リチャードとサラディンの講和は1192年。
講和の期限は3年8か月と決めた。
では、その”後” は再び戦闘状態になったのかというと、全く ち・が・う!
期限切れの1196年には平和が破られてもしかたなかった が、そうならなかった。サラディンは1193年に亡くなっている。リチャートも1199年にこの世を去った。それでも尚、二人の間で締結された講和は更新され続けた。
兄、サラディンの権力と地位のみならず、その ”想い”までも受け継いだ弟のアラディールが更新し続けたからだった。
そのアラディールには、キリスト教側に格好の協力者・理解者、バリアーノ・イベリンがいた。
イベリンが世を去った後も代々のイェルサレム王に受け継がれ、アラディールは1211年、その前年に王位に就いたブリエンヌとの間で、講和の更新をしていた。この講和は1217年までの6年間。これがアラディールがキリスト教側と交わした最後の講和、つまり共生の試みの最後だった。
1192年から1217年までの共生。実に四分の一世紀の25年間!『人』と『物』が交流し、双方が平和を享受した。特に経済の方は盛んになる一方だった。
ヨーロッパから十字軍がやってくる、となれば、平和が享受出来なくなる状態になること。「十字軍❓ やってこなくてもいいよ」中近東に住む大方のキリスト教徒の気持ちだった。
一方、ヨーロッパでは~
しかし、ヨーロッパに住むキリスト教徒は、そうは考えなかった。
まず、第四次十字軍でヴェネツィア共和国に大きく距離を開けられたジェノバが第五次十字軍に参加することで失地挽回を期したから。
次にローマの法王は、”今度こそ” 十字軍の主導権を(前回はフランスとヴェネツィア共和国だった)法王庁に取り戻そうと、法王ホノリウスは、「法王代理」ぺラーヨを送り込む。この人がまた、最悪なんだわ...
フランスなどその他の王は、神の戦いどころか、人間の戦いに忙しく、この時期、十字軍どころではなかった。
他にはノルウェーの王、ハンガリー王、オーストリア公が向かう。しかし、彼らは聖地を訪れ聖遺物を貰うや帰国したため、結婚資金を都合してもらい、法王庁に弱い立場にあったイェルサレム王、ブリエンヌが法王にお尻を叩かれエジプトへ向かった。
こうして、中近東のキリスト教徒が全く気乗りしない形で、第五次十字軍となったのだった… アーメン。
この時、アラディールは73歳という高齢者になっていた。長男のアル・カミ―ル、ほら、あの12歳の少年だった、彼ですよ! すでに38歳となり、有能な指導者だったが、新旧の世代交代期は、長年善政で鳴らしてきた旧世代が退くだけに、シリア派、エジプト派の間で権力の引き合いという問題も表面化し、微妙な時期だった。
1218年5月24日、キリスト教側、ダミエッタ上陸。
このことを知ったアラディールもエジプトへ向かう。
父からエジプト統治を任されていたアル・カミ―ルもエジプト軍を編成し、北上。ジェノバ艦隊攻撃開始から3か月後、ダエミッタ陥落。
その一週間後、かつてリチャードが、「話が分かるイスラム教徒だ」と感心し、彼の側近から「フランク人みたいなイスラム教徒」と言われたアラディールも、そのフランク人に攻められる中、この世を去った。73歳だった。
そんな中、法王代理がダミエッタ到着。
どちらに指揮権があるかで、法王代理ペラーヨとイェルサレム王プリエンヌの間で日増しに険悪化。
アル・カミ―ルも突如、軍を撤退。弟の一人を担いで反旗を翻した大守の一派を鎮圧するためだった。
双方とも、動きが取れない状態に。
この時期、修道僧フランチェスコが登場。どのような経緯で参加できたのかは分っていないらしいが、アル・カミ―ルに敵の陣営地で直接会い、キリスト教徒に改宗するよう、勧める。スルタンの周囲に居た人達は、殺気立ったらしいが、少年の頃、騎士に任命されたアル・カミ―ルだから~ 微笑して、キリスト陣営へ送り届けるよう命じただけだった。
アル・カミ―ルから、講和の提案 (1)
10月、ダミエッタを攻撃中の十字軍をスルタンから特使が訪れ、講和を提案。その内容は、十字軍には信じられないものだった。
エジプトから出て行ってくれさえすれば、イェルサレムは返す、というのだ。
しかも、リチャード・サラディンの講和でイスラム側の領土と決められたガリラヤ地方までも返還する用意あり、というのだ。
しかも! これらに加え、これら地方に点在するキリスト教側の城塞の維持費を毎年、支払っても良い、とまで言うのである!
想像もしていなかった好条件に、イェルサレム王も領主たちも講和に大きく傾いた。なにせ、十字軍の最終目的は平和と聖地奪還だったのだから。
と・こ・ろ・が、である。
あの「法王代理」が立ちふさがる。
「そもそも異教徒と講和など、結べるか~! 話合などもってのほか!全員殺せ! 神が望んでおられる」
「血を流すことで奪還しべき!」
これ以上はない好条件を…受け入れず、拒否。
その結果、2年の攻防の末に陥落した。市内に流れ込んだ十字軍によって、逃げ場所がないイスラム市民の多くが殺される。
だが、今度はダミエッタを誰が統治するかで法王代理ペラーヨとイェルサレム王プリエンヌは揉める。
結局は、ヨーロッパから「しかるべき人」が来たら、その人に~ということで落ち着く。
この時点では、争う二人に具体的な「しかるべき人」が頭にあった訳ではないが、その後、26歳の誕生日を迎えたドイツ皇帝フリードリッヒが国内安定後、「十字軍遠征へ行く」という約束の許、皇帝となったことで、「フリードリッヒ待ち」となった。
アル・カミ―ルからの提案 (2)
十字軍のこの動きを察知したアル・カミ―ルは、十字軍が待っているという、この人物について情報取集したらしい。カイロに滞在していたヴェネツィア領事や商人たちから。英名であり、戦闘巧者。「赤ひげ皇帝」と呼ばれた男の直系であること。
これには考え込んだ、だろうね。あの大軍を率いて(溺死はしても)サラディンでさえ眠れぬ夜を過ごしたことは、父から👂にしていた。
翌年、2度目の特使が送られる。
講和の内容は、1回目と同じ。更に次の2項が付け加えられた;
❶講和の有効期限を30年とする。
❷イェルサレムの城壁の再建費用は、イスラム側の負担とする。
前回より更に好条件の講和の申し出に、十字軍側は動揺した。
だが、またもや、あの「法王代理」ペラーヨが反対した。
これほどまでに寛容な講和を二度も拒否されたアル・カミ―ル。
そこへ、この年のナイル河は、増水量が多く、上流から満々と流れてくる、というのだ。アル・カミ―ルは勝負にでた。
ダムの水を毎年、調整していたのだが、この年はしなかった。水があふれだす直前まで待ったのだ。そして一気にダム自体を破壊した。
ナイルの水路にそって北上中だった十字軍。
荷物や兵士、🐴までも流される。町中も安全ではなかった。洪水となった水があふれ、ジェノバ船も近づけなくなった。敵中で孤立無援だった。
この状況を知った、アル・カミ―ルは3度目の使者を送るが、その講和の内容は前2回とは全く違った。
❶ダミエッタを放棄し、キリスト教軍はエジプトから完全に撤退する。
❷この講和の有効期限は8年とする。
これが3年をかけた第五次十字軍の終わり方だった。
アル・カミ―ルは、講和で約束した8年の不可侵を守る。そればかりか、講和に記さなかったサラディン・リチャード間の講和に明記された講和も守った。
なので、この3年間を除き、1229年までの間、再び二人が結んだ講和の状態に戻った。要するに平和を享受できた。
まぁ、第五次十字軍とは、やっただけ無駄、であり、その責任は法王と法王代理のペラーヨにある。「不信仰の徒とは、話し合わぬ」「講和など結べぬ」「血を流して奪還」狂信的な信者ほど怖いものはない…
…で、ですね。
塩野七生さんが、最後にまとめているのです。
「戦争は、人類にとって最大の悪業である。にもかかわらず、人類は、この悪から抜け出すことができないでいる。
ならば、戦争を 勝った、負けた、で評価するのではなく、この悪を冒した後にどれだけの歳月の平和がつづいたか、で評価されてもよいのではないか」(288ページ10行~11行)
サラディン・リチャードの講和のあと、3年の負があったとしても、(法王に尻たたかれて)更に8年の平和が続いた、ということは、ここまでで、すでに33年間になる。
もしも、さらに平和を享受したければ...
イスラムにはサラディン、弟アラディールの想いを受け継いだアル・カミ―ルがいた。
キリスト教側は?
無血の十字軍を指揮した、皇帝の登場である。