

 

 

 1096年、十字軍参加を誓った諸侯たち、(皇帝や王の下に来るもので、とりあえず落ち着いた)第一次十字軍が東方へ出発

 1097年、イェルサレムへの道に立ちはだかっていた最大の難関、シリアの大都市、アンティオキア攻防始まる。

アンティオキアの殺戮

アンティオキア市内に乱入したキリスト教徒の殺戮は、凄まじかった。「イスラム教徒を殺し、聖地を奪還するのが神の望みである」と法王のお墨付き。十字軍の兵士のみならず、あとに続いた巡礼者も「安心して」殺しまくった、とある。(『絵で見る十字軍』42ページ)Σ(゚д゚lll)ガーン

 

翌年、6月3日、攻防に成功。

わずか1日でアンティオキア市内には、生きているトルコ人は一人もいなくなった。市内にはイスラム教徒しかいないと思い込んでいた十字軍が、騎士も兵士も巡礼者も共に、安心して殺しまくったからだった。

翌日、殺戮と破壊に疲れ果てた十字軍は、食料倉庫まで炎上させたことに気付く。市内には、口に入れられる物は、何も残っていなかった。

その後も、食料を提供できる近郊の町や村があってこそ、都市として機能出来る訳で、諸侯たちは近隣の町や村への制覇行を怠ることはできなかった。そんな中、事件が起こる。

イスラム側の資料によれば、人食い事件で、食われたのは10万の住民すべて、となっているが、現代のイスラム研究では、1万前後であったと改められている。

サン・ジルがマラト・アヌマンの町に置いてきた兵士たちが、殺された住民の肉を喰らったという知らせがアンティオキアにいた諸侯たちを憤慨させた。住民は残らず殺され、何も食べるものがないまま残された兵士たちが、飢餓に耐え切れず行ったことだった。

だが、この一件が、イスラム側に、キリスト教徒=食人種、という噂を広めることになる。(160ページまで まとめ)

 

  1099年、イェルサレムの解放

 

 タンクレディと配下の兵士たちは、女性と子供達ばかり300人が隠れているアル・アクサの神殿へ足を踏み入れた。命は助けると約束し、奪った宝物を保存する場所を探しに出て行った。その後、乱入した兵士達によって中にいた300人と共に焼き払われた。

この攻防で、イスラム側の死者、2000人分の首が塔の中へ投げ入れられ、残り2000人の首は、ビザンチン帝国皇帝へ送付された、とイスラム側の記録にはあったが、現代の歴史家は、「数個は投げ込まれた」と書いているらしい。

ハンガリー問題で忙しく、この時期の約20年間、十字軍に関与していなかったベネツィア共和国の記録がないため、正確な数字は分からないとのこと。

 その後、18年を費やしてシリア・パレスティーナの地に十字軍国家を確立。ゴドフロアが最初の王、「キリストの墓所の守り人」となった。

 

第一次十字軍の主要メンバー;諸侯たち

トゥ―ルズ伯、サン・ジルと法王代理の司教アデマール

ロレーヌ公、ゴドフロアと、弟のボードワン

ブーリア公、ボエモンドと、甥のタンクレディ

 

これらの主要メンバー率いる軍勢の数は、大げさな数を指し引いて約5万。

この十字軍では、最高司令官は最初から最後まで存在せず、利己主義で仲間割れすることもしばしば。

そしてそれは、イスラム側も同じだった。

この時点では、イスラム側の領主たちは、「遥々、領土拡大目的でフランク人(西ヨーロッパの人々)やってきた」としか認識しておらず、「なぜ、わざわざ遠くからやってきたのか分からない」と思ったがゆえに不意を衝かれたが、少しずつ体制を立て直す。

 

これ以降は、建国した「十字軍国家」を守る戦いの歴史、となる。

 

Comments (6)
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