そして誰もいなくなった
第一次十字軍の主役たちが亡くなったことで表舞台には誰もいなくなってしまった。
諸侯もそうだが、兵士達にも寿命がある。西ヨーロッパを発ってから、すでに20年近くの歳月が流れていた。
ゴドフロア、ポートワン一世がイェルサレムの王であったのは19年間。その後を継いだポートワン二世の統治は13年間、続いたが、その多くはシリア・パレスチナの北から南までゲリラ戦に費やした。兵力は失うばかりで猫の手も借りたい状態だった。
聖堂(テンプル)騎士団の誕生
世俗の騎士団と違うのは、彼らは修道士で「宗教」騎士団であり、王にも皇帝にも諸侯にも属さない騎士の集団であること。
始まりは、ポートワン二世が王になった頃、フランス人の2人の騎士(リーダーはユーグ)が王の許を訪れたこと;
「自分達二人の他にも7人の仲間がいる。自分達にイェルサレムまでの道の防衛をまかせていただきたい」、と申し出た。王はこれに飛びついた。
彼らは改宗を勧める、という段階さえも踏まず、「問答無用」という感じの「抹殺」を会則に明記した。(人斬り集団と恐れられた新選組のようですが💦)
聖ヨハネ騎士団の変貌
「誕生」ではなく、「変貌」であり、表舞台への「登場」である。十字軍遠征が始まる半世紀ほど前には、母体は存在していた。
ただ、当初は宗教騎士団というよりは、「病院」だった。キリスト教徒のみならず、イスラム教徒も患者であれば診ていたのだから。
テンプル騎士団は、フランスの騎士が集まって結成されたが、聖ヨハネ騎士団の方は、イタリア人の商人によって創立された。異民族との交易で栄えたアマルフィ、ピサ、ジェノバ、ヴェネツィア共和国の4都市国家である。商人マウロは、エジプトのカリフに頼んだ。「巡礼に訪れるキリスト教徒のために、診療所を建てることを認めて欲しい」と。こうして医療サービス提供を目的として始まったのが、聖ヨハネ騎士団だった。
最初は商人によって運営された病院も、少しずつ、修道士という聖職者の手に移っていく。商人は本業があったが、修道士は慈善事業では、専従者になれたからだった。
キリスト教徒が攻めてくるようになると、「石を投げよ」と命令が下る。しかし、彼らもキリスト教徒である。同じキリスト教徒に石は投げられない。そこで、初代会長ジェラルドは、こっそり石ではなく、パンを投げ落としていたら、それがバレてしまい、処刑されることになった。
彼にとっては運よく、処刑される前に「イェルサレムは解放」され、以後、医療だけでなく、対異教徒の戦闘も行う集団に変わったのだった。
修道僧ベルナール
第二次十字軍は、同じくフランスにある修道会でも、より急進的なシトー派の修道院の関係者によって起こることになる。
法王エウゲニウスの許で、第二次十字軍を実際に作りだし、オリエントへ送り出した修道僧ベルナールは、テンプル騎士団を賞賛した書の中で、次のように書いている。
「イスラム教徒は、諸悪が詰められた壺である。悪魔の手によって作られた、われわれでも現実に眼にすることができる、悪の標本だ。
この者たちに対しては、対策は一つしかない。根絶、がそれである。
殺せ! 殺せ! そしてもし必要になったときは、彼らの刃にかかって死ぬのだ。なぜならそれこそが、キリストのために生きることになるのである。」(98ページから抜粋)
第二次十字軍をイスラム側から見、そしてそれを日本史の言葉に置き換えると、塩野七生さん曰く、次のようになる;
第一次十字軍のときは、攻め込んできたキリスト教側が、「大名」たちであれば、イスラム側も、アタべタ、エミル、と呼び名は別々でも「大名」が迎え打ったのである。そして軍配は、キリスト教側にあがった。
第二次十字軍では、「将軍」が自ら率いて攻め込んできた。しかも、「将軍」は二人もいた。その下の「大名」の一人が守りが固いダマスカスを攻めあぐねていて、もう一人の「大名」がアレッポから接近中と聞いただけで、軍を引いた。しかも、わずか4日の戦闘を行った後に、である。
イスラムの「将軍」は二人とも、バグダッドからも、カイロからも一歩も動いていない。つまり、キリストの将軍二人は、イスラムの地方大名に追い返されたということになる。
このイスラム側の感想は、そのままイェルサレムにいたキリスト教徒にも当てはまり、
「こんな失態をするだけなら、十字軍など派遣しないでくれた方が、まだ良かった」となったのだった。
(101ページまで、まとめ)
イスラムの反撃始まる
ザンギの息子、ヌラディン登場。
サラディン登場。
そして「聖戦」(ジハード)の年
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